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第9章 奈落の底に永住したい

24 法律書

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 予想通り、国王、正妃、王太子の三名と一堂に会するには調整が必要との事で、今すぐには面会できそうもない。要請してからこんなにも時間がかかる事ならば、アイドクレースに戻って来たその日のうちに面会のアポイントメントを取り付けるべきであった。

 一人一人と話すだけなら大して難しくもないのだが、しかし法律について相談したいと思っている以上、全員まとめて話す方がよっぽど時短で、効率的である。
 まあ、他でもない颯月が面会を避けていたのだから、こればかりは仕方がない。

 ――綾那はいつの間にか、颯月のお世話係である諸先輩方から『その四』に任命された。やる事と言えば、主に彼の執務室に控えて食事や休憩、仮眠の勧めをするという大役を仰せつかっている。

 つい先日は「綾が休憩に誘ってくれれば、俺は喜んで休憩する」なんて言っていた颯月だが、やはり単純な「そろそろ休憩しませんか?」では、執務机の椅子から腰を上げてくれない事が判明した。
 竜禅曰く、食事を運び込んでも「キリがつくまで待って欲しいと」言われるのが常で――しかもそのキリとやらは、放っておくといつまで経ってもつかないらしい。
 完璧主義なのかなんなのか知らないが、どうも颯月の「キリがつくまで」とは「仕事が全部終わるまで」と同義のようだ。

 これに関しては、仕方がないので綾那が「一緒に食べてくれないなら、私もご飯を抜きます」と脅す事にした。彼は綾那が痩せるのを何よりも恐れているため、食事をとらせるだけなら簡単だった。

 食事の度に仕事を中断させられて若干不満そうな気配を察した時には、すかさず「あーん」で茶を濁す。たったそれだけの事で、綾那自身も驚くほど颯月の機嫌が上向うわむくため、微笑ましいやら申し訳ないやら、少々複雑である。
 それに、いずれ「あーん」に慣れてしまう時が来たら大変だ。その時にはまた別の対策を練らねばならない。

 ――仮眠についても、綾那が膝枕または添い寝の提案をすれば、比較的素直に応じてくれるため楽だった。愛しい颯月の寝顔を眺めるのも彼と触れ合うのも幸せで、ひとつも苦ではない。

 眷属を探すため、夜中に街の外を巡回する日課もあるものの――ヴェゼルがだいたい片付け終わっているせいか眷属の数が著しく減少しているようで、以前にも増して見つけづらくなったのだという。
 無駄な散歩に終わる事が増え、巡回の時間は元の五、六時間から半分以下の二時間まで短くなった。そのお陰で颯月は日中の仮眠だけでなく、夜中の『睡眠』までとれるようになったのだ。

 まあ、結局その睡眠も二、三時間程度とショートスリーパーである事に違いはないのだが、日中の仮眠時間も合わせれば、彼は一日に五、六時間は眠れるようになった。
 これは何よりも素晴らしい進歩である。

 以上の事から、食事と仮眠については現状困っていない。一番苦労するのが『ただの休憩』をとらせる事だった。
 食事と睡眠は生きるために必要不可欠な事だから、問題なく時間を割ける――いや、他の人間と比べればかなり消極的なのだが。しかし、ただでさえ何もせずにぼんやりする事が苦手な颯月だ。
 なんの意味もない、ただ体を休めるだけの休憩はどうしても持て余してしまうらしい。

 仕方がないので一度の休憩時間を十五分と短く定め、三時間に一回の頻度でとらせる事にした。
 ひとまず綾那が紅茶なりコーヒーなりを淹れて、甘いオヤツをいくつか用意する。それらを喫食しながら綾那が適当な話を聞かせていれば、颯月もなんとか十五分耐えられるようになった。

 そもそも、休憩を「耐える」とはなんなのだ――と言いたくもなるが、事実耐えているのだから、他に表現のしようがないのである。

(渚はどうしているかな)

 リベリアスについて理解を深めると言って宿へ戻って行った渚とは、かれこれ三日ほど会えていない。
 騎士団が落ち着くまで綾那は街を出歩かぬよう言われており、こちらから会いに行く事は叶わないのだ。渚には、もし何かあれば――いや、用がなくとも騎士団を訪ねて欲しいと伝えてある。
 もちろん騎士側にも伝えてあるので、もし彼女が訪ねてくれば、迷わず綾那の元まで案内してくれる事だろう。

 それが訪ねてこないという事は、かなり勉強に集中しているに違いない。渚は確かに綾那に依存しているし、滅多に離れたがらないが、しかしその基本的な性質は一匹狼である。
 必要とあればいくらでも別行動するし、自分一人の時間も大切にする人間だ。

 今はとにかく、この世界について造詣を深めねばどうにもならない――と判断しての事だろう。

(それは良い事だけど、なんかちょっとだけ寂しい……あ、そう言えば法律の本を見繕って欲しいって言われてたっけ? 今の内に用意しておかなくちゃ)

 綾那は、颯月に本日二度目のオヤツ休憩をとらせるための紅茶を淹れながら、そんな事を考えた。そしてチラと颯月を見やり、「オヤツにしましょう」と声をかける。

「――もうそんな時間か? ……ついさっき休憩したばかりのような気がするんだが」
「それは昼食の時のお話じゃありませんか? それに、もう少ししたら仮眠をとる時間です」
「そうか、そうだな。ああ、今回の休憩はプリムスのマドレーヌか……これは良い、卵の味が濃厚で好きなんだ」

