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第10章 奈落の底が大混乱
11 お勉強会
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「――随分と幸せそうじゃないか、義姉上」
「うん? えへへ~、幸せです~~」
ふにゃあと蕩けた笑みを浮かべる綾那を見て、維月は「それは何よりだな」と肩を竦めた。
場所は騎士団宿舎の応接室。今日は、ついに維月と渚を引き合わせる日である。
――綾那と颯月が夫婦になってから、一週間。綾那はすぐさま私室を引き払って、颯月の部屋で生活するようになった。
今まで執務室で仮眠をとり、風呂や洗濯も魔法で済ませていた颯月。しかしそれも、部屋で綾那が待っているとなれば行動が変わってくる。
夜の散歩は以前にも増して短くなり、日が変わる頃には部屋へ戻って来るようになった。着替えも風呂も魔法で横着せずに、自分の手でするようになったし――まだ絶賛リハビリ中であるため、綾那の手伝いも借りているが――随分まともな生活を送れるようになった気がする。
ただ、颯月はどうしても正妃の教育――もとい幼少期のトラウマが邪魔をするようだ。まだ、己の身の回りの世話がスムーズにできない。周囲に王太子だと知らしめるため、どんな些細な事でも使用人の手を借りるよう厳しく教育されたと言うから、仕方ない事なのかも知れない。
例えば自分一人で服の袖に腕を通し、ボタンを閉めようとするだけでグッと眉根を寄せて、手を止めてしまう。辛い記憶がフラッシュバックしてしまうのだろうか。
(一体、お義母様にどんな厳しい躾をされたんだろうな……)
鞭で叩かれるような、体罰だけはなかったと思いたい。
しかし、自身の世話はまだ無理でも、「楽しい」と思える事ならば幼少期のトラウマにも勝てるらしい。それが綾那の世話である。
綾那のために食事の用意をするのも、風呂や着替えの手伝い――身の回りの世話をするのも、楽しさが勝るために問題なくできるようだ。
彼は確か己の身の回りの世話だけでなく、まるで使用人がするような事――料理、洗濯、炊事なども一切行えないはずだ。それが「綾の世話をするのは楽しい」だけで克服できているのだから、全く愛の力というのは偉大である。
そうして幸せな新婚生活を送っているため、綾那の表情はもちろん纏う雰囲気もハッピーそのもの、ゆるっゆるに緩んでいるのだ。
「今日は、義兄上も来られるのか?」
「お勉強会の終わり頃にいらっしゃると思いますよ。どうも、昼過ぎまでお仕事が立て込んでいるそうで――」
「……ああ、だいたい耳に入ってるよ。ここ最近は義姉上とゆっくり過ごしたいがために、例え急務が入っても問題ないよう前倒しで処理し続けているんだろう」
「ん~? うふふ~、そうみたいです~」
「色々と緩み過ぎだろう、全く見ていられないな――」
今にも蕩けて液体になりそうなほど緩々の綾那に、維月はじとりと目を眇めた。しかしすぐ首を横に振ると、「まあ、義兄上ほど完璧な男と結婚したんだ。それはバカにもなるだろう」と頷いた。
なかなか失礼な事を言われたような気もするが、綾那とて「バカになっても仕方ない」という点には大いに同意である。
維月は、応接室の広いテーブルにどさりと音を立てて数冊の本を置いた。どれもとんでもない分厚さで、これら全てが法律書かと思うと、何やら眩暈がしてくる。
ちなみに、渚はまだ来ていない。約束の時間まで三十分ほどあるのだが、維月曰くレディーとの約束なら早めに来て準備するのが当然の事――らしい。
「確か義姉上のご家族は、異大陸の法律について造詣が深いのだろう? 素地はあると考えて良いんだよな」
「ええ。でも渚は、下手に素地があるせいでこちらの法律に苦労するんじゃないかと心配していました」
「ああ、なるほど。確かにそういった面もあるか。全く違うものならばまだしも、中途半端に似たものだと記憶し直すのが大変そうだ」
綾那は維月に「義姉上も目を通してみるか?」と本を勧められたが、そっと首を横に振った。颯月に簡略化された法律書を見せてもらっただけで頭が痛くなったのに、あまりにもハードルが高すぎる。
そもそも「表」の法律にも明るくないのだから、綾那が見たところで違いも類似点も理解できるはずがない。
くつくつと低く笑う維月に、綾那は改めて「とても十三歳には見えないな」という感想を抱いた。既に180センチ半ばを超す長身に、大人びた顔立ち。完全に声変わりを終えている低音ボイスにしろ、落ち着き払った性格にしろ――年不相応である。
