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第2章 奈落の底で配信する

26 キューの依頼

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「綾?」
「――えっ!?」

 綾那の小さな呟きを拾ったのか、颯月が名を呼んだ。綾那はびくりと肩を揺らして、そして散々鞄を引いていたキューらしき存在も、ふっと消え失せる。やや過剰な反応を見せた綾那に、颯月は首を傾げた。

「あ! いえ、その……す、すみません、少しだけ席を外しても良いですか?」
「どうした? 今は離れない方が良いと思うぞ」
「そう――そう、なんですけど……ちょっと、急ぎ確認しなければならない事ができまして――」

 何せ、ついにキューが帰って来たのだ。キューが帰って来たという事はつまり、東へ落ちたらしい四重奏の誰かを連れて来てくれたという事に他ならない。

 元々綾那の目には、光る蛍のように見えていたはずのキュー。その姿が一切見えなくなっている上に、会話すらできない理由は少々気になるが――恐らく天使の力とやらを消耗し過ぎて、最早神子みこの綾那でさえ、認識できないレベルにまで弱っているのだろう。
 しきりに鞄を引っ張っていた様子から察するに、恐らくキューは今、急ぎ魔獣の核を渡さねばならないギリギリの状況に置かれている。

 しかし颯月の言う通り、「転移」もちの男の存在がちらついている今、彼らから離れるのは得策ではないだろう。しかし、核を渡して多少力を取り戻したところで、「奈落の底」の住人は力の弱まったキューの存在を認識できない。この場でキューに核を渡して話を聞ければ良いのだが、そうすると皆に、虚空と会話する綾那を見せる事になってしまう。

(そ、それだけは、なんか、ちょっと、嫌だ――!)

 折角仲良くなれたのに、そんな姿を見せれば確実に危ないヤツだと思われてしまう。
 綾那はどうしたものかと、眉尻を下げて颯月を見やった。桃華と幸成も、不思議そうな顔をして綾那と颯月のやりとりを見守っている。

 ――と、その時。すっかり焦れたらしいキューが、ググーッと綾那の鞄を思い切り後ろに引いた。突然宙に浮く鞄に、綾那を除いた部屋に居る誰もが身構える。

「――なんだ!?」
「お姉さま!? も、もしや眷属ですか……!? 颯月様、お姉さまが!」
「いや待て、そういう気配は感じない。これはたぶん、だ」

 グイーッと鞄を引かれたまま、綾那は両手で顔を覆い隠して「やめて……キューさん、お願いだから今はやめて――」と、蚊の鳴くような声で抗議した。


 ◆


『――ねえ! 君は相も変わらず、可愛い顔をして守銭奴というか、ケチというか……どうして核一つしかくれないのさ! 久しぶりの再会を祝して、全部渡したっておかしくないレベルなんだけど!?』
「…………」
『ちょっと! もう聞こえるよね、なに無視してんの!? 僕はとってもすごい天使だよ! 君に無視されたら、僕は誰と話せばいいのかな!?』
「キューさん、待ってください、今ちょっと説明で忙しいんですから……!」
『へー! そうか、そういう態度なんだあ! 良いのかなーそんなんで! もう喋るの、やめちゃおっかなー!』

 ひとまず、会話ができない事には何も始まらない。綾那は鞄の中にある核を、一つだけキューに渡して吸収させた。するとキューは、初めて会った時よりも更に小さな光る球体として姿を現して――あの、少女のような声変わり前の少年のような、中性的な高い声も聞こえるようになった。

 しかし、やはりそれは綾那にのみ見聞きできるようで、この場に居る颯月達が視認できたのは、キューに核を吸収させる瞬間の光のみだ。とは言え、例え見聞きできなくとも、鞄を引く謎の存在を知られたからには、キューについて説明しない訳にはいかない。

