349 / 451
第10章 奈落の底が大混乱
8 ひと悶着
しおりを挟む
機嫌の悪さを隠そうともしない颯月の声色に、綾那はパッと顔を上げる。見れば、食事の載ったプレートを片手に一枚ずつ持った颯月が、受け取り口から席まで戻って来たところだった。幸輝はその後ろを追従していて、初めて見る若者――伊織の姿に、やや緊張している様子だ。
伊織はおもむろに立ち上がると、颯月に向かって深々と頭を下げる。
「お疲れ様です、颯月騎士団長」
上げられた顔を見れば尊敬の欠片もない眼差しをしていて、彼の態度は相変わらず慇懃無礼である。颯月はテーブルの上にトレーを下ろすと、大きな舌打ちをしてから――まるで虫の相手でもするように――片手を払った。
「――ああ、ご苦労。食事しに来たならさっさと奥へ行け」
「私もご一緒してもよろしいですか?」
「いや、よろしくない。アンタ、貸した法律書の内容は理解できたのか? 一通り理解できるようになるまで色気づくなと言っただろう」
「一通りって、全何巻あると思っているんですか。あんなもの暗記できるはずが――」
「暗記しろとは言っていない、理解しろと言っている」
颯月の言葉に、綾那はひっそりと「あ――颯月さんの本棚に抜けが目立つのって、そういう……」と思った。そう言えば伊織は、ただ訓練で扱かれているだけではないのだ。
颯月のような男になると宣言したばかりに、彼は正妃仕込みの教育まで受けているのである。
「相変わらず心根の狭い――団長は、本当に綾さんと釣り合っていないと思いますよ」
「釣り合っていようがなかろうが、綾はもう俺の妻だ。色目を使う事は許さん、むしろ見るな。綾がすり減る」
比較的静かな食堂内に、颯月の声はことのほか大きく響いた。
「――えっ」
その「えっ」は、伊織と幸輝の口から同時に出たものであった。伊織はサッと青ざめたかと思えば、黙り込んでしまった。打って変わって、幸輝はパッと頬の血色をよくする。
「あ、アヤ、颯月と結婚したのか? 本当に?」
「えっと……そうだね、今日」
「うわあ、マジかよ!? スゲーじゃん颯月、結婚したのかよ~! あ! じゃあ、もうチューよりエロい事してんのか!?」
「あ、待って幸輝、ちょっと声が大き――」
「いや、エロい事はこれからだ。俺の楽しみは、この先もうソレしか残されてない」
「これからなのか~! スゲーな~!!」
「そ――、あの、颯月さん……」
彼らの問題発言は奥で食事中の者の耳にまで届いたのか、食堂内がにわかに騒がしくなる。気付けばそこら中から「おめでとうございます!」やら「婚約した時には挨拶があったのに、水臭いじゃないですか!?」やら祝いの言葉が飛んで来て――綾那は思わず、両手で顔を覆って項垂れた。
いや、祝福されて嬉しいのだ。嬉しいのだが、直前の話の内容があまりにもアレ過ぎる。綾那は――団員の前で颯月に抗議するのは、何やら憚られたため――まるで八つ当たりするように、幸輝の両頬を掴んでみょんと引き伸ばした。
すぐに「いひゃい!? なんひゃよ!?!?」と抗議されたが、構わずに引き伸ばし続けた。
――しかしそれも、伊織に震える声で「綾さん」と呼ばれれば視線を上げざるを得ない。綾那は気まずい笑みを浮かべながら、伊織に向き直った。
「結婚って……本当に、そんな男と一緒になるのですか? 口八丁で丸め込まれたのか、それとも脅迫されたのか――」
「伊織テメエ、明日の訓練楽しみにしてろよ。成と二人がかりで再起不能になるまでぶっ潰してやる」
颯月は綾那の隣の椅子にどっかりと腰かけると、「なんでまだ心が折れないんだ、おかしいだろコイツ――」とぼやいた。以前は、心を折ろうと思って厳しい稽古をつけている訳ではない――的な主張をしていたように思うが、どうもその建前はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったらしい。
綾那は、すぐ横で物騒な文句を言っている颯月の太ももに手を置いて宥めながら、眉尻を下げた。
「えっと……前から伝えていた通り、私には颯月さん以外考えられなくて――今すごく幸せだから、お祝いしてくれると嬉しいな」
綾那自身、かなり自分勝手な事を言っている自覚はあった。ただ、「結婚してごめんなさい」と言うのも何様だ? という感じがするし、謝った所で何にもならないし、颯月と離婚する気もない。ましてや、伊織と浮気するつもりだってない。
――であればもう、「諦めろ。忘れてくれ」と伝える方が、まだ誠実な気がする。
(自分の事しか考えてない身勝手なクソ女と罵倒されても受け入れるし、もしアデュレリアに帰るって言われても――いや、アイドクレース騎士団的には新人が抜けて痛手かも知れないけど、私は受け入れる……)
そもそも騎士団には絶対的な規約があり、入団してから二年間はよほどの事――家庭の事情や、本人が犯罪に手を染めるなど――がない限り、脱退を許されないのだが。
