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第2章 奈落の底で配信する
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飲食街から外れた、アイドクレースの高級店が立ち並ぶ通り。その中でも一等格式が高い、王族御用達の高級レストラン――その個室に連れ込まれた綾那は、移動中からテーブルに着くまで一言も発する事なく、青い顔をしていた。
(どうして、こうなったの――)
必死で考えるが、理由など綾那に分かるはずもない。同じ卓に着く颯月をちらりと見やるが、彼もまた正妃に連行される事が決まってから、一言も話さなくなってしまった。無表情で腕を組んでいて、とても話しかけられる雰囲気ではない。
ちなみに、護衛付きとはいえ国の正妃が街中に居た理由についてだが、彼女はごく稀に、市井の様子を見たいと言って街歩きをする事があるそうだ。
正妃は己の目で見聞きしたものしか信じない性分らしい。実際に街を歩いて住民の様子、アイドクレースに移ってきた他領の人間の生活環境などを、調べる習慣があるようだ。
ひと昔前は、他領から移って来たばかりの人間を差別する悪習があったらしい。
他所から引っ越してきたものの、現地のアイドクレース人と契約したはずの家が存在しなかった――なんて、犯罪まがいの行為も横行していたと言うのだから、驚きだ。
正妃が街中を見て回っていると、肌色と言い髪色と言い、見るからにアイドクレースの人間ではない綾那が一人俯いて座っていたから、「まさか」と心配になって、声をかけたのだそうだ。
(どうすれば良いんだろう)
個室には正妃と颯月、そして綾那の三人しか居ない。正妃の護衛は、部屋の扉の前に立って見張りをしている。個室には盗聴防止の防音魔法とやらがかけられていて、中の会話は一切外に漏れない。込み入った話をするには、うってつけの場所らしい。
そうは言われても、国王の正妃だという女性相手に、一体何を話せば良いのか。正妃から好きな料理を頼んで良いと勧められたものの、緊張と不安で、食事など喉を通りそうにない。
何かひとつくらい頼まねば失礼に当たるだろうと、飲み物だけはテーブルの上にあるのだが――果たして綾那がそれに口を付けるのは、いつになるのか。
「あなた、お名前は?」
「は、はいっ! えっと、綾那と申します」
「そう……では綾那、あなたの事を教えてくれるかしら」
否やを許さないと言いたげな眼差しで問いかけられた綾那は、今まで散々繰り返してきた「決して嘘ではないが、重要な部分はぼんやりと隠した説明」をした。
自分は異大陸から謎の手法で攫われてきた人間で、魔法は使えず、仲間とはぐれて身寄りがなく、そして身分証も仕事もない。東の森で眷属に襲われていたところを、偶然通りかかった颯月に救われて――何やかんやあり、今は騎士団の世話になっている身である。
ただ、正直始まりは密入国に違いないが、今後騎士団で雇用される話が上がっていて、近い内に身分証も発行される予定であると伝えた。
まあ伝えたところで、綾那が犯罪者である事に変わりはないのだが。
一連の話を聞いた正妃は、ふむと頷いた。そして改めて綾那に向き直ると、その目をじっと見た。
「輝夜――では、ないのよね。あの子の生まれ変わりという訳でも……」
「すみません……輝夜さんというお名前に覚えはありませんし、生まれ変わりというのは、さすがに」
「そう、よね。そんな都合のいい話があるはずないもの。私、最初にあなたの笑顔を見た時、颯月が心配で帰って来てしまったのかと思って――」
「やめてくれませんか」
颯月は低く硬い声色で、正妃を一瞥する事もなく、ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。正妃はそんな彼をじろりと横目で睨みつける。
「本当に似ているのよ、どう思おうが私の勝手ではなくて?」
「知りもせん女の面影を重ねられる、彼女の迷惑を考えてください」
「その言い方は何? 輝夜はお前の母親なのよ?」
二人のやりとりを聞いて、綾那はギョッとした。
