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第1章 奈落の底に落ちて出会う
15 力試し
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幸成は、華奢な女性を前にして大いに悩んでいた。
颯月より提案された腕相撲。
その土俵は――会議机では幅があり過ぎて難しいからと――お互い床に膝をついて、椅子の座面上で取り組む事となった。
颯月は綾那の肉付きが良いと論じていたが、まず比較対象であるこの領の女性が極端に細いのだ。
その訳は、王都に住まう婦女子にとって憧れの象徴的存在が、現国王の正妃だからである。
正妃は今年40歳になるが、街の者から怜悧な美妃だと称えられている。
アイドクレース領の人間らしく健康的に焼けた肌。癖ひとつない黒髪のストレートヘアは、年齢を感じさせない艶がある。
やや激しい気性に相応しい切れ長の釣り目に、酷薄そうな薄い唇。
全体的に細く薄い体躯は、華奢どころか風が吹いただけで倒れそうなほど頼りない。
中でも、これでもかとコルセットで締められた折れそうな腰は、領民の憧れの的である。
彼女に近付こうと無理な食事制限をする者も多いので、女性らしく柔らかそうな体というものからは縁遠い。
体質的にどうしても胸が育ちやすい者などは、「美しくない」「恥ずかしい」などと言って、布を巻いて潰すほどに徹底していると聞く。
他領から移住してきた女性は、王都の人間ほど極端ではないが――しかしこの街に長く住めば住むほど価値観が染められるのか、段々と細くなるし、胸の大きさも隠しがちになっていく。
全く、正妃の影響力は桁外れだ。
颯月は正妃と少なからず因縁があるため、彼女が苦手だという事を幸成も知っている。
とは言え、好みの女性が真逆になるほど深刻だとは思わなかった。
幸成はひとつため息をつくと、改めて椅子を隔てた正面に膝をつく女性――綾那を見やった。
確かに、何もかもが正妃とは真逆だろう。
この辺りでは珍しい白肌に、ふわふわと柔らかそうな水色の髪の毛。大きな瞳は桃色で、垂れた目尻が色っぽい。
顔に浮かぶ表情も正妃と違って弱々しいと言うか、おっとりしていると言うか――派手で華やかな顔立ちに似合わず、その性格は大人しそうだ。
中でも目を惹くのは、服の上からでも分かる豊かな胸元だろうか。
その大きさを引き立てるようにくびれた腰に、なだらかなカーブを描く尻。
外を歩くには少々露出が過ぎるのではと思う短いズボンからは、むっちりと程よく肉のついた足が伸びている。
アイドクレースの男は正妃のように細い女性を好みがちだが、確か他領では、綾那のような体の事こそ「男好きのする体」と言うのではなかったか。
「お姉さんいくつ?」
「え? 21ですけれど……」
颯月の2つ下だ。まだ若い。
一体、颯月は何を思って腕相撲なんて提案をしたのだろうか。
この応接室の中で言えば、幸成は颯月の次に腕力がある。全力で腕相撲に興じれば、彼女に怪我をさせてしまうに違いない。
スパイ疑惑がかけられているものの、本音を言えば年若い女性にそんな無体はしたくないものだ。
それにも関わらず、和巳でなくわざわざ幸成を指名した意図とは。
わざと負けて綾那に華をもたせたところで、彼女の得にはならない。
そもそも和巳には手を抜いたかどうかなど一目瞭然であるし、無意味だろう。
「なあ、颯……俺どうするべきなんだ?」
思い悩むよりも、指示を仰ぐ方が手っ取り早い。
そうして颯月を見やれば――行儀悪くも会議机に腰を下ろした彼は、その長い足を組み替えると不敵に笑った。
「どうもこうも、全力で行け。ああ、「身体強化」は使った方が良いぞ」
「は? ブ――「身体強化」を?」
「綾、アンタも遠慮しなくて良い。成は頑丈だからな」
「は、はい」
もしや颯月は、今まで彼女を泳がせていたのだろうか?
