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第3章 奈落の底を見て回る
29 次期領主
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綾那は、現状を打破するための策を必死に考えた。考えに考え、そして考え抜いた。
天才的な頭脳をもつ渚とは違い、平凡な――むしろ人より少し知恵が足りないぐらいの綾那だが、こんな所で神と敬愛する男に殺されたくはなかった。
颯月と同じ悪魔憑きである右京は、この状況に覚えがあるのだろうか。万が一何か起きた場合は己が対処しなくては――と警戒した様子で、注意深く颯月を観察している。その尻尾を抱える陽香は、イマイチ何が起きているのか理解していないようだ。呑気に「おい、まだナギの許可も得てないのに、痴話喧嘩なんて勘弁してくれよ」とため息を吐いている。
(ダメだ、陽香は悪魔憑きが魔力を暴発させたら死人が出るって事を知らないし、右京さんは何か起きた後の事しか考えてない……! 私が颯月さんを止めなきゃ、でも、どうやって意識を逸らせば良いのか――そもそも何がスイッチだったの?)
探るように颯月の一挙手一投足に集中している間も、正面で伊織が「これは運命だ」「悪魔憑きなどよりも、私の方があなたの夫に相応しい」「私の伴侶になれば、こんな利点が」などと愛を囁いてくれている。しかし大変申し訳ない事に今、綾那はそれどころではない。
むしろ伊織が綾那を口説けば口説くほど、颯月の周囲に散る火花が大きくなっているように見えるので、少し静かにしていて欲しいレべルだ。
なんの手立ても思い浮かばぬまま焦った綾那は、火花に触れぬよう注意しながら颯月の腕を掴んだ。すると彼は、僅かに目線を上げる。
「どうも俺は、自分の女に色目を使われる事に慣れてないらしい。次があるとすれば、その時はもう少し余裕をもちたいもんだが……たぶん難しい――そもそも免疫が一切ないんだ。悪魔憑きの女に手を出す命知らずなんて、今まで居なかった」
震える声で呟いた颯月に、綾那は目を瞬かせる。もしかして、嫉妬――だろうか。
彼は綾那を、誰にも奪われたくないと思ってくれているのかも知れない。そして今、彼自身こうして戸惑っているという事は――まさか本気で、綾那が伊織に奪われると不安視しているのか。
容姿と地位に恵まれていても、幼少期のトラウマが原因で著しく自己評価が低い颯月の事だ。きっと冗談抜きで、心の底から奪われると危惧しているのだろう。
(じゃあ、その不安さえ取り除いてしまえば、少しは落ち着ける……?)
綾那は腹を括ると、颯月にしなだれかかるように身を擦り寄せた。彼はビクリと肩を跳ねさせたし、少し離れた位置に立っている陽香が「オイ」と声を荒らげたような気もするが――今は構っていられない。
目に見えない不安に襲われているならば、『安心』を具現化させるしかない。綾那は颯月にしなだれかかったままの体勢で、ちらと伊織を見上げて口を開く。
「ごめんなさい。好意を寄せてくれるのはありがたいですけれど、私はこの通り、颯様の事が好きで仕方がなくて――」
「そんな!? こいつは悪魔憑きですよ! ――な、何か弱みを握られているのですか? であれば私が助けます、どんな手を使ってでも……!」
大層ショックを受けた様子の伊織に「いいえ」と言って頭を振ると、綾那は更に――これ以上は近付けないというくらいに、ぴったりと颯月の胸板に体を添わせた。彼は先ほどから硬直して身じろぎひとつしないから、やりたい放題である。