輝夜という女性は、颯月の亡くなった母だったのだ。笑顔だけとはいえ、そんな尊い女性と似ていると言われるなど恐れ多い。
綾那は肩身の狭い思いになって、ますます体を縮こまらせた。
「だいたいお前、あんな路地裏で何をしていたのよ……どうして彼女を傍に置いているの? お前も何か、思うところがあったんじゃあ――」
「彼女と、顔すら知らん母上の、一体何を重ねろと? あの人の姿が分かるものなど、全て処分されているではありませんか。そもそも俺は母上の尊顔を知りません」
「そうね、今のは失言だったわ――では、彼女を傍に置く理由はなんなの? 一時的に彼女の身を保証するための婚約かしら? まさかとは思うけれど……「契約」を使った訳ではないわよね」
目を細めて綾那の左手を眺める正妃に、綾那は椅子の上でピャッと姿勢を正した。どう答えるべきなのかと颯月を見やるが、彼と視線がかち合う事はない。
颯月はまるで自嘲するように小さく鼻で笑ってから、口を開いた。
「そうだとして、なにか問題でも?」
颯月の言葉に、正妃は深いため息を吐き出した。しばらく、ほっそりとした手で額を押さえて俯いたかと思えば、ふと顔を上げて綾那を見やる。
「お前」
「は、はい!」
あなたと丁寧に呼んでくれていた正妃が、突然お前呼びになった。眉根を寄せて眇めた半目で見られると、まるで蛇に睨まれた蛙のような気持ちにさせられる。
「勿論、颯月の顔を見た上で婚約者になったんでしょうね?」
「え? いや、えっと……顔ですか?」
確かに彼の顔は魅力的であるが、そもそも綾那は婚約者になる事を了承していない。一体どうしろと言うのかと頭を抱えた綾那に、正妃は我が意を得たりと声を大にした。
「やっぱり! また見せていないのね、颯月」
「――「契約」するのに、顔は関係ありません」
「ええ、そうよね。確かにお前の顔は整っていると思うわ、陛下と輝夜の良いとこ取りだもの。その上辺に釣られるお嬢さんの、なんと多い事か――でも、眼帯の下を見たら彼女はどう思うかしらね。手の平を返して去って行くわよ、そうなれば自分が傷つくだけなのに、どうしていつも頑なに隠そうとするの?」
グッと眉間に深い皺を刻む颯月と、それを憐れむような表情になる正妃。綾那はずっと置いてきぼりで、彼らの話す事の内容が一割ほどしか理解できていない。
「その――颯月さんのお顔が最高に格好いいという事でしたら、嫌という程承知しておりますが……?」
そう、綾那が唯一理解できている事など、この事実のみだ。
おずおずと口を開いた綾那に、正妃は一瞬呆気にとられたように目を丸めた。しかしすぐに頭を振ると、キッと鋭い視線を投げかける。
「颯月の醜い素顔を見た事もないお嬢さんが、軽々しく言わないで頂戴。いい綾那、お前がこの見た目に騙されたまま無駄な時間を過ごす事がないよう、そのためにも言うわ。颯月、今すぐに眼帯を外しなさい」
「なんで、わざわざ――っ」
「颯月、お前のためでもあるわよ。素顔を見せた上で、綾那がそれでも婚約者で居たいと言うなら、それで良いじゃない。それが無理ならさっさと別れるべきだわ、双方時間の無駄よ――それに、どうせお前が振られる事になるんだから。傷は浅い方が良いでしょう?」
綾那の意思に関係なく話が進んでしまう。口を挟める空気でもなく、綾那はただ困って眉尻を下げた。
明らかに颯月は眼帯を外したくなさそうで、正妃の要求はあまりに性急すぎる。両者ともに一旦落ち着いて欲しい。しかし二人の口論が止む事はない。
「無駄かどうかは、俺が決める事では? 顔を隠してでも――少しでも長く共に在りたいと思うのは、そんなに悪い事ですか」
「そうして問題を先延ばしにする事が、お前のためになると? 綾那は別の大陸から来て、まだ悪魔憑きの恐ろしさを分かっていないから、お前を好いてくれているだけよ。でもお前の顔を見たら、目が覚めるわ。まやかしの幸せなんてぬるま湯に浸かっていないで、お前は早く、お前の全てを愛してくれる者と結婚しなさい」
「勝手な事を! 正妃様はいつも、俺のためだと言いながら奪ってばかりではありませんか!」
(だ、だから、どうしてこうなったの――?)
