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第5章 番外編
5 颯月と竜禅(※颯月視点)
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目を閉じたまま振り向いた颯月は、数歩前へ躍り出た。そうして少し時間を置いてから、意を決してゆっくり目を開くと――己の目の前に立つアリスを真っ直ぐに見やる。
別に、彼女自身の姿に変化はない。颯月からすればどこもかしこも細すぎるし、伊織が口走った通りに、綾那とは似ても似つかない薄めの体形だ。
個人の趣味嗜好を批判したくはないものの、やはりこうしてド派手な化粧を施しているよりかは、素顔の方が清楚で万人ウケするだろう。
そう――せっかく美しく、愛らしいのに。わざわざ化粧なんてしなくとも、派手に着飾らなくとも、彼女はただそこに居るだけで自身の目を楽しませるのに。
そんな事を流れるように思った――思ってしまった颯月は、己の頭を思い切り殴りたくなった。
「ぐ……っ」
「――颯月様?」
小さく呻いた颯月に竜禅が呼びかけたが、しかし、今は返事するどころではない。颯月は眉根を寄せて、ただアリスを凝視した。
これは、即座にアリスから目を逸らして逃げた伊織の気持ちが、よく分かるというものだ。
綾那へ募らせた恋慕が、上から無理やりに塗り潰されていく感覚。
まるで、颯月が好いているのは初めからアリスだったとでも言うように――綾那に対する思いが急速に萎んでいくような、消されて、上書きされていくような気持ちにさせられる。
しかもこの洗脳魔法の不快なところは、綾那への想いが奪われていく代わりに、目の前のアリスが酷く愛しい存在に思えてくる事だ。
頼んでもいないのに、胸にぽっかりと開いた穴をアリスがすぐさま埋め固めてしまう。
颯月は思わず、頬の内側の肉をグッと噛み締めた。口内に広がる鉄の味に、ほんの少しだけ目が覚めたような気がする。
――綾那に「戻る」と約束したのに。褒美にキスをもらうと言ったのに。ゆくゆくは結婚だってしたいと――あれだけ閉じ込めたいと思っていたはずなのに。
愛しいはずの綾那の姿が、まるで靄がかかったようにぼんやりと薄れて上手く思い出せない。
綾那はどんな顔をしていたか。どんな姿を、声をしていたか。果たして彼女は、アリスよりも美しかっただろうか。
颯月は、まんまと「偶像」に心を奪われそうになっている事に酷く動揺した。
なんとか綾那と過ごした記憶、思い出を引き出そうとするが、恐ろしい事に何一つ出てこない。いや、思い出せはする。するのだが、正しくは――彼女を愛しく思う気持ちが、全く記憶に伴っていないのである。
東の森で初めて彼女を見た時に、「どうやら天使を捕まえてしまった」と思った事も。颯月の『異形』を前にして、嫌悪するどころか前のめりの好意を見せつけられた日の衝撃も。
口付けを強請られた夜、危うく正妃の教えも忘れて押し倒しそうになった事も――あの破壊力を誇る泣き顔さえも。
思い出したところで、どれもただの記憶に過ぎなかった。綾那が愛しいと思えない。
これは、綾那に対するとんでもない裏切り行為である。彼女が戦う前から「勝てる訳がない」と諦観していた訳が、ようやく身に染みた。
颯月は心のどこかで確かな敗北を感じながらも、しかし負けたくない、逃げたくないというギリギリのところで保たれている精神力でもって、目を逸らさずにアリスを見続けた。
――やはり細いし、薄い。
創造神のルシフェリアを相手取り「傲慢だ」と言わしめるほど負けん気は強いし、健康的に焼けた肌も相まって、正妃を彷彿とさせる。
颯月の個人的な好みに全く掠っていないのに、何故こんなにも欲しいと思うのか。
このままアリスと対峙していれば、遅かれ早かれ伊織のように屈してしまうだろう。その内に見ているだけでは――想うだけでは止まらなくなって、自らアリスに触れてしまうかも知れない。
一度でも触れてしまえば終わりだ。颯月はその時点でもう、綾那に会わせる顔がなくなる。
そうして一言も喋らなくなった颯月を、幸成が「水鏡」越しに見ながらソワソワしている。陽香もまた颯月の背後で、ほうと小さく息を吐いた。