「自分の意思で颯様の傍に居ますから、何もしてくれなくて結構です。私は颯様と片時も離れたくありません、一生傍を離れないという誓いも立てました」
「な、何故そのような……!」
「ですから、毎日どうにかなってしまいそうなくらい愛しているんです」
「――待て綾、このままだと俺が先にどうにかなる」
よほど驚いたのか、魔力の暴走らしき静電気はぴたりと止んだらしい。颯月は体を硬直させたまま、困惑気味に綾那を見下ろしている。綾那は伊織から颯月に視線を移すと、真っ直ぐに彼を見上げて微笑んだ。
「颯様、今日はもうギュッとしてくれないんですか?」
「……」
「――颯様?」
「…………」
「あの、構ってくれないと、寂しいのですけれど――」
「綾、俺は今、何を試されている? この角度は、色々とその――見え過ぎるんだが……」
颯月は綾那の視線から逃れるように目を泳がせた。しかし、泳がせた先の陽香が鬼のような形相をして震えているのに気付くと、彼はますます体を硬くした。
「試す? 私はただ、颯様を安心させたくて」
「安心――とは、程遠い境地に立たされている気がするんだが」
「私は、颯様が大切に思ってくださっている事も、信頼してくださっている事も知っています。けれど、やっぱり目に見えないモノは不安になるでしょう? だから好きだと伝えたくなって……それだけですよ」
綾那をじっと見下ろす颯月。いつもなら真っ直ぐに瞳を見つめて離さない紫色は、珍しく揺れている。彼は僅かに逡巡したあと、やがて口を開いた。
「触れても、良いのか?」
問いかけに頷けば、颯月は戸惑いがちに綾那の背に腕を回した。
二人のやりとりを間近で見せられている伊織が「どうして」と嘆くような声を上げたが、残念ながら今、綾那も颯月も――陽香も右京も、そして領主さえも、彼の相手をしている場合ではないのだ。
「綾の顔だけ見ていたいのに、いつもと趣の違う渓谷を見逃す手はないと本能が訴えかけて来て、さっきから全く抗えん。それでも、俺が好きだと言ってくれるのか?」
「……けいこく?」
「――悪い、違う。分かった……違うんだ、アンタ本当に天使だな、今のは忘れてくれ。綾が相手だと、俺は些か素直になり過ぎるきらいがある。今後気を付けよう」
「何を言っているんですか、素直な事はとても良い事ですよ」
「…………良いなら――いいか。そうか、そうだな、俺も男だから仕方がないよな。じゃあ、心の赴くままに任せてみるとしよう」
途端に憑き物が落ちたような顔でスンと、綾那――の、どこをとは言わないが――を見下ろす颯月に、綾那は「素直さに性別は関係ありますか?」と笑いかけた。
曲がりなりにも『お色気担当大臣』として活動してきた綾那だ。肢体が人の目――特に男性の目を惹くという自覚はある。しかし颯月は、綾那にとって神なのだ。まさか神が、自身の肢体に釘付けになるはずがない。
「アーニャお前、何を白昼堂々とセクハラかまされてんだよ! お前の渓谷なんざ、ひとつしかねえだろうが……!」
「ああ、もう――だから気に入らないんだよ、アイツ! どう転んだって、あの婚約者さえ居れば役得なんだもの……!」
陽香と右京から絞り出すような声が聞こえたような気もするが、きっと気のせいだ。室内はすっかりカオスな空気に満ちている。それでも、綾那はひとまず颯月の気を逸らす事に成功したと言えるだろう。
彼からはもう不機嫌の『ふ』の字も感じられない。満ち足りた表情さえ浮かべて、綾那の背中を撫でているのだから――。
(よし! このままお暇しよう、そうしよう!)
