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第5章 奈落の底で絆を深める
2 異変
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颯月は天幕を出ると、まず背に纏う外套を外して綾那の肩に掛けた。そうしてフードを目深に被せたかと思えば、すっかり視界が狭まった綾那の手を引いて歩き出す。
いつもなら歩調を合わせてゆっくりと歩く彼が、今日ばかりは早足だ。手を引かれる綾那は必然的に駆け足になった。
まあ、目と鼻の先に魔物の群れが押し寄せているのだから、急いで当然――いや。本当はただ、天幕の傍らに立つ正妃から逃れたいだけかも知れない。
颯月は街の正門に向かって進みながら、慌ただしい様子ですれ違う騎士らへ声を掛けた。
「――状況は?」
「は! 現状、魔物の侵攻は正門で食い止めておりますので、街に被害はありません。ただ、北の方角に新たな土煙が上がっていて――この分だと、第三波が来るのではないかと思われます」
すれ違う騎士のうちの一人が駆けて来て、まるで秘書官のように颯月の横を歩きながら、口早に状況説明をする。
「もう誰か対応に向かわせたのか?」
「今まさに部隊を編成しているところです。ここで待つのではなく、斥候を兼ねて北側へ撃って出ようかと――」
「いい、このまま誰も行かせるな。巻き込まれるぞ」
騎士は、颯月の言葉に目を瞬かせた。しかしすぐさま彼の意図するところを察したのか、「団長、後はよろしくお願いいたします!」と、勢いよく頭を下げる。
機敏な動きで上げられた顔は晴れやかだ。上空高くに浮かぶ光球から、「残業確定だったところに強力な助っ人が現れて、定時退社が決まった! なんて、小躍りしそうな勢いだね』という、やけに具体的な呟きが聞こえた。
すっかり肩の力を抜いた騎士は、他の騎士へ伝言するために踵を返しかけた。しかし、ふと颯月の後ろを歩く綾那に視線をやると、何事か逡巡してから口を開いた。
「その、先ほどの方……ですよね? 本当に助かりました。あなたが眷属を――あの魔法を封じる魔具ごと引き付けてくれなければ、自分達は無事では済まなかったでしょう。深く感謝いたします」
この騎士は、恐らく街に常駐している騎士なのだろう。宿舎で生活する見習い――もとい、若手騎士ではない。現場に出る事を許された精鋭の一人だ。
深々とフードを被っているので表情は見えないだろうが、綾那は口元を緩めて「とんでもない」と頭を振った。
綾那はただ、ルシフェリアに言われるままに動いただけだ。しかも大変申し訳ない事に、頭の中には「颯月さんを助ける!」この一点しかなかった。彼らは運よく芋づる式に救われただけであって、下手に感謝されるとかえって申し訳なくなる。
「肌色とい、髪色といい――他所から来られた方でしょう?」
「ええと……まあ」
「ご出身は? これほど真っ白な女性を見たのは、北部のルベライトまで遠征に行った時以来です。危険を省みず囮役を引き受ける胆力をお持ちなのに、しかしその姿はまるで――雪の精のように美しかった」
どこか照れくさそうにしながら語る騎士に、綾那は目を丸めた。
(颯月さん以外で、私の容姿を手放しに褒めてくれるアイドクレースの人……初めてかも知れない)
和己や幸成も褒めてくれる事はあるが、あの二人――特に幸成からは「颯が気に入っている子だし、褒めておこう」という空気を感じる。竜禅に至っては、そもそもアイドクレース出身ではないし、綾那の笑い顔が輝夜に似ているからという理由もある。
一切の含みなく綾那の姿を『良い』と言ってくれるアイドクレース人は、今のところ颯月と桃華ぐらいだ。
痩せこそが正義。正妃のように華奢で、一切の厚みがない体形こそが美しいとされているアイドクレースでは、綾那はどうしても『太め』と評されがちなのだから。
(あ――この人もしかして、ただの駐在騎士じゃない?)
