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第4章 奈落の底で祭りを楽しむ
24 ルシフェリアの誤算
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綾那と共に私室へ移動したルシフェリアは、椅子に腰かけて機嫌良さそうにサンドウィッチを咀嚼している。食パンに挟まれた具は、ふわふわの卵にたっぷりのマヨネーズが和えられたものだ。
その小さな口の端に付いたマヨネーズを指先で拭ってやると、ルシフェリアは目元を緩めて微笑んだ。
「ふふ、ありがとう。君ってケチな守銭奴だし、この僕のお願いにも頷かない傲慢な所があるけれど……こうして、手近に居る者の世話を自然に焼けるのは良いよね」
「……あれ? もしかして私、また侮辱されてますか?」
「この上なく褒めているじゃないか。何せ僕は、慈愛の天使だよ?」
サンドウィッチを食べ終わると、ルシフェリアは椅子の上で短い脚を組んで綾那を見やった。見た目こそ幼女だが、その態度はどこまでも横柄である。
「それで君、明日は忙しいのかい?」
「へ? ああ、夏祭りですか? たぶん、一日中撮影の仕事をしていると思いますけれど――」
綾那は口元に手を添えて思案顔になった。もし子供達が魔力制御をモノにできないまま特訓を終えていれば、綾那も一緒に教会で留守番するつもりだった。しかし大変めでたい事に、颯月がとんでもない額の課金をしてくれたお陰で、子供達は無事祭りの参加が決まった。
綾那と陽香は当初の予定通り、働く騎士の様子を魔具に収めて「騎士の取り締まりに密着! 二十四時!」の動画素材を集めるつもりだ。もちろん、合間に悪魔憑きの子供達の様子も撮影して、祭りのフィナーレを飾る合成魔法の撮影も忘れてはならない。
この五日間撮り溜めた子供達の映像が、騎士団の宣伝動画に昇華できるかどうかは別として――彼らの奮闘記録は最後まで撮り切るべきだ。
一人頷く綾那に、ルシフェリアが「ねえ」と声を掛ける。
「実は、君にお願いがあるんだよ――君にしか頼めない。だから、わざわざ今日戻って来たんだよね」
「お願い……?」
執務室で「色んなものが食べたい」と言っていたが、まさかそれが本筋ではないだろう。果たして次は、どんな無茶振りをされるのかと身構えたものの――ルシフェリアは笑みを消して、真剣な表情を浮かべている。人の姿をとってから初めて見せる表情に、綾那もまた姿勢を正した。
詳しく聞いてみない事にはなんとも言えないが、しかし綾那にしか頼めないとまで言われると、少々断りづらい。
「明日、王都でちょっとばかり面倒な事が起きそうなんだ」
「面倒な事? な、なんですか、それ――前から不思議に思っていましたけれど、まるで預言者のようですね。明日と断言するなんて」
例えば、ほんの数週間前の事。退職するためにアデュレリア領へ向かう右京の旅路に、陽香も同行する事になった。
結局はルシフェリアの助言を気にして、綾那と颯月も付き添う事になったのだが――あの時、綾那の「解毒」がなかったらどうなっていたのだろうか。もしかすると、陽香はアナフィラキシーショックで死んでいたかも知れない。
綾那が初めてリベリアスに降り立った時だってそうだ。右も左も分からず困り果てていた綾那に、ルシフェリアは「迎えが来ている」とか「ちょっと良い事があるかも」とか、散々予言らしきものをしていた。
「うーん……まあ、当たらずとも遠からずかな。力が弱まっている以上あまり多くの事は見通せないけれど、今の僕でもある程度の未来は見えるから。だって僕、とっても凄い天使だよ?」
「えっ、本当に未来が見えているんですか?」
「だから君と初めて会った時も、「迎えが来てるから急いだ方が良い」って言ったのさ。ほら、君ってば僕のお陰で、とっても素敵な出会いを果たしたでしょう」
「――颯月さん?」
したり顔で深く頷く幼女に、綾那はあの日の事を思い返した。
ルシフェリアに言われるがまま、ダイオウイカヴェゼルの足を切ったものの――千切れた足は意思をもって、その後眷属に転化して動き出した。それに追われて逃げ出した先で、颯月と出会い、助けられたのだ。
(もしかして、そもそも足を切らせたのは――私が眷属に追われるよう仕向けたのは、颯月さんと会わせるため?)