果たして失恋は『よほどの事』に含まれるのだろうか。そんな事を考えながら伊織を見れば、彼は綾那に深く頷き返した。
「――分かりました、綾さんの幸せについては心から祝福します」
「オイ、俺には」
「颯月騎士団長も、有頂天におなりのようで大変めでたく存じます。あとはもう、その幸せの絶頂から下るだけですね。ええ、心の底からお慶び申し上げます」
「……今この場に綾と幸輝が居る事を死ぬほど感謝しろよ。居なかったら何を言っていたか――いや、何をしていたか分からん」
颯月に恫喝されても、伊織は涼しい顔のまま綾那をまっすぐに見下ろした。そしてふっと目元を緩めると、恭しく頭を下げる。
「どうせ、私は二十歳を迎えるまで綾さんをどうにも出来ませんから。たかが三、四年――それまで騎士団長に預けるだけだと思えば、別に苦ではありません」
「うん? ……預けるって?」
「私が成人するまでに綾さんを振り向かせて、団長と離婚させれば済む話ですから。平気ですよ、多少手垢で汚されたくらいでは幻滅しません――幸い、団長の子を孕む心配だけはありませんし」
うっそりと笑いながらとんでもない問題発言をする伊織に面食らって、反応が遅れた。すぐさま怒るなり抗議するなりすべきだったのだろうが、あまりに酷い事を言われた気がしてショックが勝ったのだ。
――だから、隣に座る男が食事用のナイフを片手に椅子から立ち上がったところで、ようやく意識を取り戻したとしても仕方がない。
食堂内には「オイ! 誰か副長呼んで来い!」「団長、生意気な新人を分からせてやってくださいー!」「伊織、お前マジで気骨あるよなー!」なんてガヤが沸き起こり――ガヤっている彼らは、しっかりと距離を取った安全地帯に居るままだ――綾那もまた、大慌てで立ち上がった。
無詠唱でナイフに「属性付与」した颯月に真正面から抱き着いて、「ご、ごはん……! ごはんにしましょう!? お腹空いちゃった、私このままじゃ痩せちゃいます!」と必死の形相で止める。
ちなみに、この一部始終を目にした幸輝は「スゲー! これが澪の言ってた、シュラバってヤツかー!?」なんて目を輝かせていた。
伊織はおもむろに立ち上がると、颯月に向かって深々と頭を下げる。
「お疲れ様です、颯月騎士団長」
上げられた顔を見れば尊敬の欠片もない眼差しをしていて、彼の態度は相変わらず慇懃無礼である。颯月はテーブルの上にトレーを下ろすと、大きな舌打ちをしてから――まるで虫の相手でもするように――片手を払った。
「――ああ、ご苦労。食事しに来たならさっさと奥へ行け」
「私もご一緒してもよろしいですか?」
「いや、よろしくない。アンタ、貸した法律書の内容は理解できたのか? 一通り理解できるようになるまで色気づくなと言っただろう」
「一通りって、全何巻あると思っているんですか。あんなもの暗記できるはずが――」
「暗記しろとは言っていない、理解しろと言っている」
颯月の言葉に、綾那はひっそりと「あ――颯月さんの本棚に抜けが目立つのって、そういう……」と思った。そう言えば伊織は、ただ訓練で扱かれているだけではないのだ。
颯月のような男になると宣言したばかりに、彼は正妃仕込みの教育まで受けているのである。
「相変わらず心根の狭い――団長は、本当に綾さんと釣り合っていないと思いますよ」
「釣り合っていようがなかろうが、綾はもう俺の妻だ。色目を使う事は許さん、むしろ見るな。綾がすり減る」
比較的静かな食堂内に、颯月の声はことのほか大きく響いた。
「――えっ」
その「えっ」は、伊織と幸輝の口から同時に出たものであった。伊織はサッと青ざめたかと思えば、黙り込んでしまった。打って変わって、幸輝はパッと頬の血色をよくする。
「あ、アヤ、颯月と結婚したのか? 本当に?」
「えっと……そうだね、今日」
「うわあ、マジかよ!? スゲーじゃん颯月、結婚したのかよ~! あ! じゃあ、もうチューよりエロい事してんのか!?」
「あ、待って幸輝、ちょっと声が大き――」
「いや、エロい事はこれからだ。俺の楽しみは、この先もうソレしか残されてない」
「これからなのか~! スゲーな~!!」
「そ――、あの、颯月さん……」
彼らの問題発言は奥で食事中の者の耳にまで届いたのか、食堂内がにわかに騒がしくなる。気付けばそこら中から「おめでとうございます!」やら「婚約した時には挨拶があったのに、水臭いじゃないですか!?」やら祝いの言葉が飛んで来て――綾那は思わず、両手で顔を覆って項垂れた。
いや、祝福されて嬉しいのだ。嬉しいのだが、直前の話の内容があまりにもアレ過ぎる。綾那は――団員の前で颯月に抗議するのは、何やら憚られたため――まるで八つ当たりするように、幸輝の両頬を掴んでみょんと引き伸ばした。
すぐに「いひゃい!? なんひゃよ!?!?」と抗議されたが、構わずに引き伸ばし続けた。