(だって「表」なら、ほんの数か月前までランドセル背負ってた年齢って事でしょ? なんか、別世界の住人だなあ)
まあ、実際問題『別世界の住人』で間違いないのだが。綾那がじっと見つめていると、維月はどこか気まずそうな顔をして身じろいだ。
「……何かおかしいか? 最低限、身だしなみには気を遣ったつもりなんだが」
「え? ああ……先輩は颯月さんとお顔が似てて、良いなって」
「――そ、そうか? まあ、そうだな……そうだろう」
途端に得意げな表情を浮かべる維月に、綾那は「こういうところは年相応かも知れない」と微笑んだ。
義兄とよく似た紫色の瞳。彼は垂れ目ではないが、形自体は似ている気がする。アイドクレースらしい焼けた肌に、長く癖のあるポニーテールと――いくつか違う点はあるものの、体格に恵まれているところもよく似ている。
それもこれも、共通の父親である颯瑛の遺伝子のお陰だろうか。
維月はコホンと小さく咳払いすると、目元を緩めて綾那を見た。
「義兄上の事は、幸せにできそうなのか?」
「颯月さんをですか? ……そうですね、誰よりも幸せにしたいと思って、日夜励んでおります」
「それは重畳。義姉上は……義姉上は、死ぬまで義兄上を一番に考えて生きてくれ」
「一番に――はい、お安い御用ですよ」
「たぶん義兄上は、ずっと誰かの一番になりたいと願いながら生きてきたはずだから。俺のように両親が揃っている訳でもないし……そもそも勘当されていてはな。副長とて結局は、側妃様の命令を念頭に置いて動いているし」
僅かに目を伏せた維月を見て、綾那は不思議に思い首を傾げた。『誰よりも一番に颯月を思う』ならば、今までに維月がしてきた事のはずだからだ。
何せ彼は、颯月ファンの鑑。誰も――綾那だって、彼にだけは敵わないと思っている。
しかし維月は、自嘲気味に笑った。
「確かに俺は、義兄上が好きで仕方がない。だが……俺は次期国王だからな。一番に考えるべきは、義兄上ではない」
「んん……そうですね、分かりました。じゃあ維月先輩の分も、私が一番に想います」
「ああ、そうしてくれ。悲しませたら許さないぞ」
笑いながら言う維月に、綾那は「ええ、許さないで下さい」と言って笑い返した。
そうして二人で笑い合っていると、応接室の扉がノックされる。「はい」と返事すれば、どうも渚が到着したようだ。
気付けば、約束の時間の五分前まで迫っている。綾那は彼女を招き入れると、早速お勉強会――もとい維月のリハビリをスタートする事にした。
「うん? えへへ~、幸せです~~」
ふにゃあと蕩けた笑みを浮かべる綾那を見て、維月は「それは何よりだな」と肩を竦めた。
場所は騎士団宿舎の応接室。今日は、ついに維月と渚を引き合わせる日である。
――綾那と颯月が夫婦になってから、一週間。綾那はすぐさま私室を引き払って、颯月の部屋で生活するようになった。
今まで執務室で仮眠をとり、風呂や洗濯も魔法で済ませていた颯月。しかしそれも、部屋で綾那が待っているとなれば行動が変わってくる。
夜の散歩は以前にも増して短くなり、日が変わる頃には部屋へ戻って来るようになった。着替えも風呂も魔法で横着せずに、自分の手でするようになったし――まだ絶賛リハビリ中であるため、綾那の手伝いも借りているが――随分まともな生活を送れるようになった気がする。
ただ、颯月はどうしても正妃の教育――もとい幼少期のトラウマが邪魔をするようだ。まだ、己の身の回りの世話がスムーズにできない。周囲に王太子だと知らしめるため、どんな些細な事でも使用人の手を借りるよう厳しく教育されたと言うから、仕方ない事なのかも知れない。
例えば自分一人で服の袖に腕を通し、ボタンを閉めようとするだけでグッと眉根を寄せて、手を止めてしまう。辛い記憶がフラッシュバックしてしまうのだろうか。
(一体、お義母様にどんな厳しい躾をされたんだろうな……)
鞭で叩かれるような、体罰だけはなかったと思いたい。
しかし、自身の世話はまだ無理でも、「楽しい」と思える事ならば幼少期のトラウマにも勝てるらしい。それが綾那の世話である。
綾那のために食事の用意をするのも、風呂や着替えの手伝い――身の回りの世話をするのも、楽しさが勝るために問題なくできるようだ。
彼は確か己の身の回りの世話だけでなく、まるで使用人がするような事――料理、洗濯、炊事なども一切行えないはずだ。それが「綾の世話をするのは楽しい」だけで克服できているのだから、全く愛の力というのは偉大である。
そうして幸せな新婚生活を送っているため、綾那の表情はもちろん纏う雰囲気もハッピーそのもの、ゆるっゆるに緩んでいるのだ。
「今日は、義兄上も来られるのか?」