颯月は、偶然森の近くを巡回していた時に悲鳴が聞こえたからこそ、綾那を見つけられたのだ。もしもあの時、綾那が何者にも追われる事なく――叫び声を一切上げる事もなく、ただ暗い夜の森を呑気に歩いていたとしたら。
未来を読めるというルシフェリアは、どうも人の思考まで読めてしまうらしい。したり顔の幼女は、黙って考察する綾那に向かって「そうだねえ」と相槌を打った。
「もし君が一人で静かに歩いていたら、きっとあの子は君の存在に気付けなかったよ。暗がりだし、あの子の仕事は眷属や魔物を探し歩く事でしょう。人間には用がないんだから、例え人影に気付いても無視されていたかも? そうなると、すれ違う事もなかっただろうね」
「それは……でも、どうしてそんな事を? 出会わなければならない理由があっての事ですか?」
「うーん、そうだなあ。なんだか君との出会いが、あの子にとって『よいもの』である気がしたから? まあ、なんとなく――直感だよ。あまり深く考えないで」
そう言われても、何故わざわざ――と思わずにはいられない。先ほどルシフェリアは、王族の末裔は特に可愛い子供と言っていたが、それが関係しているのだろうか。
綾那はいまいち腑に落ちなかったが、ルシフェリアはそんな事には構わずに続ける。
「とにかく、明日だよ! 明日!」
「あ、はあ……私にしかできない、何かがあると?」
「うん。ほら、言ったでしょう? 悪魔の兄弟には、王都に手を出すなって言い含めているって――でもその約束、明日破られるから」
「ああ――はい?」
「全く、本当に悪戯好きで困っちゃうよね!」
「い、悪戯って、そんな可愛らしいレベルの話じゃあ――」
「そもそも、今まで頑なに相手をしてこなかった僕が悪いのかも知れないけれど――僕は、僕の箱庭を荒らすような悪い子の遊び相手にはなりたくないんだ。あの子達がそれを理解するまでは、会話すらしたくなくてね」
幼児らしくない憂い帯びた表情で息を吐くルシフェリアに、綾那はすかさず口を挟んだ。
「まさか……明日ここで悪魔が暴れるから、シアさんの代わりに私が懲らしめろって事ですか?」
「そうだね、またエイッてして欲しい。君にしか頼めないから」
「そんな、困りますよ。私は魔法が使えないから悪魔退治はできないって、他でもないシアさんが仰っていたじゃありませんか。ここには颯月さんや右京さんだって居るのに、どうして――」
「でも明日は、君に頼むしかない。正確に言えば、君ともう一人のお仲間の力を借りたいんだ」
言っている事はメチャクチャだが、ルシフェリアはどこまでも真剣な表情をしている。しかし陽香まで巻き込むとなると、綾那の一存では頷けない。
「悪魔憑きに手を借りたら、ヴェゼルのおバカは消滅してしまうじゃないか。この世界から『氷』が消えると、北方まで温暖な気候に逆戻りだ――寒い地方に住む動植物は皆、適応できずに死んじゃうよ。そんなの可哀相でしょう」
「ま、またヴェゼルさんですか!? アデュレリアから移動して、アイドクレースまでやって来ていると?」
瞠目する綾那に、ルシフェリアは小さく微笑んだ。そうして告げられた言葉は、「君だって薄々、気付いていたんじゃあないの?」である。すぐさま思い浮かべたのは、ここ最近――陽香がアイドクレースへ住み始めた途端、頻繁に聞くようになった猫の鳴き声だ。
(まさか、あの猫がヴェゼルさん? ずっと近くをうろついているって事?)
