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第9章 奈落の底に永住したい
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正妃を支えながら、退室した直後――廊下に出て応接室の扉を閉めるのと同時に、綾那の身体に折れそうな腕が二本回された。それは背中で交差して、正妃の頭が綾那の鎖骨辺りに埋まった。
艶のある黒髪から椿のような香りがして、綾那は目元を緩めて正妃を抱き締め返す。
(いつもヒールの高い靴を履いていらっしゃるから気付かなかったけど、正妃様ってそんなに背が高くないんだ……ハイヒールは威厳を出すための武装なのかも)
だからと言って陽香ほど小さくはないが、こういう強がりな部分でさえ通ずるものがあるのだと思うと、何やら面白い。正妃はいつも紫色のハイヒールを履いていて――そこまで考えた綾那は、ふとリベリアスの色を纏う文化を思い出した。
この国では、慕う相手の髪または瞳の色の服やアクセサリーを身に纏い、好意をアピールするという文化がある。正妃が着るワンピースドレスは、基本的にシックな黒だ。唯一色があるのはハイヒールの紫だけ。
(紫と言えば、私的には颯月さんの色だけど……でも、維月先輩もお義父様も、紫色の瞳だもんね。正妃様は誰の紫色を纏っているんだろう――三人全員、かな?)
なんとなくだが、正妃は旦那と息子に人――全員を平等に愛しているような気がする。一見すると冷たい容貌でありながら、その中身は随分と熱い人だという事は、今この姿を見れば嫌でも分かるからだ。
相変わらず正妃の体は全体的に薄く、ほんの少し風が吹いただけで倒れてしまいそうだ。しかし、骨ばっていて女性らしさが皆無なのかと言えば――その身は意外と柔らかく、抱き心地が良い。
常時発動型でもないのに、何故か「軽業師」を無意識下で発動し続けてしまう陽香と違い――「軽業師」は発動しているだけでとんでもないカロリーを消費してしまうため、陽香は「四六時中痩せ続ける」「食を疎かにすれば死に直結する」という恐ろしい特性をもっている――正妃の『痩せ』は、先天性の体質らしい。
本人は太りたいと強く願っているらしいが、努力だけではどうにもならないのだそうだ。とにかく太りやすい綾那からすれば、羨ましい限りであるが――まあ互いに、ないものねだりというヤツだろう。
「――ぅ……っく……」
颯月が結婚する事がよほど嬉しかったのか、正妃は声を押し殺すように泣いている。綾那は彼女の震える背中を撫でながら、縋りつくような抱擁を何も言わずに受け止め続けた。
(颯月さんや維月先輩の前だったから、満足に泣けなかったのかな)
それを察した上で正妃を退室させたのだとしたら、颯瑛は本当に彼女の事をよく見ていると思う。無口、無表情で勘違いされまくりの王様だが――少なくとも正妃にとっては、最良の旦那である。
いや、今までは正妃にも誤解されていた訳だから、「これからは、最良の旦那になるはず」の方が正しいだろうか。
――ややあってから正妃の嗚咽と体の震えが小さくなったかと思えば、彼女はそっと窺うように顔を上げて綾那を見た。
いつも怜悧な眼差しは泣き疲れたせいか弱々しく不安げで、綾那は何やら、正妃の見てはいけない姿を見てしまったような気持ちにさせられる。
威風堂々としていて、他を圧倒するような強いオーラがあり、いつも一方的に颯月をこき下ろしている正妃。そんな彼女が、ここまで泣く姿を見る事になろうとは――人生何があるか、分からないものである。
正妃は気まずげに目を逸らしたのち、何事か逡巡してから、おもむろに口を開いた。
「その、綾那……この顔をなんとかしたいから、一度私の部屋へ行こうと思うのだけれど……お前も一緒に来る?」
「……正妃様のお部屋にですか?」
それは、綾那としては大変嬉しく――そして、身に余るお誘いであった。
正妃とは前々から、一度ゆっくり話してみたいと思っていた。『正妃』相手に不敬かも知れないが、今後は義母と義娘として付き合うつもりだから、もっと仲良くなりたい気持ちもある。
しかも颯瑛から、正妃の付き添いをするよう頼まれているのだ。綾那一人でさっさと応接室へ戻るよりかは、正妃と共に戻る方が良いに決まっている。
(そもそも慌てて戻ったところで、法律の話なんて振られても無理無理のムリだし、私……)
綾那は小さく頷いてから、「是非」と答えるために口を開きかけた。しかし、綾那が即答しなかった事で何かしら不安に思ったのか、正妃はあの手この手で誘い込むと言った様子で、口早に魅力をプレゼンし始める。