「やっぱ、颯様も即落ちせずに耐える訳か……もしかしてリベリアスの人間って、根本的に「偶像」が効きづらいのか?」
「いや、でも一人は「表」の男と同じくらい呆気なかったじゃない。多分だけど――今まで綾那が付き合ってきた男って、皆マジのクズだったんじゃない? 綾那の事たいして好きでもないのに、あの子に言い寄られてなんとなく付き合っていたんじゃあ……」
「あー、まあ……アーニャが尽くしまくりのダメ男製造機だから、仕方ねえわな。けど、あんなスゲーのが「好きです」ってグイグイ来たら、男の方だってマジになりそうなもんだけど」
「だから、マジのクズしか居なかったのよ。綾那みたいなのが一方的に尽くしたら、「俺はスゲー」って増長して良い気になって、それだけで満足だったんじゃないの? そこ行くと、伊織くんと颯月さんは本気よね。渚が見れば、ほんの少しは認めてくれたでしょうに――この場に居ないのが残念だわ」
そうして感心する陽香とアリスの会話を聞いて、颯月はますます苦しんだ。
綾那の顔すら思い出せなくなっているくせに、彼女の過去の男の存在をちらつかされると酷く不快だった。自分はこうして気持ちを浮つかせているのに、綾那の恋愛遍歴を聞いただけで妬くとは、棚上げにも程がある。
――それだけでも情けなくて苦しいのに、アリスが何か言葉を発するたび、彼女に惹かれるのがはっきりと分かって尚辛いのだ。
颯月は、もうこれ以上はまずいと思って、虚ろな眼差しで白旗に手を伸ばした。ちらと壁に掛けた「水鏡」を見やれば、固く口を引き結んだ竜禅の姿が映っている。どうか完全に屈する前に、綾那を裏切る前に止めて欲しい。
彼はマスクをしているため、一見すると表情が分からない。しかし、長年彼と過ごして来た颯月には、顔が見えなくとも気配で分かった。
ああ、何やら随分と不機嫌らしいな――と。
あれだけ大口を叩いておいて、いとも簡単に降参しようとしている颯月が不甲斐ないのか。それとも、唯一無二の主である輝夜に託された颯月を、竜禅自身が介錯しなければならない事を憂鬱に思っているのか。
颯月としても、彼にこんな事を頼んで申し訳なく思う。しかし、どうにも綾那を失って生きるのだけは耐えられなかったのだ。
今でこそ想いが消え失せてしまっているが、颯月は自身が驚くほど綾那に惚れていた。
始まりは、見た目があまりにも理想のタイプだったから。しかし話してみれば中身まで正妃とは真反対で癒されて、人を疑わない素直でおっとりとした性格が、この上なく愛らしくて。
颯月の話をよく聞いて逆らわず、こちらの弱い部分も全部まとめて包み込んで、ただ無償で愛してくれた。
一生悪魔憑きの颯月が――いや、一生悪魔憑きの颯月をあれほど好ましく思う女性とは、もう二度と出会えないだろう。だと言うのに、颯月が浮気すれば何もかも終わりだ。
もし見限られでもしたら、彼女に何をしでかすか分からない。綾那が颯月の手を離れて他所の男の元で幸せになるなど、考えただけで怖気が走る。閉じ込めるどころでは済まないかも知れない。
――であれば、無理心中するしかないではないか。
どうせコレが最期ならば、いくらでも小言を聞いてやろう。颯月はそんな思いでもって、竜禅に余裕のない笑みを向けた。
すると彼はおもむろにマスクに手を掛けて、いとも簡単に外した。「水鏡」には、やけに真剣な青い目が映っている。
「――颯月、降参なんて言ってくれるなよ」
「えっ、禅さん喋り方……」
いつもと全く違う喋り方で、しかも颯月の事を呼び捨てた竜禅に、陽香は目を瞬かせた。アリスまで驚いたように目を丸めて、颯月から「水鏡」へ視線を移している。
竜禅は、周囲の困惑など意に介していない様子で続けた。
「私が願うのは、我が主から託されたお前の幸せのみだ。降参したお前を殺したところで、そんなもの幸せとは程遠いだろうが――確実に勝て。そして、さっさと綾那殿を迎えに行け。時間がかかり過ぎだ、もうとっくに泣いているかも知れんぞ」
「――綾……」
竜禅の言葉を聞き、虚ろな眼差しに光が戻った気がした。颯月はいつものように不敵に笑うと、「そうだな」と言って頷いた。
「陽香、アリス、俺と綾の仲を認めろ。俺はこの通り、アイドルとやらに耐えたぞ」