 執務机から来客用のソファテーブルまで渋々移動してきた颯月は、綾那の用意したオヤツを見るなり破顔した。

 パティシエール・プリムス――アイドクレースの有名洋菓子店だ。彼はこの店の甘味が特に好みらしく、以前からお茶請けとして用意されているのは、この店の商品が多い。
 竜禅の助言により、プリムスのお菓子ばかり取り寄せてもらって正解であった。

 ふと思い返せば、綾那が初めて颯月達の前でカステラの商品紹介を実演した時に食べたのも、このパティシエール・プリムスの商品だった気がする。
 目元を緩めてマドレーヌを咀嚼している颯月を微笑ましく眺めながら、綾那はつい先ほど思い出した、渚の指令を相談する。

「すみません、颯月さん。実は渚が、こちらの法律を勉強したいと言っていて――もしよければ、お勧めの本を教えて頂けると助かるんですけれど。できれば初心者向けのスターターセットと言いますか、法律の勉強を始めるならここから! という感じの……かと言って簡単すぎず、確実に理解が深まるような……?」

 渚から受けた無茶振りをそのまま伝えるが、綾那は言いながら「私、何を言っているんだろう?」と首を傾げたくなった。
 もっと言えば、この執務室に置いてある法律書を貸してくれれば更に助かるのだが――そもそも、あれらが上級者向けでは意味がない。それに本棚に複数か所空きがあるという事は、既に他の誰かに貸し出しているような気がするのだ。

 颯月は数度目を瞬かせると、口の中のマドレーヌをごくりと飲み下した。

「それは構わんが……そうだな。ここにあるものはあまり役に立たんだろうし」
「役に立たない?」
「ああ。ここに置いてあるのは、法律を全部簡潔に――というか、表記が短縮されたものばかりだ。恐らくだが、渚はこんな省略されたものじゃあ納得しないんだろうな」

 颯月はおもむろに立ち上がり、本棚から一冊ぶ厚い法律書を抜き取ると、適当なページを開いてテーブルの上に載せた。
 見ればびっしりと文字が書かれており、まるで辞書のようだ。法律名が見出しのように太字で記され、その横にあるのは解説というか――説明書きだろうか。

(刑法第二百三十五条『窃盗罪』――他人の財物を窃取せっしゅした場合に問われる罪。十年以下の懲役、または五十万円以下の罰金。窃盗罪が成立するには、不法領得ふほーりょーとくの意思が必要で…………ふ、不法領得の意思って何……?)

 綾那は、法律書を眺めながら目を眇めた。綾那にとって意味の分からない言葉が出て来た時点で読むのを中断したが、窃盗罪についての項目はまだまだ続いている。果たして、これで本当に表記が省略されているのかと首を傾げたくなる有様だ。

(颯月さんに「不法領得の意思ってなんですか」って聞いたら、幻滅されるのかな……もしかして法律用語でもなんでもなくて、一般常識だったりする? 私たぶん、社会の一般常識にも疎いから……)

 綾那はひっそりと「今度、渚に教えてもらおう」と誓った。

 ――ちなみに不法領得の意思とは 他人の物をまるで自己の所有物のように扱い、経済的な利益を得ようと売却、処分する意思の事だ。
 つまるところ窃盗罪を成立させるためには、犯人が「盗んだもので絶対に利益を得てやるぞ!」という、明確な意思があって行動を起こしているかどうかが重要なのである。
 殺人の故意――明確な殺意をもって人を殺めた場合は殺人罪、殺意が認められない場合は傷害致死罪になる仕組みと、少し似ているかも知れない。
 不法領得の意思は窃盗罪の他にもいくつか適用されるものがあるのだが――まあ、綾那の頭では理解が追い付かないし、詳しくは良いだろう。

「母上は一度見たものを一瞬で記憶する、魔法のような頭の持ち主だったらしいが……俺はそこまで出来がよくなくてな。法律全てを丸暗記したくとも、さすがに無理だった」

 綾那はなんとも言えない表情で、「五百以上ある魔法の詠唱を全て丸暗記しておいて?」と思った。自己評価がやたらと低い事は知っていたが、ここまでくると嫌味である。

 颯月は開いた本を閉じると、それを手の中で遊ばせながら紅茶のカップを口に傾けた。

「ただ、法律のサワリというか――何かしらキッカケを目にすれば、だいたいの内容を思い出せるぐらいまでにはなった。だから俺には、簡素に省略された法律書が必要なんだ。本文そのままが記されたものだと膨大な量になるし……そもそもページ数が増えれば、索引するのも大変だからな」
「うーん、やっぱり颯月さんって規格外なんですね……」
「俺の勝手な予想でしかないが、恐らく渚もそういうタイプなんじゃねえのか。一回まともな知識を詰め込みさえすれば、あとはキッカケ程度で思い出せるような」
「そうなんですよねえ……不公平だと思います」

 綾那が眉尻を下げれば、颯月はおかしそうに「アンタの熱を下げる時の渚の様子を見たら、なんとなく分かる」と笑った。
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