やはり綾那は他領から送られてきたスパイで、颯月は全て分かった上で逃げ場のない本部まで誘い込んだのか。
そして今、「アイドクレースを舐めればどうなるのか分からせてやれ。全力で潰せ」と、そういう事なのだろうか。
であれば、幸成としても遠慮する事はないだろう。
「ねえ、お姉さん。いいのかな、全力で」
幸成は念のために問いかけた。
問いかけと言っても、最早「例え怪我をさせても恨んでくれるなよ」という念押しに近い。
スパイならば言葉の意味くらい正確に読み取れるだろう。彼女の目を真っ直ぐに見やって、口元だけの笑みを浮かべてやる。
問題の綾那はと言うと、どこか困ったように微笑んで小さく頷いた。
真意はどうであれ、確かに颯月が気に入るだけの事はある。それほどに彼女は美しい。
ただ、それが何だと言うのか。スパイ疑惑の晴れない女を、颯月の傍に置いておく事などできないのだ。
しかし、やはり見た目通りに柔らかい綾那の手と組み合うと、幸成はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
せめて「身体強化」だけは使わずにおこうと決めて、勝負開始の合図を待つ事にする。
◆
綾那は、目の前の男――幸成を見た。
颯月よりも少し短い黒髪は癖ひとつなく、硬そうだ。恐らく綾那よりも年下で、まだ十代ではないだろうか?
颯月とは方向性が違うものの、十分に整った顔立ちをしていると思う。
全体的に軽薄そうな雰囲気だが、人懐っこい笑顔を浮かべる人だ。まあその割に、綾那を見る目は一切笑っていないのだが。
射貫く様な鋭い瞳は美しい金色で、四重奏のメンバーを思い起こさせる。
(渚と同じ色)
キューには、辛くなるだけだからメンバーの事はなるべく考えないように、と言われていたが――どうしても考えてしまう。
綾那自身、手放しに無事とは言い難い状況なのだ。彼女らは今頃、どこで何をしているのだろうか?
ヴェゼルのような、勝ち目のない敵に襲われていなければ良いのだが。
やや思考がずれてしまったが、綾那は幸成に手を組まれた事で我に返る。
剣ダコが多いのか、大きな手は硬くて皮も分厚い。確かに颯月の言う通り頑丈そうだ。
組み合った時の感覚からして、「怪力」のレベル1では勝負にならないかも知れない。
とは言え、明らかに油断している様子の幸成相手に、最初から飛ばして怪我をさせては大変だ。
(ひとまず、レベル1で様子を見てみようか)
やや悩んだものの、勝ち負けの前に腕っぷしの強さだけ示せればいいのだ。
どうせすぐにレベル2まで引き上げられる状態なのだから、焦る事もないだろう。
綾那は意を決すると、小さく息を吐いた。
「では、いずれかの手の甲が座面についた時点で終わり、という事でよろしいですか」
綾那と幸成の間に立つ和巳の言葉に、二人は手を組んだまま頷いた。
組まれた手の上に和巳の手が重なって、「始め!」と開始の掛け声が上がるのと同時に、それが外される。
綾那は初めから現時点で使える分の最大の力を出して、幸成の腕を傾けにかかる。
「ハ――? ぐ……ッ!?」
思いがけず力の強い綾那に、虚を突かれたような声を漏らす幸成。
しかし、すぐさま我に返ると、あっという間に己の腕をスタート位置まで戻した。
そうして即座に体勢を立て直すと、綾那の腕を沈めようと一気に力を強める。
(わあ、やっぱり強い……うん、レベル2でも平気そうだね!)
「ッ……、オイ、ちょっと!? 待っ……!」
「幸成? 何を遊んでいるんですか」
「遊……っ、違う、待て待て、違う、コレは……ッ!」
レベル2まで引き上げた綾那は、まるで幸成の限界を探るように、徐々に力を込めていった。
苦しげに歪んだ表情に、ぷるぷると震える幸成の腕。
対する綾那は自身の腕力ではなく、あくまでもギフトを発動しているだけ。その涼しげな表情が歪む事はなく、腕の震えも一切ない。
まさか、幸成が何かおかしな忖度をしているのではないかと、和巳は訝しむような表情で彼を見やった。
真剣勝負をしているにも関わらず妙な疑いを掛けられた幸成としては、堪ったものではないだろう。
そうこうしている間にも、幸成の震える腕がゆっくりとだが確実に座面へ近づいていく。焦りの表情を浮かべた幸成は、声を張り上げた。
「お、おい、颯ッ! 「身体強化」! 使って良いんだよな!?」
