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第5章 奈落の底で絆を深める

44 どちらが優位?

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 綾那は、涙に濡れる瞳をぱちりぱちりと瞬かせた。口をついた「どうして」は、決してキスの理由を問うものではない。
 何故「偶像アイドル」を食らったにも関わらず、綾那に変わらぬ好意を抱いているのか――という意味だ。

(「偶像」が発動しなかった? ――ううん、試合に勝たないとご褒美はナシって話なんだから、それはない……え? つまり、試合に勝った――?)

 いまだキスをしたい理由に頭を悩ませているらしい颯月の顔を見上げて、綾那はぽかんと口を開いた。
 颯月が勝った――まさか本当に、「偶像」が効かなかったと言うのか。しかしそれにしては、先ほどまでの態度がおかしくなかったか。

 途中、ふとした瞬間に甘く蕩けるような顔をしていた事は確かだが、颯月の表情は基本的に硬かった。綾那と話していても素っ気なかったし、態度もどことなく冷たかった。笑い方だって、何やら意地の悪い――棘を感じるものだった気がする。

(アリスにメロメロになって、てっきり私の存在が邪魔になっちゃったんだと思っていたのに……違うの……?)

 けれども今、至極しょうもない事で真剣に頭を悩ませている颯月は――間違いなく、綾那のよく知る颯月だ。

 一体、何を信じれば良いのか。もしこれが、綾那を油断させて確殺するための演技だとしたら? 「颯月が勝った、嬉しい!」と舞い上がったところで「そんな訳がないだろう」と突き放されてしまったら、綾那は二度と立ち直れなくなるかも知れない。
 まあ、死ねばそんな苦しみさえも終わるのだが。

 いや――そもそも、颯月は先ほど「アリスの元から綾那の元へ帰るのは、無理な話だ」と、はっきり明言していたではないか。
 陽香が「狙われているから逃げろ」と焦っていた事だっておかしい。つまりは、それが答えなのだろう。

「私を、揶揄っていらっしゃるんですか……?」

 俯きながら声を震わせて問いかければ、颯月が弾かれたように顔を上げた。そして不可解そうな顔をして、「揶揄う?」と目を細める。

 しかし、ふと顔を上げた綾那の表情を見ると、グッと息を呑んで黙り込んだ。鏡がなくとも彼の反応で分かる。今綾那が、どれほど頼りない表情をしているのか。

「だ、だって、「偶像」で釣られたんでしょう? アリスから離れたくない、私の所には帰りたくないって、さっき――」
「そうは言ってねえだろ。俺はただ、アリスの男になるどころか綾から心を離した覚えもないのに、どこからどこにどう帰れって言うのか教えろ――という意味で言ったんだ。帰るも何も、俺はまだを出てすらいないのに」
「……え?」
「前に言ったよな? 俺の愛情を疑った事を、死ぬほど後悔させてやるって」

 言いながら颯月は、いつものように綾那の髪の毛をひと房手に取った。そして遊ぶように指に巻き付けては解き、また巻き付けてを繰り返す。

「俺を信じると言ったくせに、いとも簡単に泣いたのが――嬉しくもあり、憎たらしくもあってな。まあ多少、意地悪な物言いをしたのは間違いない、それは謝ろう」
「――いじわる?」
「俺の迎えを待たずに陽香と逃げた事にも、腹が立ったしな」
「えっ……で、でも、陽香が先に執務室に来て、私――颯月さんはダメだったんだって……!」
「あれは、俺が公認を迫った途端にアイツが……確か、アクロバットだったか? あれで目にも留まらぬ速さで逃げ出しやがって、出遅れたんだ。訓練場も――ちょっと色々あって、揉めてたしな」
「揉めていた? そういえば、何か大きな魔法が――煙も出ていましたよね」
「まあ、詳細はいい。世の中には知らん方が良い事もあるからな。ただ一つ言えるのは、俺は間違いなく。だから褒美が欲しい……それだけだ」