ここに連れて来られてからというもの、意味が分からない事だらけだ。
綾那は颯月に騙されて「契約」を行使されただけで、決して本物の婚約者ではない。しかしだからと言って、彼の事が嫌いな訳でもない。彼の顔が醜いというのも理解できないし、そして何よりも、綾那が颯月を振る事になるというのは本気で意味が分からない。
とにかく何が何やら分からないが、他でもない颯月が嫌がっているのだ。綾那は彼の意思に沿いたい。
「あ、あの、眼帯の下というのは、きっと悪魔憑きの呪いがかけられた部分ですよね? 颯月さんの意思に反して、無理矢理見るというのは――」
「勘違いしないで、これは提案じゃなく命令よ。聞けないのなら、お前の密入国を告発して領から追い出すわ」
「――正妃様!」
「えっ、あぁ……いいえ、それならそれで、受け入れます――私は平気ですよ」
正直、今まで無職でも生活の保障がされていたし、ようやく仕事の目途が立ったところで追い出されるのはしんどい。しかも、教会の子供達との約束を反故にする事にもなってしまう。ただ、それも仕方ないだろう。
綾那にとっては、ここで変に意固地になって、颯月を煩わせる方がもっとしんどいのだ。彼は恩人だ、その恩人が嫌がる事はしたくない。
追い出されたら追い出されたで、のんびり東か南へ向かえば良いだろう。キューには王都で待つよう言われているが、核と綾那の気配さえあれば居場所を追えるはずだ。
綾那は、正妃と会ってからずっと苦しげな颯月を見て微笑んだ。しかし彼は首を横に振る。
「……出て行くのだけはダメだ」
「でも――」
綾那の言葉に遮るように、颯月は大きな舌打ちをした。そして、乱雑な手つきで己の眼帯の留め具に手をかける。
「えっ、待……っ!」
カチャリと留め具が外れる音を聞いて、綾那は眼帯の下の素顔を見ないように、慌てて両目を閉じた。しかし正妃から「見なさい」と語気を強められて、颯月からも名を呼ばれて、渋々目を開けると――彼の顔を見て、短い悲鳴を上げた。
「――ヒッ、嘘、いやっ!?」
綾那は口元を手で押さえて、垂れ目を見開いた。そのままガタンと音を立てて椅子から立ち上がった体は、小刻みに震えている。
その視線は、まるで縫い付けられたかのように颯月の顔から離れない。
「はあ……ホラ、やっぱりこうなるんじゃない。無駄な時間を過ごさずに済んで良かったわね。「契約」は早々に解除なさい」
どこか冷めた目で綾那を一瞥した正妃は、颯月に言葉を投げかけた。その言葉に、颯月は酷く傷ついた表情を浮かべている。
しかし、綾那には彼らのやり取りが一切耳に入らなかった。ただじっと颯月の顔を見て、震える息を漏らすだけだ。
颯月が眼帯で覆い隠していた、顔の右半分。
彼の右目は紫色ではなく、悪魔憑きの特徴である赤い瞳だった。それに、額から右頬、顎先にかけて、茨の蔓のような――もしくは稲妻が這うようにも見える模様が、びっしりと刻み込まれている。
それはまるで、黒一色で緻密に彫られた刺青のようだ。
颯月の白肌にその黒はよく映えて、その姿は――その姿は、まるで。
(ユグドラシルのセカンドアルバム、『悪鬼羅刹』の時の絢葵さんじゃない……! あのアー写 (※『アーティスト写真』の略、アーティストの宣材写真を指す)本当に最高だった! 確かアルバムのコンセプトが餓鬼で、バンドメンバー全員おどろおどろしいタトゥーメイクしてたんだよね!!)
綾那は状況も忘れて、ただ歓喜に打ち震えていた。
奈落の底に落ちて颯月に出会った瞬間に、綾那の「宇宙一格好いい男」ランキング一位の座を降りる事になった、ビジュアル系バンドユグドラシルのギター絢葵。
しかし綾那は彼を十数年追いかけ続けて、男の趣味が「絢葵さんに似ているなら、なんでも良いよ?」になるほど執心していたのだ。
そもそも綾那が今颯月にド嵌りしているのだって、彼の顔が絢葵と同じ系統だからである。
颯月は化粧なしで絢葵を超える仕上がりだが、この上でもし化粧をしたらどうなってしまうのだろうか? 騎士服もいいが、いかにもビジュアル系な衣装を着たらどうなってしまうのだろうか? 主に、綾那の心臓が――。
そんな颯月が――正妃から「醜い」と蔑まれた颯月の素顔が、ただ単にフェイスタトゥーがあって、オッドアイというだけだなんて。
「~~ッもう、やだぁ、ホント無理ぃ゛ぃ……っかっこよくて死んじゃぅう……!!」
「――は?」
椅子から立ち上がっていた綾那は、大きな独り言を呟きながらがくりと腰を折ると、テーブルの上に臥せった。その様子を見て呆けた声を漏らしたのは、颯月だったのか正妃だったのか――それとも、その両名か。
しかし綾那は周囲の空気など全く意に介さないで、チラッと顔だけ上げて颯月を見やると、目尻を甘く垂らして「はぅう……っ」と言葉にならない息を漏らした。
(ただでさえ絢葵さんに似てるのに! 顔に刺青でオッドアイって、無理無理のムリだから!! 私『悪鬼羅刹』の時、絢葵さんを真似て顔に刺青入れようとして、師匠にめちゃくちゃ怒られたんだもの……!!!)