「は!? ――い、いやっ、まだ耐えたかどうか、分からんだろ!? アリス、颯様に触りまくれ! それでも耐え抜いたら、アーニャんとこ行ってチューでもなんでもしろってんだ!」
「なっ、なんでも? なんでもと言われるのは、さすがに困る……その辺りの線引きはしっかり決めておいてもらわんと、俺は正妃サマの教えに反する可能性が出てくるんだが――」
「ナニしようとしてんのか知りたくもないけど、アリス、早く颯様を仕留めろ! ここで白黒はっきり付けんと、マジでナギが怖えんだよ!」
「わ、分かってる! 私だって変に手抜きして怒られるのは嫌よ、あの子に嘘なんて通じないんだから!!」
颯月は、アリスの姿を見て声を聞いたが、若手のように錯乱しなかった。ただし、ここまでの流れは伊織も同じだ。彼はアリスに詰め寄られて、頬に直接触れられたのちに陥落したのだ。
つまり、颯月とてアリスに触れられれば、まだ堕ちる可能性が残されている。
一歩、また一歩と近付いてくるアリスに、颯月は身を固くした。
それは、正妃のように骨ばった――もとい、華奢な女性が近寄って来るという緊張感だけではない。少なからず、まるで意中の女性が近付いてくるような高揚感に似たものを感じていた。
竜禅に叱咤されてなんとか意識を引き戻したものの、やはりまだ完全に「偶像」に打ち勝った訳ではないのだろう。
このまま触れられれば、どうなるか――そうして身構える颯月の頬に、アリスが手を伸ばした。
腕を伸ばせばすぐに抱き締められるほどの距離で、頬に触れられた瞬間。颯月は、今度こそ抗えないと思った。
触れられた頬を起点にして、電流のように甘い痺れが体中を駆け巡る。急激に体が乾いて干からびてしまいそうだ。この渇きを癒すには、目の前の女を手中に入れるしかない。
このまま欲望に身を任せて堕ちてしまえば、果たしてどれほどの快楽を得られるのだろうか。
ダメだと思う暇もなく、ほとんど無意識の内に颯月の両腕がもたげられていた。今にもアリスを抱き寄せてしまいそうな動きをする颯月に、竜禅が全く彼らしくもない「オイ!!」という荒々しい声を上げた。
「颯月、一つ良い事を教えてやる! 確かに綾那殿の笑い顔には、我が主の面影がある――しかし垂れ目はともかくとして、顔そのものはたいして似てない! 前にも言ったが、高慢ちきな輝夜様と嫋やか綾那殿では、普段の表情なんざ似ても似つかん!!」
竜禅の言葉に、颯月は一体なんの話だと動きを止めた。吠える竜禅の隣では、やや引いた表情を浮かべた幸成が「禅ってたまに、伯母様に対しても容赦ねえよな……」と呟いている。
竜禅は「水鏡」越しに真っ直ぐ颯月を見据えながら、ハッキリと告げた。
「――正直言って、輝夜様よりよほど私のタイプだ!!!」
「…………は?」
「お前が今後アリス殿とどうなろうが、綾那殿から離れてくれるならそれはそれで――私は喜んで歓迎する! ただし、後で女々しく文句なんて言うなよ! そもそもお前が浮気したのが悪いんだからな!」
「――おい。待て禅、いきなり何を言い出すんだ。さっき俺の幸せがどうとかこうとか、随分と高尚な事を言っていなかったか?」
突然訳の分からない事を言い出した竜禅に、驚き過ぎてすっかり正気を取り戻したのだろうか。颯月はもたげていた両腕を下ろすと、困惑した表情を浮かべた。
なんなら「悪い、もうアイドルの検証どころじゃねえ。ちょっと下がってろ」と、自らアリスの肩をやんわり押して、彼女と距離を取った。アリスは「えっ……私に触れられて、しかも自分から触って――な、なんで堕ちないのよ!?」と瞠目している。
「なあ、禅。ダメだった時は俺と綾を殺せと言わなかったか? アンタそれに同意したはずだよな」
「あんなに愛らしい人を殺せるか。抜けたお前の後釜として慰めて――代わりに、私が貰うに決まっている」
「……………………そうか、話が違うな」
颯月の声色は冷静だった。しかしその周囲には、紫色に光る静電気がバチバチと物騒な音を立てて弾けている。どこからどう見ても、魔力の暴走である。
同じ悪魔憑きの明臣はハッとすると、アリスの元へ一目散に駆け出した。そして、颯月の反応と突然現れた静電気に目を白黒させている彼女の手を取ると、その目を真っ直ぐに見つめて語りかける。
「姫! このままでは危険だから、一旦ここを離れよう」
