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第8章 奈落の底で大騒ぎ

10 情報交換

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 陽香が氷を持ち帰れば、既に綾那の着替えは終わっていた。体を拭きやすいように前開きの服で横になった綾那は、相変わらず赤い顔をして、荒い呼吸を繰り返している。

「ナギ、とりあえず氷貰って来た。次はどうすりゃ良いんだ?」
「ありがとう。じゃあ小さい氷はポリ袋に入れて縛って、大きめの氷はタオルで包んでくれる? 綾の熱を下げなきゃ――」

 ピピピ、という電子音が鳴り響いたかと思えば、渚はおもむろに綾那の脇の下から体温計を取り出した。
 その液晶には『40』という恐ろしい数字が表示されている。確かにすぐさま熱を冷まさねば、体力の低下だけでなく脳症や合併症を引き起こす恐れもあるだろう。

「太い動脈がある場所――首と脇の下と鼠径そけい部に、氷を巻いたタオルを当てて様子見て。私ちょっと経口補水液つくってくるから、もし綾が寒がり始めたらすぐに外してね。それ以上冷やすと、逆効果だから」
「良いけど……氷で冷やしても平気なの? 綾那、そもそも汗かいてたところを急激に冷やされたせいで風邪ひいたっぽいんだけど……」
「風邪ってウイルスが原因なのに、病院へ行っても解熱剤とか咳止めとか症状を和らげる薬ばかりで、抗生物質って処方されないでしょう? 抗生物質が無効なウイルスが原因だから、現時点では特効薬が存在しないみたい。だから患者が「解毒デトックス」もちだろうがなんだろうが、ただの風邪なら服薬よりも自力で治すのが一番なんだよ。基本は体温を上げて、体力が低下しないように飲んで食べて、寝る。咳やくしゃみもウイルスを体外に出そうとする反応だから、無理に止める必要はないんだけど――」

 そこで一旦言葉を切った渚に、アリスが「――だけど?」と首を傾げて続きを促した。渚はゆるゆると首を横に振ってから続ける。

「でも、今の綾はソレじゃあダメ。さっき言ったのは、患者の体力が十分にある場合の話だから。ちょっと綾の体力がなさすぎるんだよね――発熱が長引き過ぎたせいで脱水を起こしてて、全身状態が悪化してる。今はとにかく熱を下げて、これ以上体力を失わないようにしないと。でなきゃ自力でウイルスを殺せないし、このまま発熱が続いて衰弱すれば、下手したら死ぬってのもあながち間違いじゃあない」

 渚の説明に納得したのか、アリスは氷を巻いたタオルを綾那の首筋や脇の下に宛がった。やはり氷が冷たいのか、意識を失っていても瞼がぴくりと震える。
 今のところ寒がっている様子は見られないが――アリスは変化を見逃さないよう、注意深く綾那を見つめている。

「綾がここまで弱るの、子供の頃以来だよね。何があったらこんな事になるの? 元々体力を消耗して弱っていたところに風邪をひいて、そのまま拗らせたとしか思えないんだけど」
「あー……まあ、そうだな。簡単に言えば、クソ暑い屋外でこれでもかと「怪力ストレングス」を使い倒して、汗だくになってる所を魔法の雪でトドメ刺されたって感じ」
「ふーん……まあ良いけど。とにかく綾の事見てて、綾が落ち着いたら少し話そうか」

 それだけ言い残すと、渚は経口補水液をつくるために部屋から出て行った。元々キッチンがあった一階は、緑に浸食されて使用できる状態には見えなかったが――別の場所へ新たにつくったのだろうか。
 ひとまずアリスは、ベッドの端に腰掛けて綾那を見下ろした。陽香は本棚の前に移動して、背表紙を眺めている。

「アーニャ抜きでナギと話すの、気が重てえなあ――」
「こ、声に出して言わないでよ、余計に気が重たくなるでしょ……ってかアンタ、何してんの?」
「鬼の居ぬ間に、颯様へ渡すプレゼントを頂戴しようと思ってな」
「……なんの話よ?」

