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第9章 奈落の底に永住したい
32 消えた笑顔
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ぶ厚いアルバムの表紙は黒革で、やけに高級感がある。別に『颯月成長記』なんてタイトルがついている訳ではないが、今から綾那が目にするのは、間違いなく颯月の成長記録だ。
綾那はドキドキと高鳴る胸を押さえながら、「拝見いたします」なんて畏まった口調で呟いた。そうして表紙を開いてまず飛び込んで来たのは、水色のおくるみに包まれた赤ん坊の写真だ。
赤ん坊は生まれて間もないらしく、まだ髪が生え揃っていないし、目も開いていない。
――しかし、その右頬に走る見覚えのある刺青に、綾那は「この乳児は颯月なのだ」と気付く。
「…………可愛い、ですね」
まるで慈しむように穏やかな目をして赤ん坊の写真を撫でた綾那に、正妃は「ええ、その頃はまだね」と言って目尻を垂れさせた。
赤ん坊の颯月は、健やかな寝顔をしているように思う。彼と共に映っている細い手は――十中八九、正妃のものだろう。
「輝夜は颯月を産んで、すぐに亡くなってしまったから……あの子を満足に抱く事もできず、呪いだけ半分もって逝ったわ」
「その亡骸と悪魔憑きの颯月さんに触れられたのは、正妃様だけだったとお義父様が仰っていましたね」
乳母も世話役の侍女も助産師も、誰も彼もが颯月と輝夜の遺体を恐れたと言っていた。
何せ、底なしの魔力量を誇る悪魔憑きの乳児だ。ただ腹を空かせて泣いただけでも、魔力の暴発を起こしそうではないか。
街にある教会の子供達だって、魔力制御が未熟だからと遠ざけられているのだ。それが、自意識の芽生えていない赤ん坊相手では――いつ何が起こるか分かったものではない。正に生きた人間爆弾である。
そんな爆弾を抱えて育て上げたと言うのだから、正妃の愛情深さには頭が上がらない。
綾那はアルバムから顔を上げて、正妃を尊敬の眼差しで見つめた。すると彼女はコホンと咳払いをして、どこか気まずげに目線を彷徨わせる。
「――お、「お義母様」で、良いのではなくて?」
「え?」
「以前にそう呼んだでしょう。……それに、陛下だけお義父様で、私は正妃と呼ばれるのは変だわ」
「あ、そうでした。お義母様」
綾那がなんの躊躇もなく笑顔で呼べば、正妃はまた大きな咳払いをした。
――かと思えばアルバムを指差して、「次へ行きなさい、次に!」と話題をすり替える。恐らく気恥ずかしかったのだろう。
「うわぁああ……! もう颯月さんだあ……!」
次のページを開くと、乳児だった颯月が一、二歳ぐらいまで成長している。刺青こそあるが、おしゃぶりを口にくわえている姿はそこらの子供と変わらない。
まだ短いが金髪混じりの黒髪も生え揃っていて、左目は紫色、右目は赤色のオッドアイは煌めくようだ。
体をすっぽりと包むボディースーツ型のベビー服は――確か、ロンパースと呼ぶんだったか――青色。やたらと青系統の服を着せているのは、もしかして輝夜の瞳の色だからなのだろうか?