「えっ!? は、離れるって言ったって……私「偶像」があるから、外に出たら大変な事になっちゃうのよ! 今この訓練場に、男の人が何人居ると思って――」
「し、シアは!? もう「偶像」なんか吸い取ってもらえ!! 禅さんのアシストありきとは言え、颯さマグロのヤツ「偶像」を跳ねのけやがった……もう検証は良いだろ、終わりだ終わり! ――て言うか、なんで王子は通常運行なんだ!?」
「――うん? ああ……私は既に、姫の虜だからでは?」
「んな訳あるか!? 「偶像」の力舐めんなよ! ああもう、とにかくシア戻ってこい! 「偶像」吸ってくれ、ついでにあたしのギフト全部返してくれー!! こんな所で死にたくない! 「軽業師」で逃げるー!!」
ワーワーと騒ぐ陽香達に構わず、颯月は竜禅に問いかけ続けた。
「アンタ、まさか綾を好いていたのか? 母上の面影がどうこう関係なく……? 一体いつから――」
「私は元々ルベライトで暮らしていたんだぞ。痩せが至高のアイドクレースではともかく、ルベライトならば彼女は最上級の美姫だ。懸想しない方がどうかしている」
「――禅、だから話が違う。しかも、なんでよりによって今そんな告白をするんだ」
「お前はアリス殿に鞍替えするようだから」
「しない」
「いいや、ほとんどしていた。お前が要らないなら綾那殿は私が貰う、お前も好きにすればいい」
「………………禅」
「私はどこかの誰かと違って、婚前交渉もし放題だからな。精々羨ま死ぬと良いさ」
その時、まるで颯月の荒れ狂う心情を表すように、ばちりと音を立てて一際大きな火花が散った。魔力の暴走による余波なのか、建物全体がズドンと縦揺れする。
訓練場がにわかに騒がしくなり、片付け途中の若手がなんだなんだとざわつく声が聞こえてくる。「天井に火が!」という叫び声に幸成が青褪めると、桃華の身を案じたのか舞台裏から一人飛び出て行った。
ばちばちと絶えず不穏な火花を散らす颯月に、竜禅は小さく肩を竦める。
「それほどまでに嫌なら、早く迎えに行ってください――もう、綾那殿に対する想いは取り戻せましたか?」
竜禅は途端に態度を改めて、いつもと同じ喋り方になった。
颯月は「取り戻すも何も、そもそも失ってねえ」と不満げに呟いたが、竜禅はイマイチ信じていないようで「では、そういう事にしておきましょうか」と嘯く。
やがて、辺りに渦巻いていた火花も静電気もかき消えて――天井は燃えているようだが――舞台裏がしんと静まり返った。そうして落ち着きを取り戻した颯月の背に、陽香が「そ、颯様……?」と呼び掛ける。
「――勝ちだよな?」
「えっ」
「危うい部分があった事は認める。だが俺は、アイドルに勝った……そうだな?」
その言葉に、陽香は無言になった。アリスは降参だと言うように、コクコクと何度も頷いている。
「じゃあ、公認だな。褒美のキス――いや。俺は確か、綾になんでもして良いんだよな?」
「………………ええい、クソ! アーニャの貞操とあたしらの命が危ねえ! アリス、お前はここで颯様の足止めをしろ!! じゃないとナギに合わせる顔がねえぞ!」
「は!? バカじゃないの? 私「偶像」無くしたから、もう打つ手ナシなんだけど!?」
どうやら颯月と竜禅が話し合っている間に、ルシフェリアはアリスの「偶像」を吸収したらしい。更に、陽香から借りていたギフトも全て返却したようだ。
陽香は目にも留まらぬ速さで駆け出すと、あっという間に訓練場から姿を消した。まず間違いなく「軽業師」の力だろう。
「全く、諦めの悪い女だな――まあ良い、俺は綾を迎えに行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
マスクを付け直して恭しく礼をする竜禅を一瞥すると、颯月はスッと目を細めた。
「……禅。アンタ、しばらく綾に構うなよ」
「私の忠誠心を疑うとは、心外ですね。私はただ、颯月様の目を覚まして差し上げようと発破を掛けたまでですが?」
「抜かせ。何年アンタを見てきたと思ってるんだ、冗談か本気かぐらい見れば分かる」
不貞腐れたような声色の颯月に、竜禅はふと口元に笑みを湛えた。そして「私では力不足です。彼女が受け入れるはずがない」と呟くと、早く行けと言うように颯月の背を押した。