綾那は不意に体を起こすと、再び伊織を見やった。
「そういう事ですので、私は颯様と王都へ帰りますね。どうかお元気で」
「ま――待ってください、綾さん! その男のどこが、何が良いんです!? 何があなたを、そんなに駆り立てるのですか!」
「へ? はあ、何が……」
問いかけられた綾那は、改めて隣に座る颯月を――それこそ、頭のてっぺんから足の先までサッと見渡した。そして、大真面目な顔で首を傾げる。
「え……? 逆に、嫌う要素どこにありますか? 何がダメなの? ヤダ、全然分かんない――」
「オイコラァ! いい加減にしろよ、馬鹿のカップルがァ!! テメーら色々とアウトだぞ、完全にギルティだ! 四重奏的には牢屋行きレベル!」
「綾と一緒に居られるなら、牢屋も天国みたいなものだ」
「そんっな言葉が聞きてえ訳じゃねえんだわ! ああ、もういい、さっさと帰るぞ!! オイ、弟!」
ついに我慢の限界を迎えたのか、陽香は両手で頭を抱えながら怒鳴り散らし始めた。弟と呼ばれ指を差された伊織は、「わ、私の事か?」と目を白黒させている。彼は自分に兄が居る事を知らないのだから、無理もない。
「お前も、アーニャだけは無理だって分かったな? もう帰っても良いだろ!?」
「む、無理かどうかは――!」
「いいや、無理だね! 悔しかったら全身――いや、中身まで颯様になって出直せ!!」
「中身まで!?」
陽香の勢いは留まる事なく、絶句した伊織を容赦なく追撃する。
「お前、いくら悪魔に唆されてるせいだっつっても、限度ってモンがあんだろ!? 確かに、颯様はウチのアーニャを誑かす、クソみたいな……文字通り悪魔みたいな、ヤバヤバのヤバの男だけどよ!」
「陽香、よせ。褒め過ぎだ」
「ひとつも褒めてねえのよなー! ただ少なくとも、颯様は領民から金むしり取るなんて真似はしない! 騎士団に無茶振りして迷惑かけたり、家族を人質にして脅したり――そんな事しねえぞ! それどころか、朝から晩まで働いて一人コンビニ経営状態、仕事しかしてねえから金貯まり放題! 四、五百万入った財布を「盗まれても困らん」って、ほぼ初対面の人間に渡すような頭のおかしいヤツなんだぞ! アーニャが本気で欲しいなら、まずは颯様と同じ土俵に立て! 話はそれからだろうが!」
凄まじい勢いで捲し立てられて、伊織はぐっと悔しげに顔を歪めて口を噤んだ。
しかしメゾン・ド・クレースで颯月が陽香に投げ渡した財布、随分ぶ厚いとは思っていたが、まさかそんなに入っていたとは。綾那は遠い目をして、「もう、颯月さんの総資産が天文学的な数字だとしても驚かないな」と考えた。
陽香は「帰るぞ右京! アーニャは馬車で説教な!!」と言いながら、ずんずんと応接室から出て行く。そして、領主とすれ違いざまにちゃっかり「おうオッサン! 右京要らねえなら、あたしがもらうからな! 今日からあたしが里親だ、文句ないよな!?」と威嚇するように吐き捨てた。領主は彼女の勢いに呑まれたのか――訳も分かぬまま、ただ何度も頷いている。
「ねえ、僕の意思を無視しないでよ、オネーサン」
ため息を吐きながら陽香を追いかける右京に、綾那は慌ててソファから立ち上がった。そして、「私達も帰りましょう」と颯月に手を差し出せば――すっかりご機嫌になったらしい彼は、鷹揚に頷いて綾那の手を取る。
「綾さん――」
秒速で恋破れた上に陽香から説教までされて、伊織は頼りない表情と声色で綾那を見つめている。綾那は苦く笑って、彼と向き合った。
「颯様――いえ、颯月さんってね、止まると死んじゃうんです」
「……死ぬ?」
「本当に朝から晩まで、休みなく働き続けて――夜中には、悪魔憑きを呪った眷属を探しに街の外へお出かけして。そんな生活を十歳の頃から、今も変わらずに続けているんです。どうかしているでしょう?」
「綾、俺だって休むようになっただろ。アンタが心配するから、努力はしてる」
そもそも休む努力をするとは、なんなのだろうか。綾那は苦笑しながら続ける。
「どうかしているけれど……私は、人のために働き続ける颯月さんの事を心の底から尊敬しています。実力ひとつで騎士団長にまで昇り詰めて、あとは上でふんぞり返っていれば良いのに――率先して、現場に出ちゃうんだもの。どうかあなたも、人のために動ける素敵な大人になってね」