「わ、私の部屋には、幼い時の颯月のアルバムがあるわよ」
「――そっ、ア……!?」
「それを見ながら昔話でもと思ったのだけれど、どうかしら。私は颯月に避けられているから、必然的にお前とも接点がとれなくて……こういう機会でもなければ、話せないでしょう?」
「む、昔話……颯月さんの……! ――行きます、行かせてください゛……!!」
綾那は正妃の両手をがっしりと掴むと、絞り出すような声を上げて何度も頷いた。正妃は安堵するように息をつくと「こっちへいらっしゃい」と言い、綾那の手を引いて歩き出した。
◆
――正妃の私室は、応接室から徒歩三分ほどのところにあった。
家の中を三分歩くってなんなんだ? と思わなくもないが、さすが質素に見えても広さだけは牧場クラスの王宮と言ったところだろうか。ふと思い返せば、玄関から応接室までだって少なくとも二分は歩いたような気がする。
この屋敷を毎日掃除する使用人は大変だ――綾那はそんな事を思いながら、ドレッサーの前に腰掛けて化粧直しをする正妃の細い背中を眺めた。
もう時間も時間だし家族団らんの場なのだから、いっその事スッピンになるのも手なのではないかと思う。しかし正妃は家族の前でも、一切妥協しない女性らしい。他人だろうが身内だろうが、むやみやたらに無防備なスッピンを見せるものではないのだそうだ。
スッピンを晒すのが嫌と言うよりは、恐らく『正妃』として肩肘張って生活しているから一時も気が抜けない、と言ったところだろうか。
(絶対に人にスッピンを見せたくないって、なんかそういうところはアリスみたい。優秀過ぎて周りの人が躓く理由が分からないってところは渚だし……見た目と性格は陽香? ――正妃様ってまるで、『一人四重奏』だなあ)
――それは綾那の脳内感想であったため、残念ながら「いや、『四重奏』って言いながら綾那の要素が入ってなくないか」とツッコんでくれる者は居なかった。
そうしてしばらく待っていると、化粧直しを終えたらしい正妃が綾那の元へやって来る。やや赤く腫れていた目元は化粧で綺麗に隠されて、ぱっと見はいつもの正妃だ。
よく見れば、泣いたのだろうなと気付いてしまうだろうが――しかしそれも時間が経てば、いくらかマシになるはずだ。
「待たせたわね。ええと、あの子が生まれた時から勘当される十歳ぐらいまでの写真なら、残っているわ。――ただ悪魔憑きの『異形』のせいで、颯月は写真を撮られるのが嫌いでね……あまり枚数はないのだけれど」
「わああ、颯月さんの昔のお写真が見られるだなんて、夢のようです……!」
綾那は、まるで神に祈るように両手を組んで瞳を輝かせた。
正妃の手元を見れば、いつの間にかぶ厚いアルバムを一冊持っている。生後から十年間の軌跡なのにたった一冊しかないアルバムを見て、颯月がどれほど写真嫌いなのかよく分かった。
そう言えば以前、綾那とルシフェリアと颯月の三人で疑似家族写真を撮影した事があった。あの時、竜禅が「ご自分が写るのは嫌いだったのでは」なんて言っていたような気がする。
颯月は「今はそんな事を言っている場合ではない」と言って意気揚々と撮影していたし、綾那が個人的に撮影したいと言った際にも、スマートフォンで写真を撮らせてくれた。
しかし本来は写真嫌いなのだと思うと、今更になって「あれはよくないお願い事だったのではないか」と気付かされる。
(そうだよね、あれだけ自分の顔を「醜い」と思い込んでいる人が――本当は写真なんて、撮りたくないに決まっているもの)
つい先ほどまで舞い上がりそうなほどハイテンションだったが、何やらアルバムを開く前から複雑な気持ちになってしまう。
綾那は正妃に小さな丸テーブルへ誘われると、少々複雑な笑みを浮かべながら席についた。
艶のある黒髪から椿のような香りがして、綾那は目元を緩めて正妃を抱き締め返す。
(いつもヒールの高い靴を履いていらっしゃるから気付かなかったけど、正妃様ってそんなに背が高くないんだ……ハイヒールは威厳を出すための武装なのかも)
だからと言って陽香ほど小さくはないが、こういう強がりな部分でさえ通ずるものがあるのだと思うと、何やら面白い。正妃はいつも紫色のハイヒールを履いていて――そこまで考えた綾那は、ふとリベリアスの色を纏う文化を思い出した。
この国では、慕う相手の髪または瞳の色の服やアクセサリーを身に纏い、好意をアピールするという文化がある。正妃が着るワンピースドレスは、基本的にシックな黒だ。唯一色があるのはハイヒールの紫だけ。
(紫と言えば、私的には颯月さんの色だけど……でも、維月先輩もお義父様も、紫色の瞳だもんね。正妃様は誰の紫色を纏っているんだろう――三人全員、かな?)