綾那はすっかりマナーも忘れて、テーブルに両肘をついたままその場にしゃがみ込んだ。そして下から仰ぎ見るように、颯月の顔をじっと眺める。
今までの比にならないほど熱っぽい眼差し送っている自覚はある。そんな視線を受けた颯月は、何が起きているのか分からないと言った様子で、酷く困惑している。
「…………綾、アンタ、もしかして――コレもイケる口なのか?」
信じられないと言いたげな表情の颯月に、綾那は笑顔で首を傾げた。
「コレとは?」
「いや……、いや、待て……穴が――」
「穴?」
「穴が、開くから――」
そう言って手を伸ばした颯月は、綾那の頭を上から押さえつけると、無理やりに下を向かせた。「もうこれ以上、見てくれるな」という事だろう。
そう言われてもおかしくないほど、綾那は熱苦しい視線を送っていた。
至近距離でテーブルを見つめるハメになった綾那は、颯月を見られなくなった事に対する不満と、己の頭を押さえつけるために乗せられた颯月の手に触れられる喜びとで、感情が忙しく暴れ回って小さく呻いた。
「綾那、お前――」
正妃の震え声を聞き、綾那はそこでようやくハッと我に返った。そう言えば今は、颯月に見惚れている場合ではなかったのだと。
慌てて立ち上がると姿勢を正して、「すみません、取り乱しました」とか細い声を出した。
「お前、アレが恐ろしくないの? 醜いとか、悪魔憑きが伝染したら嫌だとか、不快とか――そういった事は思わない?」
「え? 思いませんけれど……そもそも悪魔憑きって、眷属が呪ってなるものでは? 人から人へ伝染するものなんですか?」
「…………いいえ」
「うん? ええと……それでしたら、何も問題ないのでは? とても素敵です――素敵過ぎて、恐ろしいくらいですよ」
ふふ、とだらしなく顔を緩める綾那に、正妃は目を瞬かせた。そして何事かを逡巡するように視線を泳がせると、改めて綾那を見やる。
「お前、もしかして颯月に触れられる?」
「――えっ!?」
「試しにあの頬に触れてごらんなさい」
「ほっ、頬に!? そんなっ……い、いくら支払えば――そ、それはCDアルバム何枚分の権利ですか!?」
「ちょっとお前が何を言っているのか分からないけれど、支払いは不要だから安心なさい」
「タダで!? 颯月さんを安売りしないでください! 信じられません、神に対する冒涜ですよ!!」
「良いから早く触りなさいな、命令よ」
やや苛立った様子の正妃に、綾那はクッと唇を噛み締めた。そして椅子に座ったままの颯月の横へ移動すると、「この国のお金を稼いだ暁には、必ず然るべき代価を支払わせてください」と述べてから、彼の右頬に手を這わせる。
綾那に触れられた颯月は、びくりと肩を跳ねさせた後、体を硬直させた。
(わあぁ、スベスベだあ……うん、でも颯月さん毛穴一つ見えないもんね、当たり前か。刺青みたいだと思ったけど、ざらつきや凹凸もないから、彫ってるんじゃなくて肌に模様が浮かび上がっているのかな? 不思議――)
正妃に向かって「安売りするな」と吠えたものの、今綾那には正妃の命令で仕方なく触れているという免罪符がある。
ここぞとばかりに颯月の滑らかな頬を堪能していると、ふとハーフアップに結われた髪から落ちた横髪が目についたので、そっと彼の耳に掛けた。恐らく、先ほど乱暴に眼帯を外したせいで落ちてしまったのだろう。
彼の模様は額から右頬、顎先まで広がっているが、よく見れば、こめかみから右側頭部に向かっても同様に伸びているようだ。
(右側だけ刈り上げても似合いそう、素敵な模様があるから尚更――ていうか、何でも似合う! この顔だもの)
綾那は顔を上げると、ホクホクとした満足顔で正妃を見やった。
「もしかして何か、目的がある――? 颯月を甘言で誑かして、何かさせようとしているとか?」
「へ? いえ、そもそも私じゃあ力不足だと思いますよ。誑かされはしても、私が誑かす事はできません」
情けない事をキッパリと言い切った綾那に、正妃は思案顔になる。彼女はやがて小さく頷くと、並ぶ綾那と颯月を改めて見やった。
「綾那の気持ちは、よく分かったわ。どうか颯月を幸せにしてやって――式には必ず呼ぶのよ」