こうして颯月は「偶像」の誘惑を跳ねのけて、アリスと陽香から――陽香は逃げ出したが――公認を得たのである。
颯月が綾那の暴走によって再び魔力の制御を失うまで、あともう少し――。
別に、彼女自身の姿に変化はない。颯月からすればどこもかしこも細すぎるし、伊織が口走った通りに、綾那とは似ても似つかない薄めの体形だ。
個人の趣味嗜好を批判したくはないものの、やはりこうしてド派手な化粧を施しているよりかは、素顔の方が清楚で万人ウケするだろう。
そう――せっかく美しく、愛らしいのに。わざわざ化粧なんてしなくとも、派手に着飾らなくとも、彼女はただそこに居るだけで自身の目を楽しませるのに。
そんな事を流れるように思った――思ってしまった颯月は、己の頭を思い切り殴りたくなった。
「ぐ……っ」
「――颯月様?」
小さく呻いた颯月に竜禅が呼びかけたが、しかし、今は返事するどころではない。颯月は眉根を寄せて、ただアリスを凝視した。
これは、即座にアリスから目を逸らして逃げた伊織の気持ちが、よく分かるというものだ。
綾那へ募らせた恋慕が、上から無理やりに塗り潰されていく感覚。
まるで、颯月が好いているのは初めからアリスだったとでも言うように――綾那に対する思いが急速に萎んでいくような、消されて、上書きされていくような気持ちにさせられる。
しかもこの洗脳魔法の不快なところは、綾那への想いが奪われていく代わりに、目の前のアリスが酷く愛しい存在に思えてくる事だ。
頼んでもいないのに、胸にぽっかりと開いた穴をアリスがすぐさま埋め固めてしまう。
颯月は思わず、頬の内側の肉をグッと噛み締めた。口内に広がる鉄の味に、ほんの少しだけ目が覚めたような気がする。
――綾那に「戻る」と約束したのに。褒美にキスをもらうと言ったのに。ゆくゆくは結婚だってしたいと――あれだけ閉じ込めたいと思っていたはずなのに。
愛しいはずの綾那の姿が、まるで靄がかかったようにぼんやりと薄れて上手く思い出せない。
綾那はどんな顔をしていたか。どんな姿を、声をしていたか。果たして彼女は、アリスよりも美しかっただろうか。
颯月は、まんまと「偶像」に心を奪われそうになっている事に酷く動揺した。
なんとか綾那と過ごした記憶、思い出を引き出そうとするが、恐ろしい事に何一つ出てこない。いや、思い出せはする。するのだが、正しくは――彼女を愛しく思う気持ちが、全く記憶に伴っていないのである。
東の森で初めて彼女を見た時に、「どうやら天使を捕まえてしまった」と思った事も。颯月の『異形』を前にして、嫌悪するどころか前のめりの好意を見せつけられた日の衝撃も。
口付けを強請られた夜、危うく正妃の教えも忘れて押し倒しそうになった事も――あの破壊力を誇る泣き顔さえも。
思い出したところで、どれもただの記憶に過ぎなかった。綾那が愛しいと思えない。
これは、綾那に対するとんでもない裏切り行為である。彼女が戦う前から「勝てる訳がない」と諦観していた訳が、ようやく身に染みた。
颯月は心のどこかで確かな敗北を感じながらも、しかし負けたくない、逃げたくないというギリギリのところで保たれている精神力でもって、目を逸らさずにアリスを見続けた。
――やはり細いし、薄い。
創造神のルシフェリアを相手取り「傲慢だ」と言わしめるほど負けん気は強いし、健康的に焼けた肌も相まって、正妃を彷彿とさせる。
颯月の個人的な好みに全く掠っていないのに、何故こんなにも欲しいと思うのか。
このままアリスと対峙していれば、遅かれ早かれ伊織のように屈してしまうだろう。その内に見ているだけでは――想うだけでは止まらなくなって、自らアリスに触れてしまうかも知れない。
一度でも触れてしまえば終わりだ。颯月はその時点でもう、綾那に会わせる顔がなくなる。
そうして一言も喋らなくなった颯月を、幸成が「水鏡」越しに見ながらソワソワしている。陽香もまた颯月の背後で、ほうと小さく息を吐いた。
「やっぱ、颯様も即落ちせずに耐える訳か……もしかしてリベリアスの人間って、根本的に「偶像」が効きづらいのか?」
「いや、でも一人は「表」の男と同じくらい呆気なかったじゃない。多分だけど――今まで綾那が付き合ってきた男って、皆マジのクズだったんじゃない? 綾那の事たいして好きでもないのに、あの子に言い寄られてなんとなく付き合っていたんじゃあ……」