 何故か気まずげな表情で目を逸らした颯月に、綾那はますます訳が分からなくなる。

 詳細は省かれたが、つまり、颯月は嘘でもなんでもなく本当に――本当に、「偶像」が効かなかったという事で良いのか。
 綾那は、颯月の顔色を窺うように上目遣いになった。そして、拒絶されないかどうか確かめるためにそっと両手を伸ばす。騎士服の上衣の裾をぎゅうと掴めば、颯月は目元と口元緩ませて、小首を傾げた。

「ちなみに、アリスは俺と綾の関係を認めたぞ? 渚とやらの反応を大層気にしていたようだが、アイドルを跳ねのけられたからには、何も言えんとな。陽香は途中で逃げやがったが――まあ、逃げたのが答えだろう。あれは紛れもない公認だ」
「でも、どうやって勝ったんですか? 本当になんともなかったんですか……?」
「言っただろう? 世の中には知らん方が良い事もある――まあ、いつか気が向いたら話そう。それよりも、まだ返事を聞いてない。あまり焦らさないでくれ」

 颯月は、とろりと甘ったるい笑みを浮かべた。まだ涙の跡が残る綾那の頬を指先で拭って、彼は改めて「キスがしたい」と囁いた。
 紫色の瞳は期待と、僅かばかりの情欲が入り混じった熱く甘い色に染められている。

 綾那は颯月をじっと見上げて、騎士服から手を離した。自由になった両手を、次は彼の両頬に向かって伸ばす。
 そうしてはくはくと唇を動かしたが、あまりにも声が小さすぎて颯月に何ひとつ届かない。

「うん? 綾、なんて――」

 そのままでは聞き取れないからと、颯月は僅かに膝を折って綾那に顔を近づけた。
 ――そうして、まんまと綾那のまで呼び寄せられた颯月の両頬を手で押し挟み、固定する。彼が「何を」と思った時にはもう遅い。

 綾那はつま先立ちになると瞳を閉じて、そのまま颯月の唇に自身の唇を重ねた。

(やっぱり、好き――大好き。結婚したい……)

 颯月はビクッと体を跳ねさせて以降、ぴくりとも動かなくなってしまった。そんな彼に構わず、綾那はこの想いを余さず全部伝えられればいいのにと、たっぷり時間をかけて唇を離した。
 そのまま至近距離で颯月を見つめれば――彼は紫色の垂れ目をこれでもかと見開き、硬直している。

 綾那は彼の両頬を固定していた両手を、するりと撫でるように滑らせた。颯月の首の後ろへ両腕を回すと、体をぴたりと密着させて抱き着く。

「…………頬、に――」

 ようやく我に返ったらしい颯月が何事か呟けば、この閉鎖空間を照らす天井の灯りが明滅した。真四角に囲う土の壁も、僅かに震えた気がする。
 綾那は「頬?」と言って首を傾げると、蠱惑的な瞳をして最大限色っぽく微笑んだ。

「俺はアンタのに、キスするつもりだったんだが――?」

 酷く困惑した様子の颯月に、綾那はますます笑みを深めた。
 なんとなくだが、頭の片隅で「不純異性交遊ダメ絶対だから、そうだろうな」とは思っていた。そんな事を考えながら、懲りずにまた唇を押し付ける。

 唇を離した瞬間「は」と、珍しく間の抜けた声を漏らした颯月を真っ直ぐに見つめて、綾那は首を横に振った。

「頬っぺたじゃあ、私は満足できません――だって、ずっと前から颯月さんとキスが……それ以上の事が、したかったんですから」

 颯月は固まったまま何も答えなかったが、内心酷く動揺している事だけはよく分かった。
 何故なら、魔法の灯りの明滅がまるで切れかけの電球のように激しいし、先ほどから周囲の土壁がズゴゴゴゴ――と音を立てて、震えまくっているからだ。

 いつか、伊織相手に苛立っていたあの日のように。いつか、氷でできた通路を誤ってかち割ったあの時のように。明らかに魔力制御に支障をきたしている。
 危険な状態にも関わらず、綾那は攻め手を緩めなかった。最早緩める必要がなかったのだ。颯月があまりにも完璧な――理想の男だったから。

「颯月さん、どうしても叶えて欲しいお願いがあるんですけれど――聞いてくれませんか?」

 豊か過ぎると言われる胸をこれでもかと押し付けて、上目遣いの瞳を潤ませて。あざとくも小首を傾げる綾那の姿と言ったら、小悪魔、魔性という表現がぴったりかも知れない。
 恐らく今綾那の『百八式ある愛情表現』の練度は、三式から一気に五十式ぐらいまでぶっ飛んでいる。

 もはや満身創痍と言っても過言ではない颯月は、表情を硬く強張らせたまま、たっぷりと間を空けてただ一言「――聞くだけ、聞こうか」と低く呟いた。
 彼の言葉に、綾那は蕾が綻ぶように笑った。

「どうか私を、颯月さんのお嫁さんにしてください――私の全てを奪ってくれませんか?」

 綾那のお願いを聞くや否や、天井の灯りと周りを囲う土壁がドパンと派手な音を立てて破裂した。

「おわっ、いきなり何――おいおいおいアーニャ、お前何してんの!?!? 近すぎる! 近すぎるだろ!?」
「――あ、陽香」
「あ、じゃなくてな!? ま、まさか本当にちゅーしてないよな!? 未遂だな!? そ、そうだよな、何もせずに居てくれてありがとうな! ナギにも変に言い訳しなくて済んだわ! ああ~、よかったよかった!!」

 外界を遮断する土の壁がなくなった事で、地面に転がされていた陽香と目が合った。
 彼女の自由を奪う「風縛バインド」もまた、制御を失い弾け飛んだのだろうか。今更ながら、彼女弾け飛ばなくて良かった。

 陽香はよろよろ立ち上がると、まるで自分自身に「大丈夫だ、問題ない」と言い聞かせるように――ただただ、陽香にとって都合の良い解釈を大声で叫んでいる。
 綾那は颯月の首筋に抱き着いたまま、陽香に向かって屈託のない笑顔を向けた。

「陽香。私、颯月さんと結婚します。もう二度と「表」には帰りません!」
「…………何言っちゃってんの? お前――」
「颯月さんは「偶像」にも負けない素敵な人なので、絶対に結婚します――お祝い、してくれるよね……?」

 言いながら綾那は、ぎゅうと更に強く颯月にしがみついた。
 颯月はずっと硬直状態のまま絶句していたが、そこでようやく体をぴくりと震わせると、躊躇いがちに綾那の背中へ両腕を回して、やんわりと抱き締めた。

 綾那は心の底から嬉しくなって、「もっとキスしても良いですか?」と甘えた声で問いかける。
 しかし颯月は大袈裟に肩を揺らすと、目を逸らして「一日にしていい回数制限を超えたから、今日はもうダメだ」と言って、首を横に振った。

 その本気か冗談か分からない断り文句に、綾那はくすくすと笑う。そんなバカップルを間近で見た陽香は、唇を戦慄かせて叫んだ。

「ふ、不純異性交遊、ダメ絶対! は、どうしたんだよ!? け、結婚……結婚ン!? そんなもん、ナギに許可どりしろっつーの! あたしとアリスは知らんぞ! 何も知らんからなーーッ!!!」

 彼女の叫び声を皮切りに、辺りがざわざわと騒がしくなってくる。室内訓練場の揉め事とやらが落ち着いて、大会に集まっていた者がみな解散したのだろうか。

 ――何はともあれ、綾那は大満足である。
 綾那の肉食っぷりに颯月がすっかり怯えている疑惑はあるものの、どう思われたってこんなに幸せなのだから平気だ。
 訓練場で起きた揉め事も、颯月が「偶像」に打ち勝った方法だって関係ない。ただ彼が綾那の傍に居てくれるならば、なんだって構わない。

 真横で「いい加減、離れた方が良いんじゃあねえか!? なあ!?」と必死の形相で叫ぶ陽香に構わず、綾那は颯月を見上げて「愛しています」と甘く囁いた。
 彼は返事に迷うように目を泳がせたが、しかしやがて綾那を真っ直ぐ見下ろすと、なんとも言い難い表情で「俺も愛してる」と答えたのだった。
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