水魔法が得意だったという話を聞いた事があるから、きっとそうだろう。生前に用意していたものなのか、正妃が後から輝夜を想って購入したものなのかは分からないが。
(颯月さん、笑ってる……)
颯月は垂れ気味の目を緩ませて、こちらを見ている。撮影者は誰だろうか? 彼に近付けたのは正妃か竜禅だけらしいので、きっとそのどちらかだろう。
アルバムをめくれば、しばらく同じ年頃の颯月の姿が続いた。意外な事に――と言うと失礼だが、写真の中の彼は幸せそうで、笑っているものが多い。
二歳、三歳と順に歳をとって、己の両足で立っている姿を収めた写真も増えてきた。ぽやんとした顔立ちも段々しっかりしてきて、表情も明瞭になってくる。
――しかしそれは、あるページを境に無表情のものだけになった。カメラのレンズを見る事もめっきり減って、横顔や後ろ姿など、まるで隠し撮りのような構図が増えた。
「お義母様、この頃に何かあったのですか?」
颯月がすっかり笑わなくなってしまったのは、だいたい五歳頃からだろうか。まだ幼児と呼べる年齢で、「表」なら「そろそろ小学校だね~」なんて言うような時期である。
綾那の問いかけに、正妃はゆるゆると首を横に振った。
「……何も」
「何もないのに、突然笑わなくなってしまったんですか……?」
「正確に言えば、この頃に始まった事じゃないのよ。颯月は生まれた時からずっと、親族から心無い言葉をかけられ続けていたわ……それらの言葉の意味が理解できるようになってしまったのが、この頃だったというだけ」
「……親族に」
綾那は以前、維月から聞かされた事がある。同じ王族の中に悪魔憑きの颯月を快く思わない者が存在して、彼を侮辱するような発言をされると、つい反論してしまう――と。
更に、颯月自身からも聞かされた。
父親の颯瑛は悪法を敷いた上に引きこもってしまい、颯月は周囲から「国王がおかしくなったのは側妃を亡くしたから」「側妃が亡くなった原因は颯月」「全て颯月が悪い」と、後ろ指を差されながら生きて来たのだと。
きっとこの年頃で物事の分別がつくようになって、己が周りから酷く責められている事を理解してしまったのだろう。
また、正妃にも物心がつく前から『異形』について「普通ではない」「お前は人と違う」「人に好かれようなんて期待は抱くな」と教育されていたはずだ。
――それらが一挙に押し寄せて来た結果の表情がコレなのだと思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。
(全然、幸せそうじゃない……)
写真の中の子供は、いつの間にか見慣れた黒革の眼帯で顔の右半分を覆い隠していて、ようやく笑っている写真を見付けたかと思えば――それは明らかに、公務の際に撮られたものだった。
幼い彼は作ったような笑顔を張り付けて、民衆へ向かって手を振っている。
確か颯月は七歳の頃から、王太子としてリベリアス中を回ってパレードをしたと言っていた。そこに彼の意思は存在しない。ただ国民から認められるようにと正妃が願い、敢行した事だったからだ。
「……使う?」
正妃に白いハンカチを差し出されて、綾那は自身が泣いている事に気付いた。綾那は力なく頷くと、「ありがとうございます」とお礼を言ってからハンカチを受け取った。
(――絶対、私が幸せにする)
次から次へと溢れてくる涙を拭いながら、綾那はそう強く決心した。
綾那はドキドキと高鳴る胸を押さえながら、「拝見いたします」なんて畏まった口調で呟いた。そうして表紙を開いてまず飛び込んで来たのは、水色のおくるみに包まれた赤ん坊の写真だ。
赤ん坊は生まれて間もないらしく、まだ髪が生え揃っていないし、目も開いていない。
――しかし、その右頬に走る見覚えのある刺青に、綾那は「この乳児は颯月なのだ」と気付く。
「…………可愛い、ですね」
まるで慈しむように穏やかな目をして赤ん坊の写真を撫でた綾那に、正妃は「ええ、その頃はまだね」と言って目尻を垂れさせた。
赤ん坊の颯月は、健やかな寝顔をしているように思う。彼と共に映っている細い手は――十中八九、正妃のものだろう。
「輝夜は颯月を産んで、すぐに亡くなってしまったから……あの子を満足に抱く事もできず、呪いだけ半分もって逝ったわ」
「その亡骸と悪魔憑きの颯月さんに触れられたのは、正妃様だけだったとお義父様が仰っていましたね」
乳母も世話役の侍女も助産師も、誰も彼もが颯月と輝夜の遺体を恐れたと言っていた。
何せ、底なしの魔力量を誇る悪魔憑きの乳児だ。ただ腹を空かせて泣いただけでも、魔力の暴発を起こしそうではないか。
街にある教会の子供達だって、魔力制御が未熟だからと遠ざけられているのだ。それが、自意識の芽生えていない赤ん坊相手では――いつ何が起こるか分かったものではない。正に生きた人間爆弾である。
そんな爆弾を抱えて育て上げたと言うのだから、正妃の愛情深さには頭が上がらない。
綾那はアルバムから顔を上げて、正妃を尊敬の眼差しで見つめた。すると彼女はコホンと咳払いをして、どこか気まずげに目線を彷徨わせる。
「――お、「お義母様」で、良いのではなくて?」
「え?」
「以前にそう呼んだでしょう。……それに、陛下だけお義父様で、私は正妃と呼ばれるのは変だわ」
「あ、そうでした。お義母様」
綾那がなんの躊躇もなく笑顔で呼べば、正妃はまた大きな咳払いをした。
――かと思えばアルバムを指差して、「次へ行きなさい、次に!」と話題をすり替える。恐らく気恥ずかしかったのだろう。
「うわぁああ……! もう颯月さんだあ……!」
次のページを開くと、乳児だった颯月が一、二歳ぐらいまで成長している。刺青こそあるが、おしゃぶりを口にくわえている姿はそこらの子供と変わらない。
まだ短いが金髪混じりの黒髪も生え揃っていて、左目は紫色、右目は赤色のオッドアイは煌めくようだ。
体をすっぽりと包むボディースーツ型のベビー服は――確か、ロンパースと呼ぶんだったか――青色。やたらと青系統の服を着せているのは、もしかして輝夜の瞳の色だからなのだろうか?