いつか和巳が言っていた、「騎士は他領の女性を見る機会に恵まれるため、誰もが『痩せこそが至高』という価値観ではない」という言葉を思い出す。
恐らくこの彼は、他領まで頻繁に巡回なり応援なりしに行っている、アイドクレース社畜ランキングの上位者に違いない。
綾那は、己の容姿を褒められた事に対する喜びよりも先に、つい騎士の社畜さ加減を不憫に思ってしまった。フードの下でなんとも言えない表情を浮かべていると、先を歩く颯月が突然足を止めたため、広い背中に顔面から衝突する。「ぅぶっ」と小さく呻いて打ち付けた鼻を手で押さえれば、彼は感情の読めない眼差しで騎士を見やった。
「――ひとつ、確認なんだが」
「は! なんでありましょうか?」
「アンタまさか、俺の婚約者を口説いてんのか?」
「――――婚……?」
「それもわざわざ、俺の目の前で? いくら宿舎住まいの騎士にしか紹介していないとは言え、大胆不敵にも程があるな」
颯月の言葉にフリーズした騎士は、たっぷりと間を空けてから、やがてヒュッと鋭く息を吸い込んだ。途端に可哀相なほど顔面蒼白になった騎士は、カタカタと体を震わせながら言葉を紡ぐ。
「だ……団長の婚約者殿は、黒髪の女性では――? 以前、仲睦まじく街歩きをされている姿を拝見した事があるのですが……」
騎士が見たというのは、恐らく颯月の『休日』を指しているのだろう。あの日綾那は、黒髪のウィッグを被り、マスクで顔を隠す事なく颯月と街歩きをしていた。
いや、仲睦まじく街歩きというか、正直言って颯月のお仕事見学会のような一日だったが――騎士の目には、あの時の綾那がはっきりと『婚約者』に見えたらしい。
「あれは綾が目立たんように髪色を変えていただけで、同一人物だ。こんな天使が世に何人も居たら、俺の身がもたんだろう」
「ン゛ン……ッ!」
濁った咳払いをする綾那を尻目に、颯月は改めて口を開いた。それはもう、一言一句確認するように区切りながら。
「それで? アンタは、俺の、婚約者を、口説きたいのか?」
騎士は残像が見えるほどの勢いでブンブンと首を振ると、「自分は、部隊編成を即刻中止するよう進言して参ります!」と言って、どこかへ駆けて行った。その背中を見送った颯月は、チッと大きな舌打ちをしてから綾那の手を放した。
「――「魔法鎧」」
趣味の詠唱を省いて紫紺色の鎧を身に纏った颯月に、綾那は首を傾げる。
まあ、すぐそこまで魔物が迫っているのだから、悠長に遊んでいる暇はないのだろう。しかし彼は、確か綾那と初めて会った時――ヴェゼルの足と対峙していた時でも、詠唱を楽しむ余裕があった。
現状、多くの騎士と魔物が混戦しているとはいえ、陽香の銃声がほとんど聞こえてこない以上、そこまで切迫した状況とは思えないのだが――。
颯月は無言のまま綾那の手を握り直すと、再び歩き出した。そうして正門に差し掛かった所で、退屈そうにしている陽香がこちらに気付き、駆け寄って来る。
「おー、颯様どこ行くんだ? アーニャは……ん? 後ろの、アーニャか?」
じとりと目を眇めた陽香に、綾那は思わず反射のように「ごめんなさい」と呟いて、颯月の背に隠れた。ひとまず颯月は会話してくれるようになったが、陽香は綾那が顔に傷を負った事をまだ許していない。
「鬼が来たんでな、少し仕事してくる」
「鬼? ――あ、櫓の上に居た釣り目の姉さんじゃん。なんで、こんな危ねえトコにお偉いさんが?」
天幕の傍らに立つ正妃の存在に気付いた陽香は、不思議そうに首を傾げた。
「あの人の『勝ち気』は神がかっていてな。「騎士が居れば自身に危険などない」と、本気で思っていらっしゃるんだ。街の近くまで魔物の襲撃がある時には、ああして現場まで出張ってくる事も珍しくない」
「おぉお……なるほど? 高貴な人間の考える事は、よく分からんな」