恐らく、物心ついた頃から悪魔の影響下に置かれていたであろう伊織。その悪魔が姿を見せない以上はどうにもできないし、そもそも見せたところで、魔法の使えない綾那に悪魔祓いなどできはしない。
しかし伊織はまだ、十六歳と若いのだ。これから彼自身のやる気ひとつで、いくらでもやり直せる。どうか、悪魔の洗脳に負けじと立ち向かって欲しいものだ。そしてあわよくば、アデュレリア領の問題を解決する手立てとなって欲しい。
曲がりなりにも彼は、アデュレリアの次期領主なのだから――。
「私も――私もそうなれば、望みはありますか? その時は、改めて綾さんに求婚しても?」
途端に真剣な眼差しになった伊織に、綾那は目を瞬かせる。そして悪戯っぽく笑うと、颯月の腕に自身の両腕を絡めて胸に抱いた。
「――颯月さんより格好良くなったら、考えようかな!」
「撤回はナシですよ」
伊織は不敵に笑って、「綾さんは貴様に預けるだけだからな、すぐに私が貰い受けに行くぞ」と宣言した。しかし肝心の颯月は、「今日だけで俺は、何年分の運を使い果たした……? 明日辺り死ぬか、もしくは王都で正妃サマに何かされるんじゃあ――」と、一人真剣に考え込んでいて全く聞いていない。
綾那は颯月の腕を引いて歩き出すと、領主とすれ違いざまに「お邪魔しました」と頭を下げた。そうして応接室を後にすれば――待ち受けているのは王都へ帰還する旅路と、陽香の説教だけである。
(私は魔力の暴発を阻止しただけ……なんて、通用しないだろうなあ。颯月さんについて口から出まかせ言った訳じゃなくて、全部本心――本当に、好きなんだもの)
それに気付かないでいてくれるほど、陽香は鈍くない。綾那は「肩パンチ、何回されるんだろう……」と小さく息を吐きながら、颯月と肩を並べて領主の屋敷を後にした。
天才的な頭脳をもつ渚とは違い、平凡な――むしろ人より少し知恵が足りないぐらいの綾那だが、こんな所で神と敬愛する男に殺されたくはなかった。
颯月と同じ悪魔憑きである右京は、この状況に覚えがあるのだろうか。万が一何か起きた場合は己が対処しなくては――と警戒した様子で、注意深く颯月を観察している。その尻尾を抱える陽香は、イマイチ何が起きているのか理解していないようだ。呑気に「おい、まだナギの許可も得てないのに、痴話喧嘩なんて勘弁してくれよ」とため息を吐いている。
(ダメだ、陽香は悪魔憑きが魔力を暴発させたら死人が出るって事を知らないし、右京さんは何か起きた後の事しか考えてない……! 私が颯月さんを止めなきゃ、でも、どうやって意識を逸らせば良いのか――そもそも何がスイッチだったの?)
探るように颯月の一挙手一投足に集中している間も、正面で伊織が「これは運命だ」「悪魔憑きなどよりも、私の方があなたの夫に相応しい」「私の伴侶になれば、こんな利点が」などと愛を囁いてくれている。しかし大変申し訳ない事に今、綾那はそれどころではない。
むしろ伊織が綾那を口説けば口説くほど、颯月の周囲に散る火花が大きくなっているように見えるので、少し静かにしていて欲しいレべルだ。
なんの手立ても思い浮かばぬまま焦った綾那は、火花に触れぬよう注意しながら颯月の腕を掴んだ。すると彼は、僅かに目線を上げる。
「どうも俺は、自分の女に色目を使われる事に慣れてないらしい。次があるとすれば、その時はもう少し余裕をもちたいもんだが……たぶん難しい――そもそも免疫が一切ないんだ。悪魔憑きの女に手を出す命知らずなんて、今まで居なかった」
震える声で呟いた颯月に、綾那は目を瞬かせる。もしかして、嫉妬――だろうか。
彼は綾那を、誰にも奪われたくないと思ってくれているのかも知れない。そして今、彼自身こうして戸惑っているという事は――まさか本気で、綾那が伊織に奪われると不安視しているのか。
容姿と地位に恵まれていても、幼少期のトラウマが原因で著しく自己評価が低い颯月の事だ。きっと冗談抜きで、心の底から奪われると危惧しているのだろう。
(じゃあ、その不安さえ取り除いてしまえば、少しは落ち着ける……?)
