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第8章 奈落の底で大騒ぎ

19 渚の苛立ち

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 綾那が意識を取り戻した、翌朝。
 一睡もせず、夜通しヨモギ採りとモグサ作りに従事した颯月は、酷く消耗――しているはずもなく。疲労感も寝不足である事も感じさせずに、ピンピンしている。

 それもそのはずだ。渚は知る由もないが、そもそも彼は平均睡眠二、三時間の超ショートスリーパー。
 日中は団長として鬼のような量の職務をこなし、夜間は領内を歩き回って、明け方まで魔物や眷属退治をしているのだ。それらと比べれば、魔物を倒しながらヨモギを採取、加工するなど屁でもない。
 なんなら、正妃に茶々を入れられたり、書類仕事で気疲れしない分よっぽど気楽である。颯月にとっては、ほとんど休暇のようなものだろう。

 朝一、それこそ早朝四時頃に颯月の様子を見に外へ出た渚は、真四角の土壁モニュメント横で袋山盛りになっているモグサを見て、下唇を噛んだ。
「あの野郎、マジで朝まで作り続けてやがるぞ」――なんて思いながらじっと土の壁を眺めていると、ちょうどヨモギの加工を終えたらしい颯月が中から姿を現した。

 彼は「魔法鎧マジックアーマー」を解除しながら出てきたのだが、どうも鎧の下で眼帯を外していたらしい。
 まあ、夜通し魔法を使ってヨモギの加工をしていたのだ――さすがに体内魔力も枯渇するだろう。そうなれば、マナの吸収を妨げる魔具は邪魔になるだけだ。

 颯月は、まさかこの時間帯に渚が訪ねてくるとは思っていなかったらしく、僅かに瞠目している。そして、己の『異形』を晒してしまった事に、気まずげに目を逸らしながら眼帯を付け直した。

 左右で色の違う目と右頬に走る刺青をばっちり見てしまった渚の胸中は、ますます荒れた。――「そんなところまで綾の好みとか、一体なんの因果だ」と。
 なんなら、「綾の好みに合わせてわざわざ刺青を彫った?」「目は魔力がどうのこうので色が決まるって言うけど、それこそ魔法でオッドアイにしているのでは?」「そこまでして綾に気に入られたいのか?」「顔に墨入れてまでヤりたいか?」なんて、疑いの眼差しを向けた。

 まず渚は、『悪魔憑き』なる存在を昨日初めて知ったのだ。
 セレスティン領に三か月滞在しているとは言え、常にこのジャングルに引きこもって生活していれば悪魔憑きと出会う機会などなかった。そもそも、セレスティンにそんなものが存在しているのかどうかさえ知らない。

 だから、颯月がこの『綾那ホイホイ』としか言いようがない『異形』で苦しんでいる事など、知る由もないのである。

「いかにも、綾が好きそうな――」

 渚は、思わずと言った様子で呟いた。何故わざわざそんな事を言ったのか、渚自身よく分からなかったが――もしかすると、ちょっとした嫌味のつもりだったのかも知れない。「そこまで媚びてご苦労な事だな」と。

 しかし颯月は幾度か目を瞬かせると、相好そうごうを崩した。

「やっぱり綾の家族は、こんなもん見たくらいじゃあなんともないんだな」
「――はい?」
「普通、悪魔憑きの『異形』は人に恐れられる。だって言うのに、アンタらの口からはどんな『異形』を見ても「凄い」だの「格好いい」だの――「面白い」だの。そんな感想しか聞いた事がない」

 颯月の指摘に、渚は不可解そうに首を傾げる。

「はあ、それがこの世界の価値観――悪魔憑きの評価。つまり、その刺青が怖いかって事ですか? 確かにスタチューバーとしては、反社会勢力の疑いがある人物との交流はそれはもう恐ろしい事ですけど……何せ、活動に支障が出ますからね。でも、刺青だけで反社を疑っていたらキリがないでしょう。――特に綾は、が好きだし」
「ハンシャが何かはよく分からんが、ありがたい事だな」

 颯月は満足げに笑うと、再び森の中へヨモギ採りに出かけようとしているようだった。恐らく彼の中では、まだ『朝』を迎えていないのだろう。
 渚は彼を引き留めると――袋いっぱいのモグサなど、正直使い道に困るのである――新たな指令を下した。

「すみません、モグサはもうこれだけあれば十分です。でも、またヨモギを採って来てもらえますか?」
「そうなのか? もちろん構わんが……次は何をするんだ」
「熱を下げるのに有効なので、綾にヨモギ風呂でも作ってあげようかと思いまして」
「へえ、風呂か」

 渚の提案を耳にした颯月は、感心したように息を吐いた。単純に、そんな知識まであるのかと感嘆しているのだろう。
 彼の様子を目にした渚は、ふと何事か考えて――まるで颯月を試すように、大きな独り言を発した。

「まだ熱が高くて一人では入れないだろうから、私が入浴補助してあげなくちゃ。綾と一緒にお風呂入るの久しぶりだなあ~体も洗ってあげようっと」
「――――体を……いや、入浴補助。そうか、なるほど、それは良い考えだ。セレスティンは薬湯が有名だしな」

 颯月は一瞬、ぴくりと肩を揺らした。しかしその後たっぷりと間を空けてから、誤魔化すように当たり障りのないコメントを述べる。
 しかし渚は彼の動揺を見逃す事なく、鋭い視線を投げかけた。

「なんか今すごい間が空きましたけど、もしかして綾で変な事考えました?」
「うん? ……いや、俺は、今日もいい天気だなと思っただけだ」
「まだ明け方でクソ薄暗いですけど、よく分かりますね」
「――さて、俺はヨモギを採って来るとしよう」
「………………はーい、しばらく帰って来ないでくださーーい」

 やはり彼は、確実に綾那をよこしまな目で見ている――疑いを確信に変えた渚は、冷めた目線のまま颯月の背中を見送った。


 ◆


 その後も渚は、何かにつけて颯月を顎で使い続けた。

 そんなものが自生しているのかどうか、渚は確かめた事もないが――「綾のために甘いものが必要なので、森で果物を探して欲しいです」とか。
 渚は普段、家に備え付けの貯水タンクか水の魔石から出る水しか使わないが――「魔法で出すのでも魔石で出すのでもなく、どうしても『天然水』が必要です。どうにか森の中で、綺麗な水辺を探して十リットルぐらい汲んで来てくれませんか」とか。

 実際はなんの役にも立たないが――「この近辺に多く生息する、割と凶暴な上に群れで動く厄介な魔物の角を採って来てほしいです。それを煎じて綾の快復を早めたくて」とか。
 元々セレスティンの住民から、白虎に対して「なんとかして欲しい」とお願いされていた事だが――「魔物の遠吠えのせいで綾の眠りが浅くなっています。どこに潜んでいるのか分かりませんが、最近森に棲みついたらしい新種の魔物を黙らせて欲しいんです」とか。

 それらの他にも、朝から晩まで大小さまざまな依頼――と言う名の『いびり』を続けた。それにも関わらず、颯月はひとつも堪えた様子がない。陽香の忠告通り、終始ただ渚のストレスが溜まるばかりだった。

 そうして一日が経ち、二日が経ち。五日が経つ頃には、綾那の体調はすっかり全快してしまったのである。
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