――しかしそれも、伊織に震える声で「綾さん」と呼ばれれば視線を上げざるを得ない。綾那は気まずい笑みを浮かべながら、伊織に向き直った。
「結婚って……本当に、そんな男と一緒になるのですか? 口八丁で丸め込まれたのか、それとも脅迫されたのか――」
「伊織テメエ、明日の訓練楽しみにしてろよ。成と二人がかりで再起不能になるまでぶっ潰してやる」
颯月は綾那の隣の椅子にどっかりと腰かけると、「なんでまだ心が折れないんだ、おかしいだろコイツ――」とぼやいた。以前は、心を折ろうと思って厳しい稽古をつけている訳ではない――的な主張をしていたように思うが、どうもその建前はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったらしい。
綾那は、すぐ横で物騒な文句を言っている颯月の太ももに手を置いて宥めながら、眉尻を下げた。
「えっと……前から伝えていた通り、私には颯月さん以外考えられなくて――今すごく幸せだから、お祝いしてくれると嬉しいな」
綾那自身、かなり自分勝手な事を言っている自覚はあった。ただ、「結婚してごめんなさい」と言うのも何様だ? という感じがするし、謝った所で何にもならないし、颯月と離婚する気もない。ましてや、伊織と浮気するつもりだってない。
――であればもう、「諦めろ。忘れてくれ」と伝える方が、まだ誠実な気がする。
(自分の事しか考えてない身勝手なクソ女と罵倒されても受け入れるし、もしアデュレリアに帰るって言われても――いや、アイドクレース騎士団的には新人が抜けて痛手かも知れないけど、私は受け入れる……)
そもそも騎士団には絶対的な規約があり、入団してから二年間はよほどの事――家庭の事情や、本人が犯罪に手を染めるなど――がない限り、脱退を許されないのだが。
果たして失恋は『よほどの事』に含まれるのだろうか。そんな事を考えながら伊織を見れば、彼は綾那に深く頷き返した。
「――分かりました、綾さんの幸せについては心から祝福します」
「オイ、俺には」
「颯月騎士団長も、有頂天におなりのようで大変めでたく存じます。あとはもう、その幸せの絶頂から下るだけですね。ええ、心の底からお慶び申し上げます」
「……今この場に綾と幸輝が居る事を死ぬほど感謝しろよ。居なかったら何を言っていたか――いや、何をしていたか分からん」
颯月に恫喝されても、伊織は涼しい顔のまま綾那をまっすぐに見下ろした。そしてふっと目元を緩めると、恭しく頭を下げる。
「どうせ、私は二十歳を迎えるまで綾さんをどうにも出来ませんから。たかが三、四年――それまで騎士団長に預けるだけだと思えば、別に苦ではありません」
「うん? ……預けるって?」
「私が成人するまでに綾さんを振り向かせて、団長と離婚させれば済む話ですから。平気ですよ、多少手垢で汚されたくらいでは幻滅しません――幸い、団長の子を孕む心配だけはありませんし」
うっそりと笑いながらとんでもない問題発言をする伊織に面食らって、反応が遅れた。すぐさま怒るなり抗議するなりすべきだったのだろうが、あまりに酷い事を言われた気がしてショックが勝ったのだ。
――だから、隣に座る男が食事用のナイフを片手に椅子から立ち上がったところで、ようやく意識を取り戻したとしても仕方がない。
食堂内には「オイ! 誰か副長呼んで来い!」「団長、生意気な新人を分からせてやってくださいー!」「伊織、お前マジで気骨あるよなー!」なんてガヤが沸き起こり――ガヤっている彼らは、しっかりと距離を取った安全地帯に居るままだ――綾那もまた、大慌てで立ち上がった。
無詠唱でナイフに「属性付与」した颯月に真正面から抱き着いて、「ご、ごはん……! ごはんにしましょう!? お腹空いちゃった、私このままじゃ痩せちゃいます!」と必死の形相で止める。
ちなみに、この一部始終を目にした幸輝は「スゲー! これが澪の言ってた、シュラバってヤツかー!?」なんて目を輝かせていた。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
笑い方を忘れた令嬢
Blue
恋愛
お母様が天国へと旅立ってから10年の月日が流れた。大好きなお父様と二人で過ごす日々に突然終止符が打たれる。突然やって来た新しい家族。病で倒れてしまったお父様。私を嫌な目つきで見てくる伯父様。どうしたらいいの?誰か、助けて。
美幼女に転生したら地獄のような逆ハーレム状態になりました
市森 唯
恋愛
極々普通の学生だった私は……目が覚めたら美幼女になっていました。
私は侯爵令嬢らしく多分異世界転生してるし、そして何故か婚約者が2人?!
しかも婚約者達との関係も最悪で……
まぁ転生しちゃったのでなんとか上手く生きていけるよう頑張ります!
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる