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第6章 奈落の底に囚われる

27 心的外傷

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 ややあってから落ち着いたらしい颯月は、ベッドの端に腰を下ろすと、魔法によって自身の服の皺を伸ばした。水と火を使ったスチームアイロンのような魔法らしい。
 あっという間にパリッとなった騎士服に、綾那はワーと小さく歓声を上げて拍手を送る。

 彼の顔色は昨夜と打って変わって良くなっていて、目の下のクマも消えている。
 さすが十数年休みなしで働き続ける社畜マグロだ。例え体調を崩しても、回復するのがすこぶる早い。

 颯月はその次に、昨夜サイドチェストに投げた上衣を手に取ったが――袖に腕を通す事なく、膝の上に置いた。
 すぐさま自分で着られないのだと察した綾那は、いそいそとベッドから降りて、満面の笑みで上衣に手を伸ばす。

「――着させてくれるのか?」
「はい、喜んで!」

 食い気味で答える綾那に、颯月は苦く笑った。
 その勢いに気圧されただけでなく、一人で着替えすらできないというのがバレて、少々気まずいのかも知れない。

 しかし綾那はそんな事などお構いなしにウキウキと上衣を広げると、袖に颯月の片腕ずつ通させた。そのまま上衣の前を閉じて、一つ一つ丁寧に留め具を付けて行く。

 腰を折って前屈みになれば、水色の髪がさらりと垂れて――颯月はそれを指先で絡めとると、手櫛でほぐすように何度も梳いた。

「はい、できました」
「ああ、ご苦労。助かった」

 綾那は、はにかむように笑って頷いた。颯月は綾那の腕を取ると、自身の隣に座るよう促す。

「それで――昨日陛下と何があったのか、聞かせてくれるか。どうして閉じ込められずに戻って来れた? 俺は、あの人は「頭の病気だ」と言って聞かされて育ったんだが……」
「いいえ、頭の病気だなんてとんでもない。なんて言えば良いのか……「お義父様」と呼んでも、怒られませんでしたよ」
「おとう――、……うん? どういう事だ、それは特殊なプレイか何かなのか? だとすれば、完全にだと思うんだが――」
「あの、いや、そうではなくて……」

 どこまでも真剣な表情で不敬極まりない事を言う颯月に、綾那は困り顔になった。どう話せば、颯瑛について正しく伝えられるのだろうか。
 綾那はしばらく「うーん」と悩んだが、やがてアレコレと考えるのが面倒になってしまい、自分の思うままを伝える事にした。

「勘当……本当は、したくなかったのですって」
「――――は?」
「お義父様は、私に興味があるんじゃあなくて……颯月さんと仲良くなりたくて、私に仲介を頼んだだけなんです」
「綾、何を言って――」

 明らかに動揺して戸惑っている颯月の手を握り、綾那は続けた。

「話してみて分かったんですけれど……びっくりするぐらい、誤解されやすいタイプみたいですよ? 誤解と一言で断じるには、あまりにもアレですけど」

 綾那は苦く笑い、昨夜颯瑛と話した内容を掻い摘んで説明した。

 まず颯瑛は、綾那の事を輝夜の生まれ変わりなんて思っていない。
 彼女と「契約エンゲージメント」した指輪を今でも大事にしていて、黒く色を失った魔石が再び染まりでもしない限り、生まれ変わりは現れないと正しく理解している。

 颯月を殺したいほど憎んでいるというのも、間違いだ。ただし、出生直後に「一生悪魔憑きにされた」と察したため――颯月が将来苦労するだろうと思い、手にかけようとした事は確かである。
 悪魔憑きはリベリアスで忌避される存在だ。例えそれが王太子――国王の息子だとしても、変わらない。

 先代の王から少々特殊な教育を施されたため、感情表現が乏しい人間に育った颯瑛には、我が子を一人で立派に育てる自信がなかった。
 経験豊富な乳母を頼ろうにも、生まれた子が悪魔憑きでは、まともな助力は望めない。問題は見た目の『異形』だけでなく、無尽蔵の魔力が暴発すれば、ケガどころでは済まないところだ。命の危険がある子守など、普通は御免だろう。

 それに、仮に立派に育ったとしても――颯月は文字通り一生、血の繋がった実子を得られない。だから颯月が苦しむ前に、全て終わらせたかったのだ。

 せめて国王が周囲の人間に、「颯月は一生、普通の人間には戻れない」と説明してから行動に移れば、ここまで誤解を深めなかったはずなのだが――輝夜を喪い、颯月まで呪われてしまい、当時十三歳と未成熟だった精神は耐えきれなかった。
 一言も喋らず問答無用で、しかも、説明を求められても一切答えずに颯月を手にかけようとしたばかりに、周囲の者は「輝夜を喪ったショックで、気が狂ったのだ」と誤認した。