「――えっ。いやっ、それは、ちょっとできないって言うか……まず、皆が許さないと言うか……?」
「…………は? 何を言っているの? お前は颯月の婚約者でしょう? それも、素顔を見ても態度が変わらないぐらい、深く愛して――」
「い、いやいやいや! 違います、色々と!」
ブンブンと両手を振って否定する綾那に、正妃はスッと目を細めた。
そうして、気まずげに目を逸らした颯月を見やると、低い声で「説明なさい」と一言だけ告げた。
(どうして、こうなったの――)
必死で考えるが、理由など綾那に分かるはずもない。同じ卓に着く颯月をちらりと見やるが、彼もまた正妃に連行される事が決まってから、一言も話さなくなってしまった。無表情で腕を組んでいて、とても話しかけられる雰囲気ではない。
ちなみに、護衛付きとはいえ国の正妃が街中に居た理由についてだが、彼女はごく稀に、市井の様子を見たいと言って街歩きをする事があるそうだ。
正妃は己の目で見聞きしたものしか信じない性分らしい。実際に街を歩いて住民の様子、アイドクレースに移ってきた他領の人間の生活環境などを、調べる習慣があるようだ。
ひと昔前は、他領から移って来たばかりの人間を差別する悪習があったらしい。
他所から引っ越してきたものの、現地のアイドクレース人と契約したはずの家が存在しなかった――なんて、犯罪まがいの行為も横行していたと言うのだから、驚きだ。
正妃が街中を見て回っていると、肌色と言い髪色と言い、見るからにアイドクレースの人間ではない綾那が一人俯いて座っていたから、「まさか」と心配になって、声をかけたのだそうだ。
(どうすれば良いんだろう)
個室には正妃と颯月、そして綾那の三人しか居ない。正妃の護衛は、部屋の扉の前に立って見張りをしている。個室には盗聴防止の防音魔法とやらがかけられていて、中の会話は一切外に漏れない。込み入った話をするには、うってつけの場所らしい。
そうは言われても、国王の正妃だという女性相手に、一体何を話せば良いのか。正妃から好きな料理を頼んで良いと勧められたものの、緊張と不安で、食事など喉を通りそうにない。
何かひとつくらい頼まねば失礼に当たるだろうと、飲み物だけはテーブルの上にあるのだが――果たして綾那がそれに口を付けるのは、いつになるのか。
「あなた、お名前は?」
「は、はいっ! えっと、綾那と申します」
「そう……では綾那、あなたの事を教えてくれるかしら」
否やを許さないと言いたげな眼差しで問いかけられた綾那は、今まで散々繰り返してきた「決して嘘ではないが、重要な部分はぼんやりと隠した説明」をした。
自分は異大陸から謎の手法で攫われてきた人間で、魔法は使えず、仲間とはぐれて身寄りがなく、そして身分証も仕事もない。東の森で眷属に襲われていたところを、偶然通りかかった颯月に救われて――何やかんやあり、今は騎士団の世話になっている身である。
ただ、正直始まりは密入国に違いないが、今後騎士団で雇用される話が上がっていて、近い内に身分証も発行される予定であると伝えた。
まあ伝えたところで、綾那が犯罪者である事に変わりはないのだが。
一連の話を聞いた正妃は、ふむと頷いた。そして改めて綾那に向き直ると、その目をじっと見た。
「輝夜――では、ないのよね。あの子の生まれ変わりという訳でも……」
「すみません……輝夜さんというお名前に覚えはありませんし、生まれ変わりというのは、さすがに」
「そう、よね。そんな都合のいい話があるはずないもの。私、最初にあなたの笑顔を見た時、颯月が心配で帰って来てしまったのかと思って――」
「やめてくれませんか」
颯月は低く硬い声色で、正妃を一瞥する事もなく、ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。正妃はそんな彼をじろりと横目で睨みつける。
「本当に似ているのよ、どう思おうが私の勝手ではなくて?」
「知りもせん女の面影を重ねられる、彼女の迷惑を考えてください」
「その言い方は何? 輝夜はお前の母親なのよ?」
二人のやりとりを聞いて、綾那はギョッとした。