綾那は腹を括ると、颯月にしなだれかかるように身を擦り寄せた。彼はビクリと肩を跳ねさせたし、少し離れた位置に立っている陽香が「オイ」と声を荒らげたような気もするが――今は構っていられない。
目に見えない不安に襲われているならば、『安心』を具現化させるしかない。綾那は颯月にしなだれかかったままの体勢で、ちらと伊織を見上げて口を開く。
「ごめんなさい。好意を寄せてくれるのはありがたいですけれど、私はこの通り、颯様の事が好きで仕方がなくて――」
「そんな!? こいつは悪魔憑きですよ! ――な、何か弱みを握られているのですか? であれば私が助けます、どんな手を使ってでも……!」
大層ショックを受けた様子の伊織に「いいえ」と言って頭を振ると、綾那は更に――これ以上は近付けないというくらいに、ぴったりと颯月の胸板に体を添わせた。彼は先ほどから硬直して身じろぎひとつしないから、やりたい放題である。
「自分の意思で颯様の傍に居ますから、何もしてくれなくて結構です。私は颯様と片時も離れたくありません、一生傍を離れないという誓いも立てました」
「な、何故そのような……!」
「ですから、毎日どうにかなってしまいそうなくらい愛しているんです」
「――待て綾、このままだと俺が先にどうにかなる」
よほど驚いたのか、魔力の暴走らしき静電気はぴたりと止んだらしい。颯月は体を硬直させたまま、困惑気味に綾那を見下ろしている。綾那は伊織から颯月に視線を移すと、真っ直ぐに彼を見上げて微笑んだ。
「颯様、今日はもうギュッとしてくれないんですか?」
「……」
「――颯様?」
「…………」
「あの、構ってくれないと、寂しいのですけれど――」
「綾、俺は今、何を試されている? この角度は、色々とその――見え過ぎるんだが……」
颯月は綾那の視線から逃れるように目を泳がせた。しかし、泳がせた先の陽香が鬼のような形相をして震えているのに気付くと、彼はますます体を硬くした。
「試す? 私はただ、颯様を安心させたくて」
「安心――とは、程遠い境地に立たされている気がするんだが」
「私は、颯様が大切に思ってくださっている事も、信頼してくださっている事も知っています。けれど、やっぱり目に見えないモノは不安になるでしょう? だから好きだと伝えたくなって……それだけですよ」
綾那をじっと見下ろす颯月。いつもなら真っ直ぐに瞳を見つめて離さない紫色は、珍しく揺れている。彼は僅かに逡巡したあと、やがて口を開いた。
「触れても、良いのか?」
問いかけに頷けば、颯月は戸惑いがちに綾那の背に腕を回した。
二人のやりとりを間近で見せられている伊織が「どうして」と嘆くような声を上げたが、残念ながら今、綾那も颯月も――陽香も右京も、そして領主さえも、彼の相手をしている場合ではないのだ。
「綾の顔だけ見ていたいのに、いつもと趣の違う渓谷を見逃す手はないと本能が訴えかけて来て、さっきから全く抗えん。それでも、俺が好きだと言ってくれるのか?」
「……けいこく?」
「――悪い、違う。分かった……違うんだ、アンタ本当に天使だな、今のは忘れてくれ。綾が相手だと、俺は些か素直になり過ぎるきらいがある。今後気を付けよう」
「何を言っているんですか、素直な事はとても良い事ですよ」
「…………良いなら――いいか。そうか、そうだな、俺も男だから仕方がないよな。じゃあ、心の赴くままに任せてみるとしよう」
途端に憑き物が落ちたような顔でスンと、綾那――の、どこをとは言わないが――を見下ろす颯月に、綾那は「素直さに性別は関係ありますか?」と笑いかけた。