 誤認――と言うと、語弊があるのかも知れない。颯瑛は実際、精神的ショックが原因で自暴自棄になっていたのだから。

 しかしそもそもの話、輝夜は眷属から颯月を守ったために亡くなった――という前提からして間違っている。
 いや、結局出産が原因で亡くなった事を考えれば、全くの無関係とは言えないのかも知れない。だが「産む」と言って聞かなかったのは、他でもない輝夜だ。
 その罪を、ただ生まれて来ただけの颯月に背負わせるなんて間違っている。

 そうして誤解を深めた颯瑛は、周りからの信頼を完全に失う。
 結局、颯月は正妃と竜禅の元で――幸せかだったどうかは分からないが――すくすくと成長した。

 やがて颯瑛は、悪魔憑きでも厭わずに正妃が義母の役割をしてくれるなら、自身も父になれるかも知れないと考えを改めた。しかし、改めるには遅すぎたのだ。

「気が狂った」と評されるようになってから数年間、颯瑛は一度も誤解をとくために動かなかった。
 もしかすると初めの方は、対話と和解を試みたのかも知れないが――周囲の信頼は、底辺を超えてマイナスなのだ。あの、すぐに拗ねて「もう、それでいい」と匙を投げる性格では難しいだろう。

 颯月に近付こうとすれば「まだ殺すつもりなのか」と警戒され、正妃は颯月を連れてリベリアス中を巡る旅に出るわ、竜禅は「殺したいほど憎いなら、いっそ勘当してやってくれ」と嘆願しに来るわ――。
 ますます不貞腐れた颯瑛は、完全に対話を諦めた。彼らに言われる通り、誤解通りの振る舞いを繰り返すようになる。

 それでも輝夜の忘れ形見、しかも彼女によく似た颯月を完全に手放す事はできず、苦肉の策として――竜禅が、王都以外に唯一定住できる地らしい――ルベライト領へ渡る事を禁じた。そうすれば颯月は、王都から出られない。
 何故なら彼は、常に竜禅と行動を共にしているし――ただでさえ、一生悪魔憑きなんていう孤独な存在なのだ。
 いくら颯瑛から離れたいと思ったとしても、一番の理解者、そして父親代わりの竜禅と離れて生きるなど、考えもしなかっただろう。

「それで、昨日私が呼び出された理由ですけど……婚約者の私に仲介を頼めば、颯月さんと和解できる可能性があるのではないかと思――」

 言いながらちらりと颯月の反応を窺った綾那は、すぐさま口を噤んだ。
 綾那を見る彼の顔が、信じられないモノを見るような――それでいて、酷く傷ついているように見えたからだ。

(あ……これ、完全に失敗した)

 いくらなんでも馬鹿正直に話しすぎたし、事を進めるには性急すぎた。
 部外者の――それも、そもそも人を疑わない綾那からすれば、「誤解のせいで仲が拗れて皆が可哀相、なんとかできないかな」ぐらいにしか思えない事だった。しかし当事者の想いは、全く違うだろう。

 二十三年だ。長きに渡り颯月の心を蝕んだ『誤解』に対して、あまりにも無神経だった。
 綾那は謝罪しようと口を開きかけたが、しかし彼はそれ以上喋るなとでも言わんばかりに、綾那の口元を片手で塞いだ。
 颯月はマナを吸収するためにいまだ眼帯を外したままで、色違いの瞳には仄暗い光を灯している。

「――――……アンタそれ、本気で言っているのか?」

 常よりも低い声色は僅かに殺気立っていて、綾那は思わずぶるりと身震いした。それに構わず、颯月は責めるように畳みかける。

「綾が人を疑わん事はよく知っているが、今回ばかりは度が過ぎる。いや、例え真実だとして――今まで俺がその『誤解』とやらに、どれだけ苦しめられてきたと思ってる? 苦しんだのがあちらだけだと思うなよ」

 颯月は綾那の口を塞いだまま、続けた。

「陛下から直接恨み言を聞かされるならまだしも、俺は物心つく前から、周囲の人間に責められ続けてきたんだぞ。俺のせいで母上が死んだ――母上が死んだせいで、陛下がおかしくなった。女の戦闘を禁じる悪政も、それが原因で眷属や魔物に対処しきれなくなって国が荒れるのも、全て俺のせいだと」