なんとなくだが、正妃は旦那と息子に人――全員を平等に愛しているような気がする。一見すると冷たい容貌でありながら、その中身は随分と熱い人だという事は、今この姿を見れば嫌でも分かるからだ。
相変わらず正妃の体は全体的に薄く、ほんの少し風が吹いただけで倒れてしまいそうだ。しかし、骨ばっていて女性らしさが皆無なのかと言えば――その身は意外と柔らかく、抱き心地が良い。
常時発動型でもないのに、何故か「軽業師」を無意識下で発動し続けてしまう陽香と違い――「軽業師」は発動しているだけでとんでもないカロリーを消費してしまうため、陽香は「四六時中痩せ続ける」「食を疎かにすれば死に直結する」という恐ろしい特性をもっている――正妃の『痩せ』は、先天性の体質らしい。
本人は太りたいと強く願っているらしいが、努力だけではどうにもならないのだそうだ。とにかく太りやすい綾那からすれば、羨ましい限りであるが――まあ互いに、ないものねだりというヤツだろう。
「――ぅ……っく……」
颯月が結婚する事がよほど嬉しかったのか、正妃は声を押し殺すように泣いている。綾那は彼女の震える背中を撫でながら、縋りつくような抱擁を何も言わずに受け止め続けた。
(颯月さんや維月先輩の前だったから、満足に泣けなかったのかな)
それを察した上で正妃を退室させたのだとしたら、颯瑛は本当に彼女の事をよく見ていると思う。無口、無表情で勘違いされまくりの王様だが――少なくとも正妃にとっては、最良の旦那である。
いや、今までは正妃にも誤解されていた訳だから、「これからは、最良の旦那になるはず」の方が正しいだろうか。
――ややあってから正妃の嗚咽と体の震えが小さくなったかと思えば、彼女はそっと窺うように顔を上げて綾那を見た。
いつも怜悧な眼差しは泣き疲れたせいか弱々しく不安げで、綾那は何やら、正妃の見てはいけない姿を見てしまったような気持ちにさせられる。
威風堂々としていて、他を圧倒するような強いオーラがあり、いつも一方的に颯月をこき下ろしている正妃。そんな彼女が、ここまで泣く姿を見る事になろうとは――人生何があるか、分からないものである。
正妃は気まずげに目を逸らしたのち、何事か逡巡してから、おもむろに口を開いた。
「その、綾那……この顔をなんとかしたいから、一度私の部屋へ行こうと思うのだけれど……お前も一緒に来る?」
「……正妃様のお部屋にですか?」
それは、綾那としては大変嬉しく――そして、身に余るお誘いであった。
正妃とは前々から、一度ゆっくり話してみたいと思っていた。『正妃』相手に不敬かも知れないが、今後は義母と義娘として付き合うつもりだから、もっと仲良くなりたい気持ちもある。
しかも颯瑛から、正妃の付き添いをするよう頼まれているのだ。綾那一人でさっさと応接室へ戻るよりかは、正妃と共に戻る方が良いに決まっている。
(そもそも慌てて戻ったところで、法律の話なんて振られても無理無理のムリだし、私……)
綾那は小さく頷いてから、「是非」と答えるために口を開きかけた。しかし、綾那が即答しなかった事で何かしら不安に思ったのか、正妃はあの手この手で誘い込むと言った様子で、口早に魅力をプレゼンし始める。
「わ、私の部屋には、幼い時の颯月のアルバムがあるわよ」
「――そっ、ア……!?」
「それを見ながら昔話でもと思ったのだけれど、どうかしら。私は颯月に避けられているから、必然的にお前とも接点がとれなくて……こういう機会でもなければ、話せないでしょう?」