 綾那は「こうなれば詐欺師と思われても仕方がない」と腹をくくると、キューについて丁寧に説明した。
 この国に来て初めて会った親切な方というのが、実は自称この世界の神であった事。キューの力が弱まっているせいで、この大陸の人間には見聞きできない存在である事。
 どうして綾那だけが見聞きできるのかと言えば、この大陸の人間ではない事と――そして、綾那のもつギフトが全て別大陸の神由来のものであるからで、不思議とキューの存在を認識できる事。
 それでも、先ほどのようにキューの力がとんでもなく弱まってしまった場合には、綾那もその存在を認識できなくなる事。

 その間もキューは、再会の挨拶もそこそこに、綾那の横で「ケチ!」「僕に核を全て渡すべき!」「ねえ、無視しないで!」などと甲高い声で叫んでいる。
 そもそも、キューが周囲の空気やタイミングを全く気にする事なく、鞄なんて引っ張って自らの存在を主張したから、こんな面倒な説明をする事になったのだ。一体、誰のせいで綾那の正気が疑われるハメになったと思っているのか。どうせ核を全て渡したところで、また秒で溶かしきるくせに好き勝手を言って。これで本当に天使なのだろうか。
 綾那はキューの言葉を聞き流しながらも、ほんの少しだけ苛立ちを覚えた。

 ――そして苛立ちを覚えた事に、綾那自身ひどく驚いた。
 ギフト「怪力ストレングス」もちの綾那は、「ついカッとなって人を殴り殺してしまった」なんて事件を起こさぬため、に物心が付く前から国の教育機関に預けられて、感情――特に怒りを抑制するように育てられた。
 くわえて、生来おっとりした性格で懐も深すぎるため、そう簡単に怒りなど覚えないはずなのだ。キューはそれだけ、人の神経を逆なでするのが上手いという事だろうか?

(あれ、でも、そこまで非常識な言動をされた訳ではないような――ま、まあ、たまにはこんな日もある……かな?)

 綾那は「これが、虫の居所が悪いというヤツか」と無理矢理に納得すると、颯月らの反応を窺った。
 どうか嫌いにならないで欲しい。もし綾那が逆の立場なら、こんな話をされたら途端に引いてしまう可能性が高いが――どうか「今すぐ出て行って、二度と顔を見せるな」とはならないで欲しい。

「つまり、綾那お姉さまは――やっぱり、女神様だったいう事ですか?」
「…………うん? いや、そうじゃなくてね」

 どこまでも真剣に、キリリとした表情で口を開いた桃華に、綾那は思いきり首を傾げた。

「でも、創造神様のお姿を見る事ができて、そのお声まで聞く事ができるのでしょう? それも、この世界の存続のために眷属の数を減らすよう頼まれただなんて――まるで、天の使いのようです!」

 目をキラキラと輝かせる桃華に、綾那はどうしたものかと頭を悩ませる。その横で、キューがぽつりと呟いた。

『天使は僕なのに』
「キューさんは天使の前に、神様でしょう?」
『そうだけど、でも僕は美と愛を司る慈愛の天使だよ?』
「分かりましたから、もう少しだけ静かにして待っていてください」
「……驚いた、本当に会話できるんだな」
「――あ。いやっ、すみません、やっぱり気持ち悪いですよね。そもそも相手が認識できないんじゃあ、こんな突拍子もない話は信用できないと思いますが……」

 颯月達の目には、何も居ない宙に向かって綾那が一人語りかけているようにしか見えないはずだ。綾那は気まずくなって口を噤み、目を伏せた。しかし、颯月は頭を横に振る。

「もし出会い頭にを見せられていたら、正直どうなっていたか微妙だが……わざわざ今、綾がこんな嘘ついたって何一つメリットがないだろう」
「確かに、そうかも知れませんが――」
「それに、静真がやたらとアンタを聖女扱いする理由も分かった。創造神の加護を受けているなら、ヤツはその気配を感じ取ったんだろう」
『加護じゃなくて『祝福』だよぉ。ねえ、僕が与えたのは光の祝福! その方が天使っぽいでしょ?』