なんとも言えない表情で頷く陽香を見下ろして、颯月は鎧に包まれた頭をこてんと傾げる。
「それはそうとアンタ、なんか……急に縮んだか?」
「――ちッ、縮んでねえわ! あまりにも安定感がねえから、靴変えただけだよ!」
ルシフェリアに「軽業師」を吸収されたせいで、今の陽香はただ直立しているだけでも疲労困憊だ。普段履いている厚底ブーツでは、まともに歩けなくなってしまったのだろう。
一体どこで調達してきたのか、ペッタンコのサンダルを履いた陽香の背丈は、正しく150センチ。190センチ――「魔法鎧」のせいで二メートル近い颯月との身長差は、なかなかの見物だ。同世代にも関わらず、この二人が並ぶとまるで大人と子供である。
眦を吊り上げて憤慨する陽香を「どうどう」と宥めた颯月は、途端に声を潜めた。
「ところで陽香、アンタ早いトコ隠れた方が良いぞ」
「あたしが隠れる? ……なんで? 女が戦ってんのが悪いってんなら、銃隠すけど――」
「いや。正妃サマに綾の家族だと知られれば、確実に面倒な事になるからだ。滅茶苦茶に絡まれそうだから、右京と一緒に隠れてろ」
「お、おお? よく分からんけど、面倒事は御免だから分かった……? けど、なんでアーニャの家族だからって絡まれるんだ――?」
困惑しきりの陽香をその場に残して、颯月は綾那の手を引いたまま正門をくぐると、街の外へ出た。
彼はまたしても無詠唱で「身体強化」を唱えたかと思えば、空いた手で鎧の背に負った大剣の柄を握った。続けて唱えられたのは、「属性付与」だ。大剣の刃に紫色の雷が落ちて、その刀身を紫紺の光で染め上げる。
一連の流れるような魔法を見ていると、無詠唱という事もあるだろうが、早すぎて感嘆する暇がない。何やら、魔法のありがたみが薄れて見えた。
颯月は片手に大剣、片手に綾那の手を握ったまま迷いなく進むと、最前線で第三波の到着を待ち構えているらしい竜禅の背に声を掛けた。
「――禅、代わる。綾に「波紋の守り」を掛けろ」
「は……? そ、颯月様!? なぜ綾那殿を戦地までお連れしたのですか?」
颯月の声に振り向いた竜禅は、命令の内容と綾那の姿に戸惑っている様子だ。その困惑した声を聞いて、同じく前線で魔物の到着を待っていたらしい幸成が目を丸める。
「颯!? な、何してんだよ、綾ちゃんが危ないだろ? またケガしたら――」
「万が一にもケガさせたくないから、わざわざ俺の傍に侍らせているんだろうが。禅、早くしろ」
鎧の中から聞こえてくる颯月の声は、僅かに苛立ちを滲ませている。竜禅は困惑しながらも魔法の詠唱を始めた。
「囲え水鞠、泡沫の水波。我が至宝をここに封じ、永遠に守れ――「波紋の守り」」
竜禅が詠唱を終えると、綾那の周りが透明な水のドームに囲われた。突然水底に沈められたような錯覚をして、思わず肩を跳ねさせる。これは確か、以前幸成が絨毯屋の大倉庫を焼け野原に変えた時――彼の火魔法の被害を抑えるために、使われた魔法だ。
てっきり、中はスノードームのように水で満たされているものだと思っていた。しかしそうではなくて、呼吸できる空間が広がっているし、水に濡れる事もない。綾那が奈落の底に落とされた日にルシフェリアが作ってくれた、あの卵型のガラスに似ているだろうか。
すっかり水中恐怖症になってしまった綾那でも、これならば問題ない。
綾那が魔法の水に囲われるのを見届けた颯月は、鷹揚に頷くと手を放して歩き出した。水のドームは魔法封じと違って、中から外へ簡単に出られるものらしい。
「禅、何があっても綾を守れよ。俺が戻るまで絶対に目を離すな」
「承知しました」
「成、アンタは俺の補佐だ。散り散りになられると面倒だから、全部俺のところへ来るように魔法で追い立ててくれ」
「それは別に、構わねえけど……たぶん、北の方から頼んでもないおかわりが来るぞ」