水魔法が得意だったという話を聞いた事があるから、きっとそうだろう。生前に用意していたものなのか、正妃が後から輝夜を想って購入したものなのかは分からないが。
(颯月さん、笑ってる……)
颯月は垂れ気味の目を緩ませて、こちらを見ている。撮影者は誰だろうか? 彼に近付けたのは正妃か竜禅だけらしいので、きっとそのどちらかだろう。
アルバムをめくれば、しばらく同じ年頃の颯月の姿が続いた。意外な事に――と言うと失礼だが、写真の中の彼は幸せそうで、笑っているものが多い。
二歳、三歳と順に歳をとって、己の両足で立っている姿を収めた写真も増えてきた。ぽやんとした顔立ちも段々しっかりしてきて、表情も明瞭になってくる。
――しかしそれは、あるページを境に無表情のものだけになった。カメラのレンズを見る事もめっきり減って、横顔や後ろ姿など、まるで隠し撮りのような構図が増えた。
「お義母様、この頃に何かあったのですか?」
颯月がすっかり笑わなくなってしまったのは、だいたい五歳頃からだろうか。まだ幼児と呼べる年齢で、「表」なら「そろそろ小学校だね~」なんて言うような時期である。
綾那の問いかけに、正妃はゆるゆると首を横に振った。
「……何も」
「何もないのに、突然笑わなくなってしまったんですか……?」
「正確に言えば、この頃に始まった事じゃないのよ。颯月は生まれた時からずっと、親族から心無い言葉をかけられ続けていたわ……それらの言葉の意味が理解できるようになってしまったのが、この頃だったというだけ」
「……親族に」
綾那は以前、維月から聞かされた事がある。同じ王族の中に悪魔憑きの颯月を快く思わない者が存在して、彼を侮辱するような発言をされると、つい反論してしまう――と。
更に、颯月自身からも聞かされた。
父親の颯瑛は悪法を敷いた上に引きこもってしまい、颯月は周囲から「国王がおかしくなったのは側妃を亡くしたから」「側妃が亡くなった原因は颯月」「全て颯月が悪い」と、後ろ指を差されながら生きて来たのだと。
きっとこの年頃で物事の分別がつくようになって、己が周りから酷く責められている事を理解してしまったのだろう。
また、正妃にも物心がつく前から『異形』について「普通ではない」「お前は人と違う」「人に好かれようなんて期待は抱くな」と教育されていたはずだ。
――それらが一挙に押し寄せて来た結果の表情がコレなのだと思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。
(全然、幸せそうじゃない……)
写真の中の子供は、いつの間にか見慣れた黒革の眼帯で顔の右半分を覆い隠していて、ようやく笑っている写真を見付けたかと思えば――それは明らかに、公務の際に撮られたものだった。
幼い彼は作ったような笑顔を張り付けて、民衆へ向かって手を振っている。
確か颯月は七歳の頃から、王太子としてリベリアス中を回ってパレードをしたと言っていた。そこに彼の意思は存在しない。ただ国民から認められるようにと正妃が願い、敢行した事だったからだ。
「……使う?」
正妃に白いハンカチを差し出されて、綾那は自身が泣いている事に気付いた。綾那は力なく頷くと、「ありがとうございます」とお礼を言ってからハンカチを受け取った。
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