 まるで痛みに耐えるように声を絞り出す颯月に、綾那はただ小さく頷く事しかできない。

「俺が諸悪の根源ならさっさと殺してくれれば良かったのに、肝心の陛下は伏せって王宮から出てこない。全て終わりにしたくて処罰を嘆願しようにも、正妃サマも禅も、一度も陛下に会わせてくれなかった。……その理由が何か、分かるか? 俺のためじゃない、だ。あの二人はただ、母上を喪い、その遺児まで殺してたまるかとムキになっていただけなんだからな」

「口を開けば、バカの一つ覚えのように輝夜、輝夜――さすがにを見ていない事くらい、分かる」と、自嘲するように鼻で笑う颯月を見て、綾那は痛いほど胸が締め付けられた。

 今まで彼が、こんなにも昏い気持ちを吐露した事があっただろうか。繊細な面はありつつも いつも余裕そうな笑みを湛えて、堂々とした態度を貫いていた颯月。
 しかし根本は――彼のトラウマは、決して正妃のスパルタ教育だけによるものではないのだ。
 そんな単純な話ではなく、自身の出生からして苦痛でしかなかったのだから。

「正妃サマに厳しく躾けられたのも、生き残れるよう強くなれと禅に鍛えられたのも、俺は何一つとして望んでいなかった。俺が望むのは終わりだけだったのに……許されなかった。――母上が死んだのは、俺のせいじゃないだと? いっそ俺のせいであってくれた方が救われた。そうでなければ俺は、どうしてこんなにも苦しめられてきたのか……納得できなくなるだろう。あまりにも不条理だ、違うか?」

 綾那は、黙って何度も頷いた。怒りによるものか悲しみによるものか、綾那の口を塞ぐ颯月の手は、僅かに震えている。
 今更なんの慰めにもならないと知りながらも、その手に自身の手を重ねて、宥めるように撫でた。

「最初から誤解をとくつもりがないなら――すぐ匙を投げるような、その程度の親愛しかなかったなら……確実に、殺して欲しかった」

 途端に弱り切った声色に変わる颯月に、綾那は彼を撫でる手をぴたりと止めた。じっと颯月を見やれば、彼は眉根を寄せた苦しげな表情で綾那を見返した。

「まんまと――まんまと、陛下の危惧した通りになってる。確かに度々。母親は死んで父親には勘当されて、義弟とも『家族』を名乗れない。正妃サマと禅が親代わりだった事は認めるし感謝もしているが、血の繋がりはない。俺は、血脈が全ての血筋に生まれたんだ。周囲の親類を見て育って、血の繋がった家族に対する憧れがどれほど強いか――俺が維月に向ける執着は、恐らく分けた血に対するものが大きい」

 颯月はそこで言葉を切ると、綾那の口元を覆う手を下ろした。そして、今にも泣き出しそうな歪な笑い顔を浮かべると、綾那の髪に手を差し込んで、かき上げるようにして撫でつけた。

「――お前との子供が、死ぬほど欲しい。家族になりたかった。……こんな想いをするくらいなら、生まれてすぐ死んでいた方が良かったんだ」
「……颯月さん」
「それが夫婦の全てじゃない事は、頭では分かってる。だが、俺からすれば――血を分けた子供をもって初めて『家族』として成立するのに、それが不可能なんじゃあ、いつ瓦解がかいしたっておかしくない。そんなものは飯事ままごとの関係に過ぎない……飯事はお遊びだ、いつでも辞められる。いつかお前が俺から離れて行くと思うと、不安で仕方が――」

 綾那は颯月の言葉を最後まで聞く事なく、数週間ぶりに「怪力ストレングス」を発動させた。
 手始めに自身の髪を撫でる颯月の腕を掴むと、頭から引きはがす。

 突然の事に目を瞠る颯月に構わず腰を上げると、彼の正面に立つ。そうしてベッドの端に腰掛けたままの颯月の両腕を掴み、勢いよく押し倒した。

「は……?」と、混乱しきりの颯月の上に馬乗りになった綾那は、彼の両腕を封じたまま小首を傾げて見下ろした。わざわざ言葉にしなくとも、目だけで愛していると伝わるように――精一杯慈しむような眼差しで。
 やっている事と表情がちぐはぐだと、綾那自身思う。あっという間に力ずくで組み敷かれた颯月は、ますます困惑の表情を浮かべたのであった。
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