綾那はてっきり、アレルギーをもちながら動物好きの陽香が、どこかでこっそりと餌付けしているのではと思っていたが――よくよく考えれば、陽香がアイドクレースに住むようになってからではない。自分達がアイドクレースへ戻って来てから、頻繁に鳴き声を聞くようになったのだ。
悪魔は「転移」の力を借りずとも自由に移動する魔法を使えるようだし、不可能ではないだろう。
「ヴェゼルさんは、私に足を切られた事をそこまで根に持っているんですか?」
「うーん……たぶん今回は、それだけが原因じゃあないかな。まあまあ、細かい事は良いじゃない。なんにせよ君がここに住んでる以上、ヴェゼルをエイッてするしかないんだから。拒否権はないけれど、でも心構えって大事でしょう? 僕は慈悲深いから、先んじて教えてあげようと思ってね!」
途端に頭痛がするような気がして、額を押さえながら「解せぬ」と呻く綾那に、ルシフェリアはどこまでも無邪気な笑みを返した。
「はあ、お腹いっぱいになったら眠たくなっちゃった。明日に備えて早く寝ない? ほら、腕枕して、腕枕!」
ぼすんと勢いよくベッドに飛び込んだルシフェリアに、綾那は「呑気に寝ている場合ではないでしょう」と唇を尖らせる。しかし「ねえ、早く」と急かされて、渋々小さな体の隣に横たわった。
綾那が横に腕を開けば、小さな頭が乗せられる。ふふふと笑って目元を緩ませる幼女に――決して颯月の言葉を意識した訳ではないが――まるで、本当に自分の子供を寝かしつけているような錯覚をしてしまう。
何やら妙な気持ちになってグッと体を硬直させれば、小さな手が頬を撫でた。
「僕は今、君の姿を借りているから女の子だよ? 安心してね」
「あ、いや、別に身構えている訳ではないんですけれど」
「そう? ふふ……このまま、颯月の傍に居て――本当に、子供を産んじゃえば良いのにね」
「ゥグ――ッ!?」
「だって、好きなんでしょう? そのまま好きでいてよ」
突然浴びせられた問題発言に、綾那は思い切り噎せた。そうしてしばらく咳込んだ後、やっとの思いで口を開く。
「そ……颯月さんは、一生悪魔憑きだから――いえ、そもそもそれ以前の問題なんですけれど、でも、子供は」
「――――え?」
「え?」
ルシフェリアは桃色の瞳を丸くしている。その意外な表情に、綾那は目を瞬かせた。この世界の何もかもを把握しているようでいて、しかし所々情報の抜けが目立つ創造神。曲がりなりにも特に可愛いと称する王族の末裔なのに、まさか颯月がどんな状況に置かれているか知らないのだろうか。
いや、そういえば先ほど颯月に向かって、「もしかして王族の末裔?」なんて聞いていたような気もする。つまり、本当に彼の事を何も知らないのだ。
「一生? どうして……?」
「どうしてって――私は「表」の人間だから詳しく分かりませんけど……呪いの元となった眷属を祓うタイミングが悪くて、問題の眷属はもうこの世に居ないのに、それでも悪魔憑きのままだって言っていましたよ」
「あの子、そんな事になっているの? どうして――ちょっと待ってて」
ルシフェリアはおもむろに瞳を閉じると、じっと黙り込んだ。今度は何が始まったのかと身構えていると、やがて瞳を開いた幼女の表情は、どこか傷ついているように見えた。
「シアさん?」
「本当だ――あの子と繋がっている眷属は、もうどこにも居ないみたい。そっかあ……それは知らなかった。残念だね」
「え……あ、シアさん、もしかして眷属の位置まで分かるんですか?」
「僕の力が元になっているから、大体はね。だから、君達がいざ眷属討伐に乗り出すぞっていう時には、僕がレーダーになってあげるから安心して」
「あ、ああ……まあ、そうですね――」
綾那は、「そう言えば元々、そんな話だったな」と思い返して曖昧に笑った。しかしそれも、四重奏のメンバー全員が揃ってからの話だ。
颯月の事がよほどショックだったのか、ルシフェリアは力ない笑みを浮かべると、綾那の胸に擦り寄った。その様子に戸惑いながらも、しかし見た目幼女が傷ついている所を見せられれば、慰めない訳にはいかない。