曲がりなりにも『お色気担当大臣』として活動してきた綾那だ。肢体が人の目――特に男性の目を惹くという自覚はある。しかし颯月は、綾那にとって神なのだ。まさか神が、自身の肢体に釘付けになるはずがない。
「アーニャお前、何を白昼堂々とセクハラかまされてんだよ! お前の渓谷なんざ、ひとつしかねえだろうが……!」
「ああ、もう――だから気に入らないんだよ、アイツ! どう転んだって、あの婚約者さえ居れば役得なんだもの……!」
陽香と右京から絞り出すような声が聞こえたような気もするが、きっと気のせいだ。室内はすっかりカオスな空気に満ちている。それでも、綾那はひとまず颯月の気を逸らす事に成功したと言えるだろう。
彼からはもう不機嫌の『ふ』の字も感じられない。満ち足りた表情さえ浮かべて、綾那の背中を撫でているのだから――。
(よし! このままお暇しよう、そうしよう!)
綾那は不意に体を起こすと、再び伊織を見やった。
「そういう事ですので、私は颯様と王都へ帰りますね。どうかお元気で」
「ま――待ってください、綾さん! その男のどこが、何が良いんです!? 何があなたを、そんなに駆り立てるのですか!」
「へ? はあ、何が……」
問いかけられた綾那は、改めて隣に座る颯月を――それこそ、頭のてっぺんから足の先までサッと見渡した。そして、大真面目な顔で首を傾げる。
「え……? 逆に、嫌う要素どこにありますか? 何がダメなの? ヤダ、全然分かんない――」
「オイコラァ! いい加減にしろよ、馬鹿のカップルがァ!! テメーら色々とアウトだぞ、完全にギルティだ! 四重奏的には牢屋行きレベル!」
「綾と一緒に居られるなら、牢屋も天国みたいなものだ」
「そんっな言葉が聞きてえ訳じゃねえんだわ! ああ、もういい、さっさと帰るぞ!! オイ、弟!」
ついに我慢の限界を迎えたのか、陽香は両手で頭を抱えながら怒鳴り散らし始めた。弟と呼ばれ指を差された伊織は、「わ、私の事か?」と目を白黒させている。彼は自分に兄が居る事を知らないのだから、無理もない。
「お前も、アーニャだけは無理だって分かったな? もう帰っても良いだろ!?」
「む、無理かどうかは――!」
「いいや、無理だね! 悔しかったら全身――いや、中身まで颯様になって出直せ!!」
「中身まで!?」
陽香の勢いは留まる事なく、絶句した伊織を容赦なく追撃する。
「お前、いくら悪魔に唆されてるせいだっつっても、限度ってモンがあんだろ!? 確かに、颯様はウチのアーニャを誑かす、クソみたいな……文字通り悪魔みたいな、ヤバヤバのヤバの男だけどよ!」
「陽香、よせ。褒め過ぎだ」
「ひとつも褒めてねえのよなー! ただ少なくとも、颯様は領民から金むしり取るなんて真似はしない! 騎士団に無茶振りして迷惑かけたり、家族を人質にして脅したり――そんな事しねえぞ! それどころか、朝から晩まで働いて一人コンビニ経営状態、仕事しかしてねえから金貯まり放題! 四、五百万入った財布を「盗まれても困らん」って、ほぼ初対面の人間に渡すような頭のおかしいヤツなんだぞ! アーニャが本気で欲しいなら、まずは颯様と同じ土俵に立て! 話はそれからだろうが!」
凄まじい勢いで捲し立てられて、伊織はぐっと悔しげに顔を歪めて口を噤んだ。
しかしメゾン・ド・クレースで颯月が陽香に投げ渡した財布、随分ぶ厚いとは思っていたが、まさかそんなに入っていたとは。綾那は遠い目をして、「もう、颯月さんの総資産が天文学的な数字だとしても驚かないな」と考えた。