「出された料理は全て平らげる、心配は要らん」
綾那を竜禅の元へ預けた颯月は、幸成と共に遠くの土煙へ向き直った。
紫紺色の鎧、その背中を眺めながら――綾那は状況も忘れて、ひっそりと期待に胸を膨らませる。彼がまともに戦うところを見るのは、初めて会った日以来の事だったからだ。
いつもなら歩調を合わせてゆっくりと歩く彼が、今日ばかりは早足だ。手を引かれる綾那は必然的に駆け足になった。
まあ、目と鼻の先に魔物の群れが押し寄せているのだから、急いで当然――いや。本当はただ、天幕の傍らに立つ正妃から逃れたいだけかも知れない。
颯月は街の正門に向かって進みながら、慌ただしい様子ですれ違う騎士らへ声を掛けた。
「――状況は?」
「は! 現状、魔物の侵攻は正門で食い止めておりますので、街に被害はありません。ただ、北の方角に新たな土煙が上がっていて――この分だと、第三波が来るのではないかと思われます」
すれ違う騎士のうちの一人が駆けて来て、まるで秘書官のように颯月の横を歩きながら、口早に状況説明をする。
「もう誰か対応に向かわせたのか?」
「今まさに部隊を編成しているところです。ここで待つのではなく、斥候を兼ねて北側へ撃って出ようかと――」
「いい、このまま誰も行かせるな。巻き込まれるぞ」
騎士は、颯月の言葉に目を瞬かせた。しかしすぐさま彼の意図するところを察したのか、「団長、後はよろしくお願いいたします!」と、勢いよく頭を下げる。
機敏な動きで上げられた顔は晴れやかだ。上空高くに浮かぶ光球から、「残業確定だったところに強力な助っ人が現れて、定時退社が決まった! なんて、小躍りしそうな勢いだね』という、やけに具体的な呟きが聞こえた。
すっかり肩の力を抜いた騎士は、他の騎士へ伝言するために踵を返しかけた。しかし、ふと颯月の後ろを歩く綾那に視線をやると、何事か逡巡してから口を開いた。
「その、先ほどの方……ですよね? 本当に助かりました。あなたが眷属を――あの魔法を封じる魔具ごと引き付けてくれなければ、自分達は無事では済まなかったでしょう。深く感謝いたします」
この騎士は、恐らく街に常駐している騎士なのだろう。宿舎で生活する見習い――もとい、若手騎士ではない。現場に出る事を許された精鋭の一人だ。
深々とフードを被っているので表情は見えないだろうが、綾那は口元を緩めて「とんでもない」と頭を振った。
綾那はただ、ルシフェリアに言われるままに動いただけだ。しかも大変申し訳ない事に、頭の中には「颯月さんを助ける!」この一点しかなかった。彼らは運よく芋づる式に救われただけであって、下手に感謝されるとかえって申し訳なくなる。
「肌色とい、髪色といい――他所から来られた方でしょう?」
「ええと……まあ」
「ご出身は? これほど真っ白な女性を見たのは、北部のルベライトまで遠征に行った時以来です。危険を省みず囮役を引き受ける胆力をお持ちなのに、しかしその姿はまるで――雪の精のように美しかった」
どこか照れくさそうにしながら語る騎士に、綾那は目を丸めた。
(颯月さん以外で、私の容姿を手放しに褒めてくれるアイドクレースの人……初めてかも知れない)
和己や幸成も褒めてくれる事はあるが、あの二人――特に幸成からは「颯が気に入っている子だし、褒めておこう」という空気を感じる。竜禅に至っては、そもそもアイドクレース出身ではないし、綾那の笑い顔が輝夜に似ているからという理由もある。
一切の含みなく綾那の姿を『良い』と言ってくれるアイドクレース人は、今のところ颯月と桃華ぐらいだ。
痩せこそが正義。正妃のように華奢で、一切の厚みがない体形こそが美しいとされているアイドクレースでは、綾那はどうしても『太め』と評されがちなのだから。
(あ――この人もしかして、ただの駐在騎士じゃない?)