(それってつまり、言い方は加護でも祝福でも、どうでもいいと取れる気がしますけど……)

 綾那は黙って、光る球体を眺めた。
 しかし、キューは本当にこの世界の創造神なのだろうか。別に神かどうか疑っている訳ではないのだが、どうにもキューは『創造神』なんて大それた存在とは別のものに見えるのだ。
 ――まあ、恐らく力を失っているせいで、威厳のようなものまで一緒に消えたのだろう。

『……もしかして今、何か失礼な事を考えてない?』
「えっ、いいえ、考えていませんよ。それでキューさん、あの……ここへ戻って来たという事は、誰かを見つけて、連れて来てくださったんですか?」
『うん? えーっと……まあ、その話をする前に、ちょっぴり手伝って欲しい事があってさ』
「手伝い? 実は今、こちらも少し立て込んでいるんです」

 言いながら綾那は、ソファに座る桃華を見やった。もし本当に彼女が狙われているのならば、いくら四重奏のメンバーが近くまで来ていると言っても、無責任に放置して出て行く訳にはいかない。
 確かにメンバーは大事だし、すぐにでも合流したい。しかし綾那にとっては既に、桃華だって同じくらい可愛い存在なのだ。

 今ギフトについて知識のある綾那が抜ければ、もしもの時の対処が難しくなるだろう。桃華の身に危険が迫っているかも知れないと気付きながら背を向けて、本当に彼女が攫われてしまったら――綾那はメンバーとの再会を、心から喜べなくなるに違いない。

 キューがあまりにも急かすものだから、ひとまず核を渡して、まともに会話できる状態にしただけだ。まずは、目の前の問題から片付けてしまわねば。

『ふーん……良いのかなあ、そんなこと言って』
「お願いですから、脅すような物言いはやめて頂けますか、慈愛の天使様?」
『ふふ、そうだよ、僕は慈愛の天使! 生きとし生ける者全てを平等に愛する、すごい天使なのさ! 君もようやく分かってきたね!』
「え、何、綾ちゃん脅されてんの? 創造神に――?」

 桃華の隣に座る幸成が、心配そうな表情で綾那を見やった。綾那は慌てて「いえいえ、冗談ですよ、冗談」と笑って誤魔化したが、キューは「慈愛の天使」と呼ばれた事で上機嫌になったのか、綾那の周りをぐるぐると飛び回りながら話し続ける。

『ねえねえ、僕は天使だけど、奈落の底をつくった神様でもあるんだ』
「知っていますよ」
『つまり僕は、この世界に生きる生命全ての母であり、そして父でもある――善悪なんて関係ない、皆可愛い僕の子供達なんだよ』
「それは、素晴らしいお考えだと思います」
『ふふ、だからね? 僕は、僕の子供達を『余所者』に傷付けられるのが、とても――とても、嫌いなんだ』

 途端にキューの声が低くなり、綾那は目を瞬かせる。何やら様子がおかしい。下手な事を言って機嫌を損ねれば、また長くなるだろうし――ここは素直に話を聞くべきか。
 そう判断した綾那は、黙ってキューを見つめた。

『僕のつくった子供同士が喧嘩をする分には良いよ。でも、余所者はダメだ――まあ、調子に乗っちゃった子を諫めるとか、僕の世界を壊そうなんて大変な悪さをするような子が相手なら、少しくらい痛めつけても良いけれどね。それは、愛ある躾だもの』

 キューの主張に、綾那は暗に「ヴェゼルの脚を切った事を咎めるつもりはない」と言われているのだと捉えた。

(そもそもアレは、キューさんが切れって言ったんだし……それで咎められたら、意味が分からないんだけどね)

 いくら善悪関係なく可愛いとは言っても、キューの箱庭をダメにするのは話が違うという事か。しかしそうなると、悪魔ヴェゼルまで天使のキューが生み出したという話にならないか。
 綾那は首を傾げたが、そもそも天使も悪魔も創造神も、何が何やらよく分からないのだ。今は一旦置いておこうと意識を引き戻す。