輝夜という女性は、颯月の亡くなった母だったのだ。笑顔だけとはいえ、そんな尊い女性と似ていると言われるなど恐れ多い。
綾那は肩身の狭い思いになって、ますます体を縮こまらせた。
「だいたいお前、あんな路地裏で何をしていたのよ……どうして彼女を傍に置いているの? お前も何か、思うところがあったんじゃあ――」
「彼女と、顔すら知らん母上の、一体何を重ねろと? あの人の姿が分かるものなど、全て処分されているではありませんか。そもそも俺は母上の尊顔を知りません」
「そうね、今のは失言だったわ――では、彼女を傍に置く理由はなんなの? 一時的に彼女の身を保証するための婚約かしら? まさかとは思うけれど……「契約」を使った訳ではないわよね」
目を細めて綾那の左手を眺める正妃に、綾那は椅子の上でピャッと姿勢を正した。どう答えるべきなのかと颯月を見やるが、彼と視線がかち合う事はない。
颯月はまるで自嘲するように小さく鼻で笑ってから、口を開いた。
「そうだとして、なにか問題でも?」
颯月の言葉に、正妃は深いため息を吐き出した。しばらく、ほっそりとした手で額を押さえて俯いたかと思えば、ふと顔を上げて綾那を見やる。
「お前」
「は、はい!」
あなたと丁寧に呼んでくれていた正妃が、突然お前呼びになった。眉根を寄せて眇めた半目で見られると、まるで蛇に睨まれた蛙のような気持ちにさせられる。
「勿論、颯月の顔を見た上で婚約者になったんでしょうね?」
「え? いや、えっと……顔ですか?」
確かに彼の顔は魅力的であるが、そもそも綾那は婚約者になる事を了承していない。一体どうしろと言うのかと頭を抱えた綾那に、正妃は我が意を得たりと声を大にした。
「やっぱり! また見せていないのね、颯月」
「――「契約」するのに、顔は関係ありません」
「ええ、そうよね。確かにお前の顔は整っていると思うわ、陛下と輝夜の良いとこ取りだもの。その上辺に釣られるお嬢さんの、なんと多い事か――でも、眼帯の下を見たら彼女はどう思うかしらね。手の平を返して去って行くわよ、そうなれば自分が傷つくだけなのに、どうしていつも頑なに隠そうとするの?」
グッと眉間に深い皺を刻む颯月と、それを憐れむような表情になる正妃。綾那はずっと置いてきぼりで、彼らの話す事の内容が一割ほどしか理解できていない。
「その――颯月さんのお顔が最高に格好いいという事でしたら、嫌という程承知しておりますが……?」
そう、綾那が唯一理解できている事など、この事実のみだ。
おずおずと口を開いた綾那に、正妃は一瞬呆気にとられたように目を丸めた。しかしすぐに頭を振ると、キッと鋭い視線を投げかける。
「颯月の醜い素顔を見た事もないお嬢さんが、軽々しく言わないで頂戴。いい綾那、お前がこの見た目に騙されたまま無駄な時間を過ごす事がないよう、そのためにも言うわ。颯月、今すぐに眼帯を外しなさい」
「なんで、わざわざ――っ」
「颯月、お前のためでもあるわよ。素顔を見せた上で、綾那がそれでも婚約者で居たいと言うなら、それで良いじゃない。それが無理ならさっさと別れるべきだわ、双方時間の無駄よ――それに、どうせお前が振られる事になるんだから。傷は浅い方が良いでしょう?」
綾那の意思に関係なく話が進んでしまう。口を挟める空気でもなく、綾那はただ困って眉尻を下げた。
明らかに颯月は眼帯を外したくなさそうで、正妃の要求はあまりに性急すぎる。両者ともに一旦落ち着いて欲しい。しかし二人の口論が止む事はない。
「無駄かどうかは、俺が決める事では? 顔を隠してでも――少しでも長く共に在りたいと思うのは、そんなに悪い事ですか」
「そうして問題を先延ばしにする事が、お前のためになると? 綾那は別の大陸から来て、まだ悪魔憑きの恐ろしさを分かっていないから、お前を好いてくれているだけよ。でもお前の顔を見たら、目が覚めるわ。まやかしの幸せなんてぬるま湯に浸かっていないで、お前は早く、お前の全てを愛してくれる者と結婚しなさい」
「勝手な事を! 正妃様はいつも、俺のためだと言いながら奪ってばかりではありませんか!」
(だ、だから、どうしてこうなったの――?)