いつか和巳が言っていた、「騎士は他領の女性を見る機会に恵まれるため、誰もが『痩せこそが至高』という価値観ではない」という言葉を思い出す。
恐らくこの彼は、他領まで頻繁に巡回なり応援なりしに行っている、アイドクレース社畜ランキングの上位者に違いない。
綾那は、己の容姿を褒められた事に対する喜びよりも先に、つい騎士の社畜さ加減を不憫に思ってしまった。フードの下でなんとも言えない表情を浮かべていると、先を歩く颯月が突然足を止めたため、広い背中に顔面から衝突する。「ぅぶっ」と小さく呻いて打ち付けた鼻を手で押さえれば、彼は感情の読めない眼差しで騎士を見やった。
「――ひとつ、確認なんだが」
「は! なんでありましょうか?」
「アンタまさか、俺の婚約者を口説いてんのか?」
「――――婚……?」
「それもわざわざ、俺の目の前で? いくら宿舎住まいの騎士にしか紹介していないとは言え、大胆不敵にも程があるな」
颯月の言葉にフリーズした騎士は、たっぷりと間を空けてから、やがてヒュッと鋭く息を吸い込んだ。途端に可哀相なほど顔面蒼白になった騎士は、カタカタと体を震わせながら言葉を紡ぐ。
「だ……団長の婚約者殿は、黒髪の女性では――? 以前、仲睦まじく街歩きをされている姿を拝見した事があるのですが……」
騎士が見たというのは、恐らく颯月の『休日』を指しているのだろう。あの日綾那は、黒髪のウィッグを被り、マスクで顔を隠す事なく颯月と街歩きをしていた。
いや、仲睦まじく街歩きというか、正直言って颯月のお仕事見学会のような一日だったが――騎士の目には、あの時の綾那がはっきりと『婚約者』に見えたらしい。
「あれは綾が目立たんように髪色を変えていただけで、同一人物だ。こんな天使が世に何人も居たら、俺の身がもたんだろう」
「ン゛ン……ッ!」
濁った咳払いをする綾那を尻目に、颯月は改めて口を開いた。それはもう、一言一句確認するように区切りながら。
「それで? アンタは、俺の、婚約者を、口説きたいのか?」
騎士は残像が見えるほどの勢いでブンブンと首を振ると、「自分は、部隊編成を即刻中止するよう進言して参ります!」と言って、どこかへ駆けて行った。その背中を見送った颯月は、チッと大きな舌打ちをしてから綾那の手を放した。
「――「魔法鎧」」
趣味の詠唱を省いて紫紺色の鎧を身に纏った颯月に、綾那は首を傾げる。
まあ、すぐそこまで魔物が迫っているのだから、悠長に遊んでいる暇はないのだろう。しかし彼は、確か綾那と初めて会った時――ヴェゼルの足と対峙していた時でも、詠唱を楽しむ余裕があった。
現状、多くの騎士と魔物が混戦しているとはいえ、陽香の銃声がほとんど聞こえてこない以上、そこまで切迫した状況とは思えないのだが――。
颯月は無言のまま綾那の手を握り直すと、再び歩き出した。そうして正門に差し掛かった所で、退屈そうにしている陽香がこちらに気付き、駆け寄って来る。
「おー、颯様どこ行くんだ? アーニャは……ん? 後ろの、アーニャか?」
じとりと目を眇めた陽香に、綾那は思わず反射のように「ごめんなさい」と呟いて、颯月の背に隠れた。ひとまず颯月は会話してくれるようになったが、陽香は綾那が顔に傷を負った事をまだ許していない。
「鬼が来たんでな、少し仕事してくる」
「鬼? ――あ、櫓の上に居た釣り目の姉さんじゃん。なんで、こんな危ねえトコにお偉いさんが?」
天幕の傍らに立つ正妃の存在に気付いた陽香は、不思議そうに首を傾げた。
「あの人の『勝ち気』は神がかっていてな。「騎士が居れば自身に危険などない」と、本気で思っていらっしゃるんだ。街の近くまで魔物の襲撃がある時には、ああして現場まで出張ってくる事も珍しくない」
「おぉお……なるほど? 高貴な人間の考える事は、よく分からんな」
なんとも言えない表情で頷く陽香を見下ろして、颯月は鎧に包まれた頭をこてんと傾げる。
「それはそうとアンタ、なんか……急に縮んだか?」
「――ちッ、縮んでねえわ! あまりにも安定感がねえから、靴変えただけだよ!」