陽香は「帰るぞ右京! アーニャは馬車で説教な!!」と言いながら、ずんずんと応接室から出て行く。そして、領主とすれ違いざまにちゃっかり「おうオッサン! 右京要らねえなら、あたしがもらうからな! 今日からあたしが里親だ、文句ないよな!?」と威嚇するように吐き捨てた。領主は彼女の勢いに呑まれたのか――訳も分かぬまま、ただ何度も頷いている。
「ねえ、僕の意思を無視しないでよ、オネーサン」
ため息を吐きながら陽香を追いかける右京に、綾那は慌ててソファから立ち上がった。そして、「私達も帰りましょう」と颯月に手を差し出せば――すっかりご機嫌になったらしい彼は、鷹揚に頷いて綾那の手を取る。
「綾さん――」
秒速で恋破れた上に陽香から説教までされて、伊織は頼りない表情と声色で綾那を見つめている。綾那は苦く笑って、彼と向き合った。
「颯様――いえ、颯月さんってね、止まると死んじゃうんです」
「……死ぬ?」
「本当に朝から晩まで、休みなく働き続けて――夜中には、悪魔憑きを呪った眷属を探しに街の外へお出かけして。そんな生活を十歳の頃から、今も変わらずに続けているんです。どうかしているでしょう?」
「綾、俺だって休むようになっただろ。アンタが心配するから、努力はしてる」
そもそも休む努力をするとは、なんなのだろうか。綾那は苦笑しながら続ける。
「どうかしているけれど……私は、人のために働き続ける颯月さんの事を心の底から尊敬しています。実力ひとつで騎士団長にまで昇り詰めて、あとは上でふんぞり返っていれば良いのに――率先して、現場に出ちゃうんだもの。どうかあなたも、人のために動ける素敵な大人になってね」
恐らく、物心ついた頃から悪魔の影響下に置かれていたであろう伊織。その悪魔が姿を見せない以上はどうにもできないし、そもそも見せたところで、魔法の使えない綾那に悪魔祓いなどできはしない。
しかし伊織はまだ、十六歳と若いのだ。これから彼自身のやる気ひとつで、いくらでもやり直せる。どうか、悪魔の洗脳に負けじと立ち向かって欲しいものだ。そしてあわよくば、アデュレリア領の問題を解決する手立てとなって欲しい。
曲がりなりにも彼は、アデュレリアの次期領主なのだから――。
「私も――私もそうなれば、望みはありますか? その時は、改めて綾さんに求婚しても?」
途端に真剣な眼差しになった伊織に、綾那は目を瞬かせる。そして悪戯っぽく笑うと、颯月の腕に自身の両腕を絡めて胸に抱いた。
「――颯月さんより格好良くなったら、考えようかな!」
「撤回はナシですよ」
伊織は不敵に笑って、「綾さんは貴様に預けるだけだからな、すぐに私が貰い受けに行くぞ」と宣言した。しかし肝心の颯月は、「今日だけで俺は、何年分の運を使い果たした……? 明日辺り死ぬか、もしくは王都で正妃サマに何かされるんじゃあ――」と、一人真剣に考え込んでいて全く聞いていない。
綾那は颯月の腕を引いて歩き出すと、領主とすれ違いざまに「お邪魔しました」と頭を下げた。そうして応接室を後にすれば――待ち受けているのは王都へ帰還する旅路と、陽香の説教だけである。
(私は魔力の暴発を阻止しただけ……なんて、通用しないだろうなあ。颯月さんについて口から出まかせ言った訳じゃなくて、全部本心――本当に、好きなんだもの)
それに気付かないでいてくれるほど、陽香は鈍くない。綾那は「肩パンチ、何回されるんだろう……」と小さく息を吐きながら、颯月と肩を並べて領主の屋敷を後にした。
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