「む、昔話……颯月さんの……! ――行きます、行かせてください゛……!!」
綾那は正妃の両手をがっしりと掴むと、絞り出すような声を上げて何度も頷いた。正妃は安堵するように息をつくと「こっちへいらっしゃい」と言い、綾那の手を引いて歩き出した。
◆
――正妃の私室は、応接室から徒歩三分ほどのところにあった。
家の中を三分歩くってなんなんだ? と思わなくもないが、さすが質素に見えても広さだけは牧場クラスの王宮と言ったところだろうか。ふと思い返せば、玄関から応接室までだって少なくとも二分は歩いたような気がする。
この屋敷を毎日掃除する使用人は大変だ――綾那はそんな事を思いながら、ドレッサーの前に腰掛けて化粧直しをする正妃の細い背中を眺めた。
もう時間も時間だし家族団らんの場なのだから、いっその事スッピンになるのも手なのではないかと思う。しかし正妃は家族の前でも、一切妥協しない女性らしい。他人だろうが身内だろうが、むやみやたらに無防備なスッピンを見せるものではないのだそうだ。
スッピンを晒すのが嫌と言うよりは、恐らく『正妃』として肩肘張って生活しているから一時も気が抜けない、と言ったところだろうか。
(絶対に人にスッピンを見せたくないって、なんかそういうところはアリスみたい。優秀過ぎて周りの人が躓く理由が分からないってところは渚だし……見た目と性格は陽香? ――正妃様ってまるで、『一人四重奏』だなあ)
――それは綾那の脳内感想であったため、残念ながら「いや、『四重奏』って言いながら綾那の要素が入ってなくないか」とツッコんでくれる者は居なかった。
そうしてしばらく待っていると、化粧直しを終えたらしい正妃が綾那の元へやって来る。やや赤く腫れていた目元は化粧で綺麗に隠されて、ぱっと見はいつもの正妃だ。
よく見れば、泣いたのだろうなと気付いてしまうだろうが――しかしそれも時間が経てば、いくらかマシになるはずだ。
「待たせたわね。ええと、あの子が生まれた時から勘当される十歳ぐらいまでの写真なら、残っているわ。――ただ悪魔憑きの『異形』のせいで、颯月は写真を撮られるのが嫌いでね……あまり枚数はないのだけれど」
「わああ、颯月さんの昔のお写真が見られるだなんて、夢のようです……!」
綾那は、まるで神に祈るように両手を組んで瞳を輝かせた。
正妃の手元を見れば、いつの間にかぶ厚いアルバムを一冊持っている。生後から十年間の軌跡なのにたった一冊しかないアルバムを見て、颯月がどれほど写真嫌いなのかよく分かった。
そう言えば以前、綾那とルシフェリアと颯月の三人で疑似家族写真を撮影した事があった。あの時、竜禅が「ご自分が写るのは嫌いだったのでは」なんて言っていたような気がする。
颯月は「今はそんな事を言っている場合ではない」と言って意気揚々と撮影していたし、綾那が個人的に撮影したいと言った際にも、スマートフォンで写真を撮らせてくれた。
しかし本来は写真嫌いなのだと思うと、今更になって「あれはよくないお願い事だったのではないか」と気付かされる。
(そうだよね、あれだけ自分の顔を「醜い」と思い込んでいる人が――本当は写真なんて、撮りたくないに決まっているもの)
つい先ほどまで舞い上がりそうなほどハイテンションだったが、何やらアルバムを開く前から複雑な気持ちになってしまう。
綾那は正妃に小さな丸テーブルへ誘われると、少々複雑な笑みを浮かべながら席についた。
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