綾那は枕にされていない方の腕を小さな背中へ回すと、ぽんぽんとあやすように叩きながら眠りに就いた。
その小さな口の端に付いたマヨネーズを指先で拭ってやると、ルシフェリアは目元を緩めて微笑んだ。
「ふふ、ありがとう。君ってケチな守銭奴だし、この僕のお願いにも頷かない傲慢な所があるけれど……こうして、手近に居る者の世話を自然に焼けるのは良いよね」
「……あれ? もしかして私、また侮辱されてますか?」
「この上なく褒めているじゃないか。何せ僕は、慈愛の天使だよ?」
サンドウィッチを食べ終わると、ルシフェリアは椅子の上で短い脚を組んで綾那を見やった。見た目こそ幼女だが、その態度はどこまでも横柄である。
「それで君、明日は忙しいのかい?」
「へ? ああ、夏祭りですか? たぶん、一日中撮影の仕事をしていると思いますけれど――」
綾那は口元に手を添えて思案顔になった。もし子供達が魔力制御をモノにできないまま特訓を終えていれば、綾那も一緒に教会で留守番するつもりだった。しかし大変めでたい事に、颯月がとんでもない額の課金をしてくれたお陰で、子供達は無事祭りの参加が決まった。
綾那と陽香は当初の予定通り、働く騎士の様子を魔具に収めて「騎士の取り締まりに密着! 二十四時!」の動画素材を集めるつもりだ。もちろん、合間に悪魔憑きの子供達の様子も撮影して、祭りのフィナーレを飾る合成魔法の撮影も忘れてはならない。
この五日間撮り溜めた子供達の映像が、騎士団の宣伝動画に昇華できるかどうかは別として――彼らの奮闘記録は最後まで撮り切るべきだ。
一人頷く綾那に、ルシフェリアが「ねえ」と声を掛ける。
「実は、君にお願いがあるんだよ――君にしか頼めない。だから、わざわざ今日戻って来たんだよね」
「お願い……?」
執務室で「色んなものが食べたい」と言っていたが、まさかそれが本筋ではないだろう。果たして次は、どんな無茶振りをされるのかと身構えたものの――ルシフェリアは笑みを消して、真剣な表情を浮かべている。人の姿をとってから初めて見せる表情に、綾那もまた姿勢を正した。
詳しく聞いてみない事にはなんとも言えないが、しかし綾那にしか頼めないとまで言われると、少々断りづらい。
「明日、王都でちょっとばかり面倒な事が起きそうなんだ」
「面倒な事? な、なんですか、それ――前から不思議に思っていましたけれど、まるで預言者のようですね。明日と断言するなんて」
例えば、ほんの数週間前の事。退職するためにアデュレリア領へ向かう右京の旅路に、陽香も同行する事になった。
結局はルシフェリアの助言を気にして、綾那と颯月も付き添う事になったのだが――あの時、綾那の「解毒」がなかったらどうなっていたのだろうか。もしかすると、陽香はアナフィラキシーショックで死んでいたかも知れない。
綾那が初めてリベリアスに降り立った時だってそうだ。右も左も分からず困り果てていた綾那に、ルシフェリアは「迎えが来ている」とか「ちょっと良い事があるかも」とか、散々予言らしきものをしていた。
「うーん……まあ、当たらずとも遠からずかな。力が弱まっている以上あまり多くの事は見通せないけれど、今の僕でもある程度の未来は見えるから。だって僕、とっても凄い天使だよ?」
「えっ、本当に未来が見えているんですか?」
「だから君と初めて会った時も、「迎えが来てるから急いだ方が良い」って言ったのさ。ほら、君ってば僕のお陰で、とっても素敵な出会いを果たしたでしょう」
「――颯月さん?」
したり顔で深く頷く幼女に、綾那はあの日の事を思い返した。
ルシフェリアに言われるがまま、ダイオウイカヴェゼルの足を切ったものの――千切れた足は意思をもって、その後眷属に転化して動き出した。それに追われて逃げ出した先で、颯月と出会い、助けられたのだ。
(もしかして、そもそも足を切らせたのは――私が眷属に追われるよう仕向けたのは、颯月さんと会わせるため?)