 怪訝な表情をするアリスに悪戯っぽい笑みを返して、陽香は「これに決めた」と、一冊の写真集を手に取った。彼女はそのまま、そっと服の下へ――腹とズボンに挟むようにして、写真集を隠し入れた。
 こんな事をしている事が渚にバレれば、恐らく「あの顔の男相手に、一体何を施してるんだ。正気か?」と言ってブチ切れるに決まっている。

 陽香は満足げに笑うと、小さく砕かれた氷を詰めて縛ったポリ袋を綾那の額に乗せて、彼女の様子を見守る事にした。


 ◆


 ややあってから戻って来た渚は、盆の上に液体の入ったピッチャーとグラスを載せて戻って来た。液体からは湯気が立ち昇っている。少し冷まさなければ、グラスに入れて飲む事は出来そうにない。

 経口補水液をつくるには、まず水を煮沸するらしい。それに砂糖と塩、レモンの搾り汁を混ぜているのだそうだ。中に氷を入れると液の濃度が薄まるため、渚はピッチャーの周りをポリ袋に詰めた氷で囲んで冷やし始めた。

 脱水の症状があるため早く飲ませたいところだが――しかし今無理に飲ませると誤嚥ごえんする恐れがあるので、綾那が意識を取り戻したタイミングで飲ませるとの事だ。

「ええと――私達も渚に、色々と聞きたい事があるんだけど……とりあえず無事で良かったわ」

 アリスは変わらずベッドの端に腰掛けたまま、時にタオルで綾那の額に浮いた汗を拭きながら口を開いた。渚は近場の机にもたれかかり、小さく頷く。

「うん、それはこっちも同じ気持ち。皆生きてて良かった」
「ナギはあの日……「表」からここに「転移」された日。「蔵書ライブラリー」使って、寝てたんだよな?」
「そう、寝てた。だから、目が覚めたらスターオブスターの授賞式だったはずが――辺り一面ジャングルに囲まれてた時は本当に驚いたよ。私以外皆、居なくなってたしね」
「そ、そうよね……本当にごめんなさい。私あの時、渚の事は助けられないって諦めて、逃げ出しちゃったの」
「逃げ出した? うーん……そうだね、ちょっと互いに情報の擦り合わせしようか?」

 渚の提案に、陽香とアリスが揃って頷いた。

 ――渚の過ごした三か月半は、こうだ。
 まず「転移」された日の晩、渚はギフト「蔵書」を発動して眠りに就いていたため、いくらアリスが「早く逃げよう」と揺り起こそうとしても無駄だった。
「蔵書」は発動者の意思以外で眠りから覚める事ができないギフトなので、起きなかったのは当然である。

 そうして家ごとリベリアスに飛ばされた渚は、この場所――ジャングルのド真ん中で目覚める。「表」の東京の猛暑日など、屁でもないような熱帯の気候。やたらと降る雨と高い湿度に、鬱蒼としたジャングル。

 時に、「表」には居なかった魔物なるものも襲撃してくる。いくら家があろうとも、「安心・安全・快適」という言葉からは程遠い生活が続いた。
 しかし、強制「転移」とジャングルの生命力に溢れすぎた樹に浸食されたせいで、まともな「家」とは呼べない状態だったが――幸いにして備蓄された食料や飲料、そして「表」の魔獣狩りに使用していたような武器の類も無事だった。

 しかもこの四重奏ハウス、もしもの防災に備えて小型発電機や貯水タンクも設置していたのである。
 渚自身「鑑定ジャッジメント」という便利なギフトを持ち合わせているため、周辺を散策すれば、可食の植物や果実を見分けられる。例え魔物が現れても、どこが弱点か、どうすれば効率的に追い払えるか一目瞭然だった。

 それらのお陰で当座の生活に困る事はなく、渚は自身の置かれた状況が分からないながらも、無事生き延びられたという訳だ。

 ――しかし、そんな半サバイバル生活が数週間続いた頃、事態は急変した。数キロ離れた先にある首都セレスティンの住人に、この家と渚の存在がバレたのである。
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