「あー、まあ……アーニャが尽くしまくりのダメ男製造機だから、仕方ねえわな。けど、あんなスゲーのが「好きです」ってグイグイ来たら、男の方だってマジになりそうなもんだけど」
「だから、マジのクズしか居なかったのよ。綾那みたいなのが一方的に尽くしたら、「俺はスゲー」って増長して良い気になって、それだけで満足だったんじゃないの? そこ行くと、伊織くんと颯月さんは本気よね。渚が見れば、ほんの少しは認めてくれたでしょうに――この場に居ないのが残念だわ」
そうして感心する陽香とアリスの会話を聞いて、颯月はますます苦しんだ。
綾那の顔すら思い出せなくなっているくせに、彼女の過去の男の存在をちらつかされると酷く不快だった。自分はこうして気持ちを浮つかせているのに、綾那の恋愛遍歴を聞いただけで妬くとは、棚上げにも程がある。
――それだけでも情けなくて苦しいのに、アリスが何か言葉を発するたび、彼女に惹かれるのがはっきりと分かって尚辛いのだ。
颯月は、もうこれ以上はまずいと思って、虚ろな眼差しで白旗に手を伸ばした。ちらと壁に掛けた「水鏡」を見やれば、固く口を引き結んだ竜禅の姿が映っている。どうか完全に屈する前に、綾那を裏切る前に止めて欲しい。
彼はマスクをしているため、一見すると表情が分からない。しかし、長年彼と過ごして来た颯月には、顔が見えなくとも気配で分かった。
ああ、何やら随分と不機嫌らしいな――と。
あれだけ大口を叩いておいて、いとも簡単に降参しようとしている颯月が不甲斐ないのか。それとも、唯一無二の主である輝夜に託された颯月を、竜禅自身が介錯しなければならない事を憂鬱に思っているのか。
颯月としても、彼にこんな事を頼んで申し訳なく思う。しかし、どうにも綾那を失って生きるのだけは耐えられなかったのだ。
今でこそ想いが消え失せてしまっているが、颯月は自身が驚くほど綾那に惚れていた。
始まりは、見た目があまりにも理想のタイプだったから。しかし話してみれば中身まで正妃とは真反対で癒されて、人を疑わない素直でおっとりとした性格が、この上なく愛らしくて。
颯月の話をよく聞いて逆らわず、こちらの弱い部分も全部まとめて包み込んで、ただ無償で愛してくれた。
一生悪魔憑きの颯月が――いや、一生悪魔憑きの颯月をあれほど好ましく思う女性とは、もう二度と出会えないだろう。だと言うのに、颯月が浮気すれば何もかも終わりだ。
もし見限られでもしたら、彼女に何をしでかすか分からない。綾那が颯月の手を離れて他所の男の元で幸せになるなど、考えただけで怖気が走る。閉じ込めるどころでは済まないかも知れない。
――であれば、無理心中するしかないではないか。
どうせコレが最期ならば、いくらでも小言を聞いてやろう。颯月はそんな思いでもって、竜禅に余裕のない笑みを向けた。
すると彼はおもむろにマスクに手を掛けて、いとも簡単に外した。「水鏡」には、やけに真剣な青い目が映っている。
「――颯月、降参なんて言ってくれるなよ」
「えっ、禅さん喋り方……」
いつもと全く違う喋り方で、しかも颯月の事を呼び捨てた竜禅に、陽香は目を瞬かせた。アリスまで驚いたように目を丸めて、颯月から「水鏡」へ視線を移している。
竜禅は、周囲の困惑など意に介していない様子で続けた。
「私が願うのは、我が主から託されたお前の幸せのみだ。降参したお前を殺したところで、そんなもの幸せとは程遠いだろうが――確実に勝て。そして、さっさと綾那殿を迎えに行け。時間がかかり過ぎだ、もうとっくに泣いているかも知れんぞ」
「――綾……」
竜禅の言葉を聞き、虚ろな眼差しに光が戻った気がした。颯月はいつものように不敵に笑うと、「そうだな」と言って頷いた。
「陽香、アリス、俺と綾の仲を認めろ。俺はこの通り、アイドルとやらに耐えたぞ」
「は!? ――い、いやっ、まだ耐えたかどうか、分からんだろ!? アリス、颯様に触りまくれ! それでも耐え抜いたら、アーニャんとこ行ってチューでもなんでもしろってんだ!」
「なっ、なんでも? なんでもと言われるのは、さすがに困る……その辺りの線引きはしっかり決めておいてもらわんと、俺は正妃サマの教えに反する可能性が出てくるんだが――」