颯月は、偶然森の近くを巡回していた時に悲鳴が聞こえたからこそ、綾那を見つけられたのだ。もしもあの時、綾那が何者にも追われる事なく――叫び声を一切上げる事もなく、ただ暗い夜の森を呑気に歩いていたとしたら。
未来を読めるというルシフェリアは、どうも人の思考まで読めてしまうらしい。したり顔の幼女は、黙って考察する綾那に向かって「そうだねえ」と相槌を打った。
「もし君が一人で静かに歩いていたら、きっとあの子は君の存在に気付けなかったよ。暗がりだし、あの子の仕事は眷属や魔物を探し歩く事でしょう。人間には用がないんだから、例え人影に気付いても無視されていたかも? そうなると、すれ違う事もなかっただろうね」
「それは……でも、どうしてそんな事を? 出会わなければならない理由があっての事ですか?」
「うーん、そうだなあ。なんだか君との出会いが、あの子にとって『よいもの』である気がしたから? まあ、なんとなく――直感だよ。あまり深く考えないで」
そう言われても、何故わざわざ――と思わずにはいられない。先ほどルシフェリアは、王族の末裔は特に可愛い子供と言っていたが、それが関係しているのだろうか。
綾那はいまいち腑に落ちなかったが、ルシフェリアはそんな事には構わずに続ける。
「とにかく、明日だよ! 明日!」
「あ、はあ……私にしかできない、何かがあると?」
「うん。ほら、言ったでしょう? 悪魔の兄弟には、王都に手を出すなって言い含めているって――でもその約束、明日破られるから」
「ああ――はい?」
「全く、本当に悪戯好きで困っちゃうよね!」
「い、悪戯って、そんな可愛らしいレベルの話じゃあ――」
「そもそも、今まで頑なに相手をしてこなかった僕が悪いのかも知れないけれど――僕は、僕の箱庭を荒らすような悪い子の遊び相手にはなりたくないんだ。あの子達がそれを理解するまでは、会話すらしたくなくてね」
幼児らしくない憂い帯びた表情で息を吐くルシフェリアに、綾那はすかさず口を挟んだ。
「まさか……明日ここで悪魔が暴れるから、シアさんの代わりに私が懲らしめろって事ですか?」
「そうだね、またエイッてして欲しい。君にしか頼めないから」
「そんな、困りますよ。私は魔法が使えないから悪魔退治はできないって、他でもないシアさんが仰っていたじゃありませんか。ここには颯月さんや右京さんだって居るのに、どうして――」
「でも明日は、君に頼むしかない。正確に言えば、君ともう一人のお仲間の力を借りたいんだ」
言っている事はメチャクチャだが、ルシフェリアはどこまでも真剣な表情をしている。しかし陽香まで巻き込むとなると、綾那の一存では頷けない。
「悪魔憑きに手を借りたら、ヴェゼルのおバカは消滅してしまうじゃないか。この世界から『氷』が消えると、北方まで温暖な気候に逆戻りだ――寒い地方に住む動植物は皆、適応できずに死んじゃうよ。そんなの可哀相でしょう」
「ま、またヴェゼルさんですか!? アデュレリアから移動して、アイドクレースまでやって来ていると?」
瞠目する綾那に、ルシフェリアは小さく微笑んだ。そうして告げられた言葉は、「君だって薄々、気付いていたんじゃあないの?」である。すぐさま思い浮かべたのは、ここ最近――陽香がアイドクレースへ住み始めた途端、頻繁に聞くようになった猫の鳴き声だ。
(まさか、あの猫がヴェゼルさん? ずっと近くをうろついているって事?)