ここに連れて来られてからというもの、意味が分からない事だらけだ。
綾那は颯月に騙されて「契約」を行使されただけで、決して本物の婚約者ではない。しかしだからと言って、彼の事が嫌いな訳でもない。彼の顔が醜いというのも理解できないし、そして何よりも、綾那が颯月を振る事になるというのは本気で意味が分からない。
とにかく何が何やら分からないが、他でもない颯月が嫌がっているのだ。綾那は彼の意思に沿いたい。
「あ、あの、眼帯の下というのは、きっと悪魔憑きの呪いがかけられた部分ですよね? 颯月さんの意思に反して、無理矢理見るというのは――」
「勘違いしないで、これは提案じゃなく命令よ。聞けないのなら、お前の密入国を告発して領から追い出すわ」
「――正妃様!」
「えっ、あぁ……いいえ、それならそれで、受け入れます――私は平気ですよ」
正直、今まで無職でも生活の保障がされていたし、ようやく仕事の目途が立ったところで追い出されるのはしんどい。しかも、教会の子供達との約束を反故にする事にもなってしまう。ただ、それも仕方ないだろう。
綾那にとっては、ここで変に意固地になって、颯月を煩わせる方がもっとしんどいのだ。彼は恩人だ、その恩人が嫌がる事はしたくない。
追い出されたら追い出されたで、のんびり東か南へ向かえば良いだろう。キューには王都で待つよう言われているが、核と綾那の気配さえあれば居場所を追えるはずだ。
綾那は、正妃と会ってからずっと苦しげな颯月を見て微笑んだ。しかし彼は首を横に振る。
「……出て行くのだけはダメだ」
「でも――」
綾那の言葉に遮るように、颯月は大きな舌打ちをした。そして、乱雑な手つきで己の眼帯の留め具に手をかける。
「えっ、待……っ!」
カチャリと留め具が外れる音を聞いて、綾那は眼帯の下の素顔を見ないように、慌てて両目を閉じた。しかし正妃から「見なさい」と語気を強められて、颯月からも名を呼ばれて、渋々目を開けると――彼の顔を見て、短い悲鳴を上げた。
「――ヒッ、嘘、いやっ!?」
綾那は口元を手で押さえて、垂れ目を見開いた。そのままガタンと音を立てて椅子から立ち上がった体は、小刻みに震えている。
その視線は、まるで縫い付けられたかのように颯月の顔から離れない。
「はあ……ホラ、やっぱりこうなるんじゃない。無駄な時間を過ごさずに済んで良かったわね。「契約」は早々に解除なさい」
どこか冷めた目で綾那を一瞥した正妃は、颯月に言葉を投げかけた。その言葉に、颯月は酷く傷ついた表情を浮かべている。
しかし、綾那には彼らのやり取りが一切耳に入らなかった。ただじっと颯月の顔を見て、震える息を漏らすだけだ。
颯月が眼帯で覆い隠していた、顔の右半分。
彼の右目は紫色ではなく、悪魔憑きの特徴である赤い瞳だった。それに、額から右頬、顎先にかけて、茨の蔓のような――もしくは稲妻が這うようにも見える模様が、びっしりと刻み込まれている。
それはまるで、黒一色で緻密に彫られた刺青のようだ。
颯月の白肌にその黒はよく映えて、その姿は――その姿は、まるで。
(ユグドラシルのセカンドアルバム、『悪鬼羅刹』の時の絢葵さんじゃない……! あのアー写 (※『アーティスト写真』の略、アーティストの宣材写真を指す)本当に最高だった! 確かアルバムのコンセプトが餓鬼で、バンドメンバー全員おどろおどろしいタトゥーメイクしてたんだよね!!)
綾那は状況も忘れて、ただ歓喜に打ち震えていた。
奈落の底に落ちて颯月に出会った瞬間に、綾那の「宇宙一格好いい男」ランキング一位の座を降りる事になった、ビジュアル系バンドユグドラシルのギター絢葵。
しかし綾那は彼を十数年追いかけ続けて、男の趣味が「絢葵さんに似ているなら、なんでも良いよ?」になるほど執心していたのだ。
そもそも綾那が今颯月にド嵌りしているのだって、彼の顔が絢葵と同じ系統だからである。
颯月は化粧なしで絢葵を超える仕上がりだが、この上でもし化粧をしたらどうなってしまうのだろうか? 騎士服もいいが、いかにもビジュアル系な衣装を着たらどうなってしまうのだろうか? 主に、綾那の心臓が――。
そんな颯月が――正妃から「醜い」と蔑まれた颯月の素顔が、ただ単にフェイスタトゥーがあって、オッドアイというだけだなんて。
「~~ッもう、やだぁ、ホント無理ぃ゛ぃ……っかっこよくて死んじゃぅう……!!」
「――は?」
椅子から立ち上がっていた綾那は、大きな独り言を呟きながらがくりと腰を折ると、テーブルの上に臥せった。その様子を見て呆けた声を漏らしたのは、颯月だったのか正妃だったのか――それとも、その両名か。
しかし綾那は周囲の空気など全く意に介さないで、チラッと顔だけ上げて颯月を見やると、目尻を甘く垂らして「はぅう……っ」と言葉にならない息を漏らした。
(ただでさえ絢葵さんに似てるのに! 顔に刺青でオッドアイって、無理無理のムリだから!! 私『悪鬼羅刹』の時、絢葵さんを真似て顔に刺青入れようとして、師匠にめちゃくちゃ怒られたんだもの……!!!)