「ナニしようとしてんのか知りたくもないけど、アリス、早く颯様を仕留めろ! ここで白黒はっきり付けんと、マジでナギが怖えんだよ!」
「わ、分かってる! 私だって変に手抜きして怒られるのは嫌よ、あの子に嘘なんて通じないんだから!!」
颯月は、アリスの姿を見て声を聞いたが、若手のように錯乱しなかった。ただし、ここまでの流れは伊織も同じだ。彼はアリスに詰め寄られて、頬に直接触れられたのちに陥落したのだ。
つまり、颯月とてアリスに触れられれば、まだ堕ちる可能性が残されている。
一歩、また一歩と近付いてくるアリスに、颯月は身を固くした。
それは、正妃のように骨ばった――もとい、華奢な女性が近寄って来るという緊張感だけではない。少なからず、まるで意中の女性が近付いてくるような高揚感に似たものを感じていた。
竜禅に叱咤されてなんとか意識を引き戻したものの、やはりまだ完全に「偶像」に打ち勝った訳ではないのだろう。
このまま触れられれば、どうなるか――そうして身構える颯月の頬に、アリスが手を伸ばした。
腕を伸ばせばすぐに抱き締められるほどの距離で、頬に触れられた瞬間。颯月は、今度こそ抗えないと思った。
触れられた頬を起点にして、電流のように甘い痺れが体中を駆け巡る。急激に体が乾いて干からびてしまいそうだ。この渇きを癒すには、目の前の女を手中に入れるしかない。
このまま欲望に身を任せて堕ちてしまえば、果たしてどれほどの快楽を得られるのだろうか。
ダメだと思う暇もなく、ほとんど無意識の内に颯月の両腕がもたげられていた。今にもアリスを抱き寄せてしまいそうな動きをする颯月に、竜禅が全く彼らしくもない「オイ!!」という荒々しい声を上げた。
「颯月、一つ良い事を教えてやる! 確かに綾那殿の笑い顔には、我が主の面影がある――しかし垂れ目はともかくとして、顔そのものはたいして似てない! 前にも言ったが、高慢ちきな輝夜様と嫋やか綾那殿では、普段の表情なんざ似ても似つかん!!」
竜禅の言葉に、颯月は一体なんの話だと動きを止めた。吠える竜禅の隣では、やや引いた表情を浮かべた幸成が「禅ってたまに、伯母様に対しても容赦ねえよな……」と呟いている。
竜禅は「水鏡」越しに真っ直ぐ颯月を見据えながら、ハッキリと告げた。
「――正直言って、輝夜様よりよほど私のタイプだ!!!」
「…………は?」
「お前が今後アリス殿とどうなろうが、綾那殿から離れてくれるならそれはそれで――私は喜んで歓迎する! ただし、後で女々しく文句なんて言うなよ! そもそもお前が浮気したのが悪いんだからな!」
「――おい。待て禅、いきなり何を言い出すんだ。さっき俺の幸せがどうとかこうとか、随分と高尚な事を言っていなかったか?」
突然訳の分からない事を言い出した竜禅に、驚き過ぎてすっかり正気を取り戻したのだろうか。颯月はもたげていた両腕を下ろすと、困惑した表情を浮かべた。
なんなら「悪い、もうアイドルの検証どころじゃねえ。ちょっと下がってろ」と、自らアリスの肩をやんわり押して、彼女と距離を取った。アリスは「えっ……私に触れられて、しかも自分から触って――な、なんで堕ちないのよ!?」と瞠目している。
「なあ、禅。ダメだった時は俺と綾を殺せと言わなかったか? アンタそれに同意したはずだよな」
「あんなに愛らしい人を殺せるか。抜けたお前の後釜として慰めて――代わりに、私が貰うに決まっている」
「……………………そうか、話が違うな」
颯月の声色は冷静だった。しかしその周囲には、紫色に光る静電気がバチバチと物騒な音を立てて弾けている。どこからどう見ても、魔力の暴走である。
同じ悪魔憑きの明臣はハッとすると、アリスの元へ一目散に駆け出した。そして、颯月の反応と突然現れた静電気に目を白黒させている彼女の手を取ると、その目を真っ直ぐに見つめて語りかける。
「姫! このままでは危険だから、一旦ここを離れよう」
「えっ!? は、離れるって言ったって……私「偶像」があるから、外に出たら大変な事になっちゃうのよ! 今この訓練場に、男の人が何人居ると思って――」
「し、シアは!? もう「偶像」なんか吸い取ってもらえ!! 禅さんのアシストありきとは言え、颯さマグロのヤツ「偶像」を跳ねのけやがった……もう検証は良いだろ、終わりだ終わり! ――て言うか、なんで王子は通常運行なんだ!?」