『僕の子供達に悪さをする余所者が居る、それも大勢。たぶん、君が奈落の底へ落ちて来たのと同じ日にやって来たヤツらだ。彼らはギフトを使って、色んな悪さを繰り返している――そして次は、この子の番だよ』

 言いながら桃華の周りをぐるりと一周したキューに、綾那は一気に青ざめた。キューは確実に、「転移テレポーテーション」もちの男達の事を言っている。予想通り彼らは、今も桃華を誘拐しようと企んでいるのだ。

『僕はすっごい天使だから、やられっ放しは我慢できないんだ。僕の子供達に傷を付けたらどうなるか、思い知らせてやらないといけない。だから、ねえ。僕と一緒に行って、思い上がりも程々にって叱ってあげるのはどうかな』
「前言撤回、今すぐにお手伝いします」
『……ああ、そうこなくっちゃね?』

 顔色を変えて勢いよく立ち上がる綾那に、ちょうど正面に座っていた幸成が慌てて声を掛けた。

「待って綾ちゃん、今どういう話になってる? 俺ら聞こえないから、何も分からなくてさ」
「あっ、すみません……えっと。キューさんが仰るには――」
『ああ、ちょっと待って? 今後も「キューさん」じゃあ、さすがに威厳がなさ過ぎると思うんだ』
「え? じゃあ、なんとお呼びすれば良いんですか、創造神様ですか?」
『それも良いけど、あんまり親しみがないよね。仕方ないなあ、君には特別に、「ルシフェリア」と呼ばせてあげようか』
「……ルシフェリアさん」

 ただの光る球体の癖に、大層な名前なのだな――とは思ったものの、よくよく考えれば神なのだから当然である。綾那は一度頷くと、改めて口を開いた。

「ルシフェリアさんが仰るには、やはり桃ちゃんが狙われているようです」

 綾那の言葉に、幸成と桃華は顔を強張らせた。颯月は黙って綾那を見やり、続きを促す。

『今、「転移」の余所者は街中に一人と、街の外に一人。それぞれが悪だくみしながら、あの子の居場所を探しているよ。まずは外を潰すのが良いんじゃないかな。あの子が「転移」させられるとしたらまず、外で待機しているヤツの場所。中と外の余所者が合流したら、今度は二人がかりで力を合わせて、もっと遠くまで飛ばすつもりだね。だから、一人潰して飛ばせなくしちゃえば良いよ』
「ええと――」

 綾那は、キュー改めルシフェリアの言葉を通訳して颯月らの反応を待った。

「――と言う訳で、今からちょっと、懲らしめに行っちゃおうかなって」

 桃華が狙われている事が明確になった以上、彼女の傍を離れるのは悪手だろう。しかし、創造神が「やれ」と言うのだから先手必勝だ。今回は、彼女が誘拐される前に企みごと潰したい。

「成、アンタは桃華の傍についてるよな。それともいっそ、桃華ごと連れて外へ行くか?」
「えっ、あの、颯月様? でも私、ご迷惑に――」

 困惑した様子の桃華の隣で、幸成が静かに立ち上がった。その顔には――いつか綾那の襟首を掴み上げた時と同じように――刺すような殺気が満ちている。

「そんなもん、行くに決まってるだろ! そもそも前のツケが残ってる、誰の女に手ぇ出そうとしてんのか……手ぇ出したらどうなるか、骨の髄まで分からせてやるからな……!」

 普段人好きのする笑みを浮かべる瞳は、完全に据わっている。やはり、彼の一番の地雷は桃華なのだ。綾那は何やら、幸成にこういう目を向けられていた時代が自分にもあったのだと思うと、感慨深い気持ちにさせられた。

「――だそうだ、綾。案内を頼めるか?」

 颯月の問いかけに、綾那は大きく頷いた。そして、ルシフェリアに向かって「外の「転移」もちの所まで、案内してください」と頼んだのであった。
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