ルシフェリアに「軽業師」を吸収されたせいで、今の陽香はただ直立しているだけでも疲労困憊だ。普段履いている厚底ブーツでは、まともに歩けなくなってしまったのだろう。
一体どこで調達してきたのか、ペッタンコのサンダルを履いた陽香の背丈は、正しく150センチ。190センチ――「魔法鎧」のせいで二メートル近い颯月との身長差は、なかなかの見物だ。同世代にも関わらず、この二人が並ぶとまるで大人と子供である。
眦を吊り上げて憤慨する陽香を「どうどう」と宥めた颯月は、途端に声を潜めた。
「ところで陽香、アンタ早いトコ隠れた方が良いぞ」
「あたしが隠れる? ……なんで? 女が戦ってんのが悪いってんなら、銃隠すけど――」
「いや。正妃サマに綾の家族だと知られれば、確実に面倒な事になるからだ。滅茶苦茶に絡まれそうだから、右京と一緒に隠れてろ」
「お、おお? よく分からんけど、面倒事は御免だから分かった……? けど、なんでアーニャの家族だからって絡まれるんだ――?」
困惑しきりの陽香をその場に残して、颯月は綾那の手を引いたまま正門をくぐると、街の外へ出た。
彼はまたしても無詠唱で「身体強化」を唱えたかと思えば、空いた手で鎧の背に負った大剣の柄を握った。続けて唱えられたのは、「属性付与」だ。大剣の刃に紫色の雷が落ちて、その刀身を紫紺の光で染め上げる。
一連の流れるような魔法を見ていると、無詠唱という事もあるだろうが、早すぎて感嘆する暇がない。何やら、魔法のありがたみが薄れて見えた。
颯月は片手に大剣、片手に綾那の手を握ったまま迷いなく進むと、最前線で第三波の到着を待ち構えているらしい竜禅の背に声を掛けた。
「――禅、代わる。綾に「波紋の守り」を掛けろ」
「は……? そ、颯月様!? なぜ綾那殿を戦地までお連れしたのですか?」
颯月の声に振り向いた竜禅は、命令の内容と綾那の姿に戸惑っている様子だ。その困惑した声を聞いて、同じく前線で魔物の到着を待っていたらしい幸成が目を丸める。
「颯!? な、何してんだよ、綾ちゃんが危ないだろ? またケガしたら――」
「万が一にもケガさせたくないから、わざわざ俺の傍に侍らせているんだろうが。禅、早くしろ」
鎧の中から聞こえてくる颯月の声は、僅かに苛立ちを滲ませている。竜禅は困惑しながらも魔法の詠唱を始めた。
「囲え水鞠、泡沫の水波。我が至宝をここに封じ、永遠に守れ――「波紋の守り」」
竜禅が詠唱を終えると、綾那の周りが透明な水のドームに囲われた。突然水底に沈められたような錯覚をして、思わず肩を跳ねさせる。これは確か、以前幸成が絨毯屋の大倉庫を焼け野原に変えた時――彼の火魔法の被害を抑えるために、使われた魔法だ。
てっきり、中はスノードームのように水で満たされているものだと思っていた。しかしそうではなくて、呼吸できる空間が広がっているし、水に濡れる事もない。綾那が奈落の底に落とされた日にルシフェリアが作ってくれた、あの卵型のガラスに似ているだろうか。
すっかり水中恐怖症になってしまった綾那でも、これならば問題ない。
綾那が魔法の水に囲われるのを見届けた颯月は、鷹揚に頷くと手を放して歩き出した。水のドームは魔法封じと違って、中から外へ簡単に出られるものらしい。
「禅、何があっても綾を守れよ。俺が戻るまで絶対に目を離すな」
「承知しました」
「成、アンタは俺の補佐だ。散り散りになられると面倒だから、全部俺のところへ来るように魔法で追い立ててくれ」
「それは別に、構わねえけど……たぶん、北の方から頼んでもないおかわりが来るぞ」
「出された料理は全て平らげる、心配は要らん」
綾那を竜禅の元へ預けた颯月は、幸成と共に遠くの土煙へ向き直った。
紫紺色の鎧、その背中を眺めながら――綾那は状況も忘れて、ひっそりと期待に胸を膨らませる。彼がまともに戦うところを見るのは、初めて会った日以来の事だったからだ。
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