「――うん? ああ……私は既に、姫の虜だからでは?」
「んな訳あるか!? 「偶像」の力舐めんなよ! ああもう、とにかくシア戻ってこい! 「偶像」吸ってくれ、ついでにあたしのギフト全部返してくれー!! こんな所で死にたくない! 「軽業師」で逃げるー!!」
ワーワーと騒ぐ陽香達に構わず、颯月は竜禅に問いかけ続けた。
「アンタ、まさか綾を好いていたのか? 母上の面影がどうこう関係なく……? 一体いつから――」
「私は元々ルベライトで暮らしていたんだぞ。痩せが至高のアイドクレースではともかく、ルベライトならば彼女は最上級の美姫だ。懸想しない方がどうかしている」
「――禅、だから話が違う。しかも、なんでよりによって今そんな告白をするんだ」
「お前はアリス殿に鞍替えするようだから」
「しない」
「いいや、ほとんどしていた。お前が要らないなら綾那殿は私が貰う、お前も好きにすればいい」
「………………禅」
「私はどこかの誰かと違って、婚前交渉もし放題だからな。精々羨ま死ぬと良いさ」
その時、まるで颯月の荒れ狂う心情を表すように、ばちりと音を立てて一際大きな火花が散った。魔力の暴走による余波なのか、建物全体がズドンと縦揺れする。
訓練場がにわかに騒がしくなり、片付け途中の若手がなんだなんだとざわつく声が聞こえてくる。「天井に火が!」という叫び声に幸成が青褪めると、桃華の身を案じたのか舞台裏から一人飛び出て行った。
ばちばちと絶えず不穏な火花を散らす颯月に、竜禅は小さく肩を竦める。
「それほどまでに嫌なら、早く迎えに行ってください――もう、綾那殿に対する想いは取り戻せましたか?」
竜禅は途端に態度を改めて、いつもと同じ喋り方になった。
颯月は「取り戻すも何も、そもそも失ってねえ」と不満げに呟いたが、竜禅はイマイチ信じていないようで「では、そういう事にしておきましょうか」と嘯く。
やがて、辺りに渦巻いていた火花も静電気もかき消えて――天井は燃えているようだが――舞台裏がしんと静まり返った。そうして落ち着きを取り戻した颯月の背に、陽香が「そ、颯様……?」と呼び掛ける。
「――勝ちだよな?」
「えっ」
「危うい部分があった事は認める。だが俺は、アイドルに勝った……そうだな?」
その言葉に、陽香は無言になった。アリスは降参だと言うように、コクコクと何度も頷いている。
「じゃあ、公認だな。褒美のキス――いや。俺は確か、綾になんでもして良いんだよな?」
「………………ええい、クソ! アーニャの貞操とあたしらの命が危ねえ! アリス、お前はここで颯様の足止めをしろ!! じゃないとナギに合わせる顔がねえぞ!」
「は!? バカじゃないの? 私「偶像」無くしたから、もう打つ手ナシなんだけど!?」
どうやら颯月と竜禅が話し合っている間に、ルシフェリアはアリスの「偶像」を吸収したらしい。更に、陽香から借りていたギフトも全て返却したようだ。
陽香は目にも留まらぬ速さで駆け出すと、あっという間に訓練場から姿を消した。まず間違いなく「軽業師」の力だろう。
「全く、諦めの悪い女だな――まあ良い、俺は綾を迎えに行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
マスクを付け直して恭しく礼をする竜禅を一瞥すると、颯月はスッと目を細めた。
「……禅。アンタ、しばらく綾に構うなよ」
「私の忠誠心を疑うとは、心外ですね。私はただ、颯月様の目を覚まして差し上げようと発破を掛けたまでですが?」
「抜かせ。何年アンタを見てきたと思ってるんだ、冗談か本気かぐらい見れば分かる」
不貞腐れたような声色の颯月に、竜禅はふと口元に笑みを湛えた。そして「私では力不足です。彼女が受け入れるはずがない」と呟くと、早く行けと言うように颯月の背を押した。
こうして颯月は「偶像」の誘惑を跳ねのけて、アリスと陽香から――陽香は逃げ出したが――公認を得たのである。
颯月が綾那の暴走によって再び魔力の制御を失うまで、あともう少し――。
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