「お勉強会の終わり頃にいらっしゃると思いますよ。どうも、昼過ぎまでお仕事が立て込んでいるそうで――」
「……ああ、だいたい耳に入ってるよ。ここ最近は義姉上とゆっくり過ごしたいがために、例え急務が入っても問題ないよう前倒しで処理し続けているんだろう」
「ん~? うふふ~、そうみたいです~」
「色々と緩み過ぎだろう、全く見ていられないな――」
今にも蕩けて液体になりそうなほど緩々の綾那に、維月はじとりと目を眇めた。しかしすぐ首を横に振ると、「まあ、義兄上ほど完璧な男と結婚したんだ。それはバカにもなるだろう」と頷いた。
なかなか失礼な事を言われたような気もするが、綾那とて「バカになっても仕方ない」という点には大いに同意である。
維月は、応接室の広いテーブルにどさりと音を立てて数冊の本を置いた。どれもとんでもない分厚さで、これら全てが法律書かと思うと、何やら眩暈がしてくる。
ちなみに、渚はまだ来ていない。約束の時間まで三十分ほどあるのだが、維月曰くレディーとの約束なら早めに来て準備するのが当然の事――らしい。
「確か義姉上のご家族は、異大陸の法律について造詣が深いのだろう? 素地はあると考えて良いんだよな」
「ええ。でも渚は、下手に素地があるせいでこちらの法律に苦労するんじゃないかと心配していました」
「ああ、なるほど。確かにそういった面もあるか。全く違うものならばまだしも、中途半端に似たものだと記憶し直すのが大変そうだ」
綾那は維月に「義姉上も目を通してみるか?」と本を勧められたが、そっと首を横に振った。颯月に簡略化された法律書を見せてもらっただけで頭が痛くなったのに、あまりにもハードルが高すぎる。
そもそも「表」の法律にも明るくないのだから、綾那が見たところで違いも類似点も理解できるはずがない。
くつくつと低く笑う維月に、綾那は改めて「とても十三歳には見えないな」という感想を抱いた。既に180センチ半ばを超す長身に、大人びた顔立ち。完全に声変わりを終えている低音ボイスにしろ、落ち着き払った性格にしろ――年不相応である。
(だって「表」なら、ほんの数か月前までランドセル背負ってた年齢って事でしょ? なんか、別世界の住人だなあ)
まあ、実際問題『別世界の住人』で間違いないのだが。綾那がじっと見つめていると、維月はどこか気まずそうな顔をして身じろいだ。
「……何かおかしいか? 最低限、身だしなみには気を遣ったつもりなんだが」
「え? ああ……先輩は颯月さんとお顔が似てて、良いなって」
「――そ、そうか? まあ、そうだな……そうだろう」
途端に得意げな表情を浮かべる維月に、綾那は「こういうところは年相応かも知れない」と微笑んだ。
義兄とよく似た紫色の瞳。彼は垂れ目ではないが、形自体は似ている気がする。アイドクレースらしい焼けた肌に、長く癖のあるポニーテールと――いくつか違う点はあるものの、体格に恵まれているところもよく似ている。
それもこれも、共通の父親である颯瑛の遺伝子のお陰だろうか。
維月はコホンと小さく咳払いすると、目元を緩めて綾那を見た。
「義兄上の事は、幸せにできそうなのか?」
「颯月さんをですか? ……そうですね、誰よりも幸せにしたいと思って、日夜励んでおります」
「それは重畳。義姉上は……義姉上は、死ぬまで義兄上を一番に考えて生きてくれ」
「一番に――はい、お安い御用ですよ」
「たぶん義兄上は、ずっと誰かの一番になりたいと願いながら生きてきたはずだから。俺のように両親が揃っている訳でもないし……そもそも勘当されていてはな。副長とて結局は、側妃様の命令を念頭に置いて動いているし」
僅かに目を伏せた維月を見て、綾那は不思議に思い首を傾げた。『誰よりも一番に颯月を思う』ならば、今までに維月がしてきた事のはずだからだ。
何せ彼は、颯月ファンの鑑。誰も――綾那だって、彼にだけは敵わないと思っている。
しかし維月は、自嘲気味に笑った。
「確かに俺は、義兄上が好きで仕方がない。だが……俺は次期国王だからな。一番に考えるべきは、義兄上ではない」
「んん……そうですね、分かりました。じゃあ維月先輩の分も、私が一番に想います」
「ああ、そうしてくれ。悲しませたら許さないぞ」
笑いながら言う維月に、綾那は「ええ、許さないで下さい」と言って笑い返した。
そうして二人で笑い合っていると、応接室の扉がノックされる。「はい」と返事すれば、どうも渚が到着したようだ。
気付けば、約束の時間の五分前まで迫っている。綾那は彼女を招き入れると、早速お勉強会――もとい維月のリハビリをスタートする事にした。
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