「だから言っただろう、最初から使った方が良いって」
笑い交じりに告げられた颯月の言葉に、幸成は大きく頷いた。
そして、口早に魔法の詠唱らしき言葉を紡ぎ始める。
「は――、爆ぜろ、緋色の炎! 熱き焔を我が身に宿せ、「身体強化」!」
「っわ、あ……っ!?」
詠唱を終えると同時に、一瞬幸成の体が光に包まれた。すると、いきなり彼の力が増した。
先ほどまで「怪力」の力を刻んでいた綾那だったが、己の手の甲が座面スレスレまで倒された事に焦ると、慌ててレベル2で使える最大の力を出す。
しかし、それでも腕をスタート位置まで戻す事はできない。
互いの力は拮抗するように、進みも退きもせず、完全に動きを止めてしまった。
体を強化するらしい魔法込みとは言え、「怪力」のギフトもち相手にここまで張り合えるなど、幸成は相当な膂力をもっている。
綾那は握り合った震える拳を見ながら、素直に感心した。「表」ではまず会えないタイプの人間だ、と。
ただ困った事に、相手が生身の人間である以上、綾那はもう「怪力」のレベルを上げられない。レベル3以上にすると、怪我云々の話では済まないからだ。
幸成が疲れるのが先か、それとも綾那が疲れてレベル2を保てなくなるのが先か――ここから先は根比べである。
「幸成、まさか貴方……本気なのですか?」
「~~っはァあ!? 俺が、本気出して、女の子に負ける訳、ねえだろ!? こっからだ、こっからァ……ッ!!」
「いえ、しかし……見たところ、「身体強化」を使っても勝てそうにないんですけれど……」
「るッせえ、まだ手ェついてねえだろうが! 邪魔すんな!!」
半ば叫びに近い怒声を上げながら、幸成は己の全てを絞り出すように腕に力を込めた。
僅かに綾那の腕が傾きを大きくしたものの、しかし座面につくまでは至らない。
(うーん、どうしよう。もう力は示せただろうし、そろそろ負けちゃっても……)
すっかり止め時を失った綾那が、そんな事を考え始めたその瞬間。
2人が肘を置く土俵――椅子の座面が、みしりと鈍い音を立てた。
(こっ、壊れちゃう!?)
綾那はびくりと体を揺らすと、思わず「怪力」を解除した。
それと同時に、綾那の手の甲は座面のクッションへ勢いよく沈められる。
ただ、ダァン! と大きく響いた音の割に、綾那の手に痛みはなかった。
「そこまで!」
「――ッシャオラアァア!!! 見たか、和巳ィ!!」
「…………はあ、まあ」
幸成は、勝敗が決すると同時に勢いよく立ち上がった。
そうして両腕を掲げると、大きなガッツポーズをしながら声高に吠える。
そんな幸成に対して、和巳は黙って胡乱な目を向けた。
その瞳は、「女性相手にそんなにはしゃいで、恥ずかしくないのか? お前」と物語っているようだ。
綾那は椅子の座面が壊れていないかの確認をしてから、ゆるゆると立ち上がった。
すかさず竜禅が、僅かに膝を折って彼女の顔を覗き込む。
「怪我は?」
「あ、いえ、ありません!」
ぶんぶんと両手を振って微笑む綾那を見て、竜禅は口元に笑みを湛えて頷いた。
一連のやりとりを眺めていた颯月は、パンと拍手を打って机から立ち上がる。
「これで分かっただろう? 魔法が使えない分、悪魔相手には無力だろうが――恐らく、普通の眷属や魔物が相手なら遅れをとらない」
「いや、そうだ! お姉さんの体、どうなってんの!?」
「え、ちょっと……フフ、くすぐったいです」
ハッと思い出したような顔をした幸成は、綾那の元へ駆け寄ると、その二の腕を無遠慮に掴んで揉んだ。
しかし返ってくるのは柔らかい感触だけだ。決して体を鍛えている訳ではなく、あくまでもギフト頼りで生きているのだから。
「まさか、実は「お兄さん」なんて事は――いや、正直このツラなら、例え男だとしてもイケそうだけどよ……!?」
「こ、コラ幸成、お相手は女性なんですよ、無闇に触らない!」
慌てて幸成を羽交い絞めにした和巳は、彼を綾那から引き離した。
騎士の様子に、颯月は「俺も初め見た時はそうだった」と笑って、言葉を続ける。
「法律が改正されるまで、公に戦闘の参加を許す訳にはいかないが――綾なら広報として、巡回にも連れて行けるだろう?」
「あの……先ほども仰っていましたが、許可を取らないと戦ってはいけない法律があるんですか?」
