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第5章 奈落の底で絆を深める

43 言質と謎

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 地面にへたり込んだ綾那と、それを見下ろすように立つ颯月との距離は、だいたい五メートルほどだ。暗闇ならまだしも、魔法の灯りがついた今となっては互いの表情もしっかりと見える。

 綾那は茫然自失したまま、身じろぎひとつせずに颯月を見上げた。胸中も、マスクの下の瞳も不安いっぱいで、どうにも落ち着かない。

(今、何が起きているんだろう――)

 綾那には、全く状況が把握できていなかった。
 結局のところ「偶像アイドル」の結果はどうなったのか。肝心のアリスは今どこに居るのか。
 室内訓練場で魔法が使われたのは何故か。あの煙は問題ないのか。颯月が「偶像」に屈した時は竜禅が介錯かいしゃくするという話は、どうなったのか。

 何故陽香は、あんな必死の形相で綾那に「逃げろ」と叫んだのか――颯月はどうして、綾那を土の壁に閉じ込めたのか。

(やっぱり、確実に仕留めようとしてる!? 私がどれだけ颯月さんに必死なのか、他でもない颯月さん自身がよく知っているはず……! もしかしたら「口で言ってもコイツとは関係が断てない、下手したらアリスを害される」と思われているのかも――)

 綾那は「絶対に邪魔しません」と弁明するつもりで口を開いた。しかし死の恐怖からか、それとも颯月を失った事による精神的ダメージによるものなのか――喉が引きつって、言葉が出てこない。
 混乱しているせいか呼吸も上手くできずに、視界はどんどんぼやけて行く。

 細い息を漏らしただけの綾那に、颯月はその場でしゃがみ込むと目線の高さを合わせた。

「――マスクが邪魔だな」
「ひっ、ぇ……ま、マスク……?」

 彼はしゃがんだまま僅かに頭を傾けると、俯く綾那の顔をじっと眺めた。
 まだ物理的な距離があるためどうしたって不可能だが、その仕草はまるで、綾那の顔を下から覗き込もうとしているようだ。

 まさか開口一番マスクについて言及されるとは、思ってもみなかった。
 しかしここで下手に機嫌を損ねれば、冗談抜きで人生が終わるのではないか。綾那は舌をもつれさせながら「すぐ取ります」と、震える手で留め具を外した。

 そうしてマスクを外して素顔を晒せば、颯月はどこか意地の悪い笑みを浮かべて口を開く。

「ああ――そんなに泣くほど、俺を奪われるのが嫌なのか?」

 その問いかけに、綾那は何もかもがストンと腑に落ちた。

(そっか、泣いてるから、こんな……)

 焦る陽香を見て、すっかり涙を止められたと思っていた。
 先ほどいつもと様子の違う颯月の姿を目にした時に、思わず溢れたのだろうか。それとも本当は、一度も止まっていなかったのか。

 道理で喉が引きつって上手く話せないはずだ。
 体の震えも、息苦しさも、ぼやけた視界も――全部、綾那が泣いているせいだ。一度でも自覚すると、そこからは堰を切ったように涙が溢れた。

 颯月の姿は涙の膜で二重にも三重にも滲み、ぼやける。そのぼやけたシルエットだけ見ても、やはり愛しいと思う。
 浮気だけは綾那の許容範囲外だったはずなのに。しかし、その信念を曲げても良いと思えるほど好きだ。唯一でなくて良い。一番でなくても良い。ただ、ほんの少しでも綾那を見てくれる時間があれば、それだけで充分だ。

(泣き顔を見せれば、正気に戻るかもって――戻ってくれるなら、いくらでも泣く……!)

 颯月は以前、例え「偶像」に負けても、綾那の泣き顔さえ見れば正気に戻りそうだと言っていた。
 一度は負けたのだから、陽香達からの公認は二度ともらえないだろうが――そんなもの、今の綾那には関係ない事だった。

 周囲の意見など、どうだって良い。ただ綾那は、絶対に颯月でないとダメなのだ。颯月が愛してくれるなら他の事は関係ない。四重奏家族だって捨ててしまうだろう。

 一度「偶像」に釣られたからなんだと言うのか。颯月の心は既に、間違いなく綾那が受け取っているのだ。
 ただ正気に戻って、また綾那を愛してくれるなら――こんな一時の気の迷いなど、全てなかった事にできるから。
 綾那は恥を捨て、颯月に懇願した。

「い、嫌です、絶対に奪われたくありません……! だから、だからどうか、アリスから……私の所まで、帰って来てください――」

 下手に追い縋れば、颯月の中で「やはり殺らねば断てぬ」という思いが固まってしまうかも知れない。そもそも、泣き落としなんて手に頼るのもどうかと思う。
 それでも綾那は、懇願せずにはいられなかったのだ。

 しかし颯月は、「そうか」と短く答えただけだった。そのあまりに素っ気ない物言いに、否が応でも綾那に気持ちが一切向いていないのだと思い知らされる。
 今の颯月は、完全にアリスの虜なのだ。綾那がいくら泣いても無駄で、懇願しても無駄で――ただ浅ましく、醜いばかり。

 綾那は、喉がキュッと締まる感覚を覚えた。
 どんな汚い手を使ってでも颯月を取り戻したいのに、これ以上嫌われたくない、彼の目に醜く映りたくないと勝手な思いを抱く。

 こうなってしまったらもう、前にも後ろにも進めないではないか。綾那はただ泣きながら、懇願する事をやめて閉口した。
 颯月はおもむろに立ち上がると、一歩、また一歩と綾那へ近付いた。そうして目の前まで辿り着くと、冷めた声色で「いつまでそうしているつもりだ?」と問いかける。

 綾那は痛みに耐えるようにぎゅっと眉根を寄せると、やがて両手で涙を拭い、立ち上がった。拭った傍からまた新しい涙が溢れたが、それでもなんとか気丈に振舞おうと、颯月を真っ直ぐに見上げる。

 彼は一瞬僅かに目を細めたが、しかし気を取り直したように首を振る。そして次に、綾那の左手に触れた。節の目立つ指に、手指だけでなく心まで絡め取られた気がする。
 邪魔にはなってはらない、ここは潔く身を引かねばならない。そう思うのに、一瞬で頭の中が「嫌、行かないで」で埋め尽くされてしまう。

「アリスの元からアンタの元へ帰るっていうのは、無理な話だな」
「颯月さん……そんなに、アリスが――」
「そんな馬鹿げた話よりも、俺はアンタに頼みがあって来た。だって言うのにアンタ、陽香と一緒に逃げるから――」

 ――頼み。
 わざわざ左手に触れながら言われて、綾那は直感的に「契約」の解除を乞われるのだと理解した。
 初めに契約する時だって、相手の了承が必要なのだ。それを解除する時もまた、了承を得る事が不可欠な魔法なのだろう。

 もうこれ以上、醜く追い縋らない方が良いだろうか。せめて今からでも綺麗に身を引いた方が、颯月の心証が良いだろうか。

(キッパリ、「無理な話」って言われたものね――)

 綾那が目を伏せれば、また大粒の涙が頬を滑り落ちた。
 やがて綾那は意を決したように颯月を見上げると、無理矢理に微笑んだ。

「なんでも……なんでも、仰ってください。どんな事でも聞き入れますから――」

 綾那は半ば自棄になっていた。
 これ以上颯月に冷たくあしらわれるのは辛過ぎて、耐えられない。「契約」の解除だろうが死だろうが受け入れるから、もうここから出して、自分を逃がしてくれ――と。

 颯月は口元に手を添えると思案顔になって、首を傾げた。

「…………どんな事でも聞き入れるのか」
「はい」
「……………………?」
「……え? は、はい……」
「そうか――いや、ちょっと待て。今のやり取り、もう一度だけできるか? 急だったから、魔具レコーダーに明瞭に録音できているか不安が残る……念のため、もう一度録音しておいた方が良いんじゃあ――」
「レ……? あの――」

 颯月は、左胸にじゃらじゃらと付けられた胸章の一つを指の爪先でつついて、「そもそも、ちゃんと動いていたんだろうな――たまに動作不良を起こす事があるから……」と、独りごちている。

(レコーダーって……今の私、そこまで信用がないの……?)

 いつも付けている胸章の中に、録音機が混ざっていた事実にも驚きだが――そんな事よりも綾那は、証言を覆せないように録音せねばと思われている事が、酷くショックだった。

 ますます自暴自棄になった綾那は、一歩前に出て颯月の胸元へ顔を寄せる。そして、「この私、綾那は、颯月さんの頼み事であれば、どんな事でも聞き入れます!」と涙声で宣誓した。
 続けて、面食らったように瞠目した颯月を、「これで満足か」とでも言うように恨めしげな表情で見上げた。

 颯月はしばらく目を瞬かせていたが、しかしふと相好そうごうを崩すと、途端に目元を甘く緩める。突然の表情の変化に、綾那は「え」と呟いて数歩後ずさった。

「――ああ、今のは間違いなく録れた。これで俺の未来は安泰だ」
「あ、安泰? そんな、私元々、颯月さんの邪魔をしようなんて――」
「うん? そんな事はひとつも気にしてない、綾が俺の邪魔になるはずがないからな。さて、言質げんちもとれたところで――俺の頼みを聞いてくれるか?」

 甘く緩んだ目元は真剣なものに変わり、綾那は思わずごくりと唾を呑んだ。そして「はい」と頷けば、颯月の大きな喉仏が上下するのが見えた。

「……褒美が欲しい」
「――――ほーび?」
「キスがしたい。……しても良いか?」
「…………へ……? ど……どうして――?」
「どうして? どうしてと聞かれるとは思わなかった……「ずっとしたかったから」じゃあ、理由になってないか? なんならとんでもない言質も頂いた事だし、いっそこのまま抱かせて欲しいところではあるんだが――まだ一人、公認を受けてない綾の家族が残ってるからな」

 ぶつぶつと「どうしてと言われてもな――」と、それらしい理由を捻出ねんしゅつしようと唸る颯月を見て、綾那は完全に思考停止した。
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