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第10章 奈落の底が大混乱

2 リハビリ交渉

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 綾那は、昨夜国王から相談された事を出来る限り丁寧に説明し始めた。

「ええと……実は、国王陛下から王太子殿下のを頼まれてね?」
「リハビリ? ――なに、病気かケガの術後で、身体的な問題でも?」

 渚はふむ、と考え込んで、「医学書はさすがに丸暗記してないから、場合によっては「蔵書ライブラリー」で調べる必要があるかも」と呟いた。いたく真剣に頭を悩ませている渚に、綾那は慌てて「そういうのとは少し違って」と両手を振る。

「身体的というか、な……?」
「……ああ。たぶんだけど、私はそういうの向いてないよ。陽香辺りの、無遠慮に人の心をズカズカ踏み荒らす荒療治が一番効果的だと思う。快復するか悪化するか、諸刃もろはだけど」
「確かにご主人、他人に一切興味ないですもんね……」

 話の詳細を聞く前からバッサリと切り捨てた渚に、従者然として彼女の後ろに立って控える白虎がオリーブグリーン色の目を眇めた。渚は彼を一瞥する事もなく「うっさい、トラ」とすげなく吐き捨てる。

「いや、あの、リハビリと言ってもそう深刻なものじゃなくてね。ほら、前に渚言ってたでしょう? 法律の勉強がしたいって」
「うん。颯月サンが何か良い本でも紹介してくれるって? それとも、その王太子が? 確かこの国の裁判官って、王族なんだよね――トラから色々教わろうにも、コイツ本当に役に立たなくてさ」
「……いやあ、セレスティンの法律は『俺』と言っても過言ではなかったんで」
「うっさい、独裁者」

 さすがは、セレスティンの守り神として崇め奉られていた男だ。それを雑に従える渚も渚だが――。
 白虎はどれだけ渚に冷たくあしらわれても一切気にした様子がなく、涼しげな表情のまま「だって、聖獣ですから~」と嘯いている。さすがは、彼女に雑にあしらわれる事に感銘を受けて、心酔しているだけの事はある。

「維月殿下、今まさに法律の勉強をしているところで……だから、人に教えながらの方が知識が深まるんじゃないかって」
「正直、法律についてなら俺よりも維月の方がアンタの役に立つと思うしな」
「……へえ。でも、それとリハビリになんの関係が?」
「それが――なんて言うか……ちょっとだけ、お義兄さんの事が好き過ぎるきらいがあってね? 女性に興味がなさすぎるから、お義父様が心配なさってて……少しずつ女性と接する機会を増やしなさいって。それがリハビリ」
「………………確か颯月サンって、元王族でしたよね?」
「ああ、維月は俺の義弟だ」

 颯月の言葉に、渚はこれでもかと顔を顰めた。その表情からは、わざわざ口にはしなくとも、「え? この人の事が好きで好きで仕方がない王太子なんて、私と気が合う訳ないに決まってんじゃん」と考えているのが見てとれる。

 渚は、基本的に他人に興味がない。興味があるとすれば、それは綾那、そして他の四重奏のメンバーだけだ。颯月は、彼女にとって一番重要人物である綾那を、ほんの少し目を離した隙に横から掠め取った簒奪さんだつ者のようなものである。

 他でもない綾那本人が強く望むから、仕方なく結婚について承諾したものの――しかし、だからと言って颯月を手放しで受け入れるかと言えば、それは全くの別問題なのだろう。
 渚からすれば、「普通に嫌い」な部類に入る。その嫌いな男の義弟と共に法律の勉強をしろとは、なかなか挑発的な要請であった。

「……それって、もし王太子殿下に向かって颯月サンに対する恨みつらみを投げ掛けたら、打ち首にされたり、檻へぶち込まれたりします? 絶対に言わないなんて保証はできないんですけど」
「た、たぶんそこまでの事はしないと思うけど、でも怒りはすると思う……維月殿下、私以上に颯月さんのファンだから」

 綾那が言えば、渚は「ッカーーー!」と言って眉間に皺を寄せた。
 今にもツバを吐き捨てそうな渚の顔を見たのは初めての事で、綾那は漠然と「陽香やアリスの言う通り、確かに私が今まで見てきた渚と本当の渚って、ちょっと違うのかも知れないな……」と思った。

 ――しかし、ここで簡単に諦める訳にはいかない。何せ綾那は、義理の家族総出で維月のリハビリを頼まれているのだから。

「あのね、渚。渚がまだ颯月さんの事を良く思っていないのは分かっているんだけど……一応、殿下はもう私の義弟でもあるから」
「……綾の新しい家族、ね。正直、それも相まって余計にムカつくような気がするんだけど――まあ、回り回って綾のためになるって言うなら、応じない事もないよ。どのみち王族の要請なんて、拒否権あってないようなもんでしょ」
「うーん、確かに皆さん公務の調整をするって張り切っていらしたから……今更「やっぱりナシで」は、厳しいかも知れないね?」

 綾那が苦く笑えば、渚はじとりと目を細めた。渚本人が知らない場所で、勝手に彼女の行動を決められていたのだ。それは面白くないだろう。
 彼女は無言のままたっぷりと思案すると、やがて観念したようにため息を吐き出した。

「………………法律について聞くだけでも良いの? リハビリメインじゃなくて、単なる勉強会でも」
「うん、平気だと思う。女性と積極的に接する練習みたいなものだから」
「綾のためにできるだけ我慢するけど、もし喧嘩に発展しても怒らないでね。私そもそも、仕事の交渉以外で人と関わるの向いてないんだから」
「うん! できれば優しく楽しくお話して欲しいけど、まずは渚の「法律の勉強がしたい」って目的を優先してくれれば良いから。なんだかんだ言って殿下も乗り気ではなかったし、単なる勉強会で終わりそうな気もしてるんだ」

 何せ維月は、生粋の強火颯月ファンである。彼が女性にうつつを抜かすところなど、綾那に想像できるはずがなかった。
 綾那は念を押すように「でもやっぱり、優しくしてあげて欲しいな。渚だって家族の事を悪く言われたら嫌でしょう? 颯月さんの事は抜きで接して欲しいかも」と諭した。
 渚は不満げであったが、しかしたっぷりと押し黙った後に「それは確かに、同意できる」と頷いた。

 ――かくして、王族から受けたリハビリ要請は無事受理されたのであった。
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