綾那はてっきり、アレルギーをもちながら動物好きの陽香が、どこかでこっそりと餌付けしているのではと思っていたが――よくよく考えれば、陽香がアイドクレースに住むようになってからではない。自分達がアイドクレースへ戻って来てから、頻繁に鳴き声を聞くようになったのだ。
悪魔は「転移」の力を借りずとも自由に移動する魔法を使えるようだし、不可能ではないだろう。
「ヴェゼルさんは、私に足を切られた事をそこまで根に持っているんですか?」
「うーん……たぶん今回は、それだけが原因じゃあないかな。まあまあ、細かい事は良いじゃない。なんにせよ君がここに住んでる以上、ヴェゼルをエイッてするしかないんだから。拒否権はないけれど、でも心構えって大事でしょう? 僕は慈悲深いから、先んじて教えてあげようと思ってね!」
途端に頭痛がするような気がして、額を押さえながら「解せぬ」と呻く綾那に、ルシフェリアはどこまでも無邪気な笑みを返した。
「はあ、お腹いっぱいになったら眠たくなっちゃった。明日に備えて早く寝ない? ほら、腕枕して、腕枕!」
ぼすんと勢いよくベッドに飛び込んだルシフェリアに、綾那は「呑気に寝ている場合ではないでしょう」と唇を尖らせる。しかし「ねえ、早く」と急かされて、渋々小さな体の隣に横たわった。
綾那が横に腕を開けば、小さな頭が乗せられる。ふふふと笑って目元を緩ませる幼女に――決して颯月の言葉を意識した訳ではないが――まるで、本当に自分の子供を寝かしつけているような錯覚をしてしまう。
何やら妙な気持ちになってグッと体を硬直させれば、小さな手が頬を撫でた。
「僕は今、君の姿を借りているから女の子だよ? 安心してね」
「あ、いや、別に身構えている訳ではないんですけれど」
「そう? ふふ……このまま、颯月の傍に居て――本当に、子供を産んじゃえば良いのにね」
「ゥグ――ッ!?」
「だって、好きなんでしょう? そのまま好きでいてよ」
突然浴びせられた問題発言に、綾那は思い切り噎せた。そうしてしばらく咳込んだ後、やっとの思いで口を開く。
「そ……颯月さんは、一生悪魔憑きだから――いえ、そもそもそれ以前の問題なんですけれど、でも、子供は」
「――――え?」
「え?」
ルシフェリアは桃色の瞳を丸くしている。その意外な表情に、綾那は目を瞬かせた。この世界の何もかもを把握しているようでいて、しかし所々情報の抜けが目立つ創造神。曲がりなりにも特に可愛いと称する王族の末裔なのに、まさか颯月がどんな状況に置かれているか知らないのだろうか。
いや、そういえば先ほど颯月に向かって、「もしかして王族の末裔?」なんて聞いていたような気もする。つまり、本当に彼の事を何も知らないのだ。
「一生? どうして……?」
「どうしてって――私は「表」の人間だから詳しく分かりませんけど……呪いの元となった眷属を祓うタイミングが悪くて、問題の眷属はもうこの世に居ないのに、それでも悪魔憑きのままだって言っていましたよ」
「あの子、そんな事になっているの? どうして――ちょっと待ってて」
ルシフェリアはおもむろに瞳を閉じると、じっと黙り込んだ。今度は何が始まったのかと身構えていると、やがて瞳を開いた幼女の表情は、どこか傷ついているように見えた。
「シアさん?」
「本当だ――あの子と繋がっている眷属は、もうどこにも居ないみたい。そっかあ……それは知らなかった。残念だね」
「え……あ、シアさん、もしかして眷属の位置まで分かるんですか?」
「僕の力が元になっているから、大体はね。だから、君達がいざ眷属討伐に乗り出すぞっていう時には、僕がレーダーになってあげるから安心して」
「あ、ああ……まあ、そうですね――」
綾那は、「そう言えば元々、そんな話だったな」と思い返して曖昧に笑った。しかしそれも、四重奏のメンバー全員が揃ってからの話だ。
颯月の事がよほどショックだったのか、ルシフェリアは力ない笑みを浮かべると、綾那の胸に擦り寄った。その様子に戸惑いながらも、しかし見た目幼女が傷ついている所を見せられれば、慰めない訳にはいかない。
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