綾那はすっかりマナーも忘れて、テーブルに両肘をついたままその場にしゃがみ込んだ。そして下から仰ぎ見るように、颯月の顔をじっと眺める。
今までの比にならないほど熱っぽい眼差し送っている自覚はある。そんな視線を受けた颯月は、何が起きているのか分からないと言った様子で、酷く困惑している。
「…………綾、アンタ、もしかして――コレもイケる口なのか?」
信じられないと言いたげな表情の颯月に、綾那は笑顔で首を傾げた。
「コレとは?」
「いや……、いや、待て……穴が――」
「穴?」
「穴が、開くから――」
そう言って手を伸ばした颯月は、綾那の頭を上から押さえつけると、無理やりに下を向かせた。「もうこれ以上、見てくれるな」という事だろう。
そう言われてもおかしくないほど、綾那は熱苦しい視線を送っていた。
至近距離でテーブルを見つめるハメになった綾那は、颯月を見られなくなった事に対する不満と、己の頭を押さえつけるために乗せられた颯月の手に触れられる喜びとで、感情が忙しく暴れ回って小さく呻いた。
「綾那、お前――」
正妃の震え声を聞き、綾那はそこでようやくハッと我に返った。そう言えば今は、颯月に見惚れている場合ではなかったのだと。
慌てて立ち上がると姿勢を正して、「すみません、取り乱しました」とか細い声を出した。
「お前、アレが恐ろしくないの? 醜いとか、悪魔憑きが伝染したら嫌だとか、不快とか――そういった事は思わない?」
「え? 思いませんけれど……そもそも悪魔憑きって、眷属が呪ってなるものでは? 人から人へ伝染するものなんですか?」
「…………いいえ」
「うん? ええと……それでしたら、何も問題ないのでは? とても素敵です――素敵過ぎて、恐ろしいくらいですよ」
ふふ、とだらしなく顔を緩める綾那に、正妃は目を瞬かせた。そして何事かを逡巡するように視線を泳がせると、改めて綾那を見やる。
「お前、もしかして颯月に触れられる?」
「――えっ!?」
「試しにあの頬に触れてごらんなさい」
「ほっ、頬に!? そんなっ……い、いくら支払えば――そ、それはCDアルバム何枚分の権利ですか!?」
「ちょっとお前が何を言っているのか分からないけれど、支払いは不要だから安心なさい」
「タダで!? 颯月さんを安売りしないでください! 信じられません、神に対する冒涜ですよ!!」
「良いから早く触りなさいな、命令よ」
やや苛立った様子の正妃に、綾那はクッと唇を噛み締めた。そして椅子に座ったままの颯月の横へ移動すると、「この国のお金を稼いだ暁には、必ず然るべき代価を支払わせてください」と述べてから、彼の右頬に手を這わせる。
綾那に触れられた颯月は、びくりと肩を跳ねさせた後、体を硬直させた。
(わあぁ、スベスベだあ……うん、でも颯月さん毛穴一つ見えないもんね、当たり前か。刺青みたいだと思ったけど、ざらつきや凹凸もないから、彫ってるんじゃなくて肌に模様が浮かび上がっているのかな? 不思議――)
正妃に向かって「安売りするな」と吠えたものの、今綾那には正妃の命令で仕方なく触れているという免罪符がある。
ここぞとばかりに颯月の滑らかな頬を堪能していると、ふとハーフアップに結われた髪から落ちた横髪が目についたので、そっと彼の耳に掛けた。恐らく、先ほど乱暴に眼帯を外したせいで落ちてしまったのだろう。
彼の模様は額から右頬、顎先まで広がっているが、よく見れば、こめかみから右側頭部に向かっても同様に伸びているようだ。
(右側だけ刈り上げても似合いそう、素敵な模様があるから尚更――ていうか、何でも似合う! この顔だもの)
綾那は顔を上げると、ホクホクとした満足顔で正妃を見やった。
「もしかして何か、目的がある――? 颯月を甘言で誑かして、何かさせようとしているとか?」
「へ? いえ、そもそも私じゃあ力不足だと思いますよ。誑かされはしても、私が誑かす事はできません」
情けない事をキッパリと言い切った綾那に、正妃は思案顔になる。彼女はやがて小さく頷くと、並ぶ綾那と颯月を改めて見やった。
「綾那の気持ちは、よく分かったわ。どうか颯月を幸せにしてやって――式には必ず呼ぶのよ」
「――えっ。いやっ、それは、ちょっとできないって言うか……まず、皆が許さないと言うか……?」
「…………は? 何を言っているの? お前は颯月の婚約者でしょう? それも、素顔を見ても態度が変わらないぐらい、深く愛して――」
「い、いやいやいや! 違います、色々と!」
ブンブンと両手を振って否定する綾那に、正妃はスッと目を細めた。
そうして、気まずげに目を逸らした颯月を見やると、低い声で「説明なさい」と一言だけ告げた。
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