「ああ、この国は問題を抱えているって言っただろ? まあ、詳しい話は追々な。――で、どうなんだ成、和? そもそも存在しない事を証明するのは何よりも難しい。綾の容疑は解けたのか?」
颯月の問いかけに、幸成と和巳の二人は顔を見合わせた。
そうしてまず口を開いたのは和巳だ。
「もう颯月様の中では、決まっているのでしょう?」
「そうだな」
「であれば、私は颯月様の安全を守るため、己の目で彼女を見極めようと思います。先ほどの、魔法とは違う力――アレを目にした今、彼女がこの国の人間でない事は理解しました。綾那さんには窮屈な思いをさせるでしょうが、しばらくの間は我々の目の届く場所に留まっていて欲しいと思います」
中性的な顔立ちと柔らかな喋り方に反して、ぴくりとも笑わない和巳だったが、意外と綾那の事を気遣ってくれているらしい。
気付けば和巳の青い瞳からは、綾那を追及する厳しさ、冷たさが薄れている。
確かに彼らの世話になる以上、スパイ容疑の晴れない綾那が窮屈な思いをするのは避けられないだろう。
けれど命の保証さえ得られるならば、そんなことは些事である。
そして残りは、幸成の意見のみ。
綾那がちらりと窺うように見やれば、彼は難しい顔をして見返してきた。
「俺も……やっぱり、様子を見た方がいいと思う。ただ、少なくとも俺と和巳が見極め終わるまでは、お姉さんには颯に近付いて欲しくない」
「何? 俺が綾に近付くのは?」
「却下に決まってるだろ、何ガキみたいな屁理屈言ってんだ?」
「オイ、何だよ? 綾を拾ってきたのは俺だぞ、俺に世話をさせるのが道理だろうが」
「颯月様、もしかして彼女のこと犬猫に見えてますか?」
子供のようなむくれ顔で「そんな訳あるか、どこからどう見ても女だろう」と言う颯月に、和巳は頭痛を堪えるような顔でこめかみを押さえた。
幸成もまたその隣で大きな息を吐き出した後に、疲れた様子で口を開く。
「颯、少しは自分の立場を考えてくれよ。別に、一生会わせないって言ってる訳じゃあないんだから、しばらく我慢してくれ。ちょっとらしくないぜ、颯? お姉さんの力が魔法じゃないって言うなら、それこそ「魅了」どころかもっととんでもない、未知の洗脳能力をもっていてもおかしくないだろ?」
未知の洗脳能力。
アリスの「偶像」なんかは、正にその類と言えるかも知れない。
きっと幸成含めこの応接室に居る騎士は、偉い立場の割にざっくばらんな性格の颯月に、ブレーキをかける役目を担っているのだろう。
ここへ来る前に竜禅が「颯月様のお世話係その1」と自己紹介していた事の意味が、今ようやく理解できた気がする。
(幸成さん……様? って、若そうに見えるのにしっかりしているんだなあ……それに、この中で唯一颯月さ――まに、ずっと敬語を使っていない。たぶんこの方も偉い人なんだ)
綾那は、まだこの世界に住む一般的な人間について把握していない。
だから比較材料が「表」で言うところの、男子高校生しか居ないのだが――幸成は相当しっかりしているように見える。
見た目はともかくとして、言動だけなら颯月の方がよほど幼いかも知れない。
「正直この条件が飲めないって言うなら、お姉さんには悪いけど……マジで消えてもらった方がいいと思う。最近、東がきな臭いのは知ってるだろ? 何が起きてもおかしくないと考えるべきだ」
「オイ、いい加減にしろ。綾の前でそう何度も物騒な事を言うな。成には人の心がないのか?」
「颯にだけは、そういうまともな事言われたくないんだけどなァ、俺!?」
「とにかく……分かった。綾も良いか?」
いきなり颯月に水を向けられて、綾那は目を瞬かせた。
良いも悪いも、保護観察のような状態で仕事も与えてもらえないとなると――自分がやるべき事が、イマイチ分からないのだ。
「あの、結局私は、ここで何をすれば良いのでしょうか……?」
「何も。成と和はアンタの面接を入念にしたいらしいからな、当分の間ここで生活していれば良い。面接が続く以上今すぐ仕事は渡せないが、衣食住だけは保証する」
「えっ、そういう訳には……! 私しか得しないですよね、それ?」
「そうは言っても……聞いておいてなんだが、今の綾に他の選択肢はないぞ? 疑惑が晴れるまで仕事は渡せないし、何かもうアンタもう、タダじゃここから逃げられないらしいからな」
「ら、らしいってソレ、颯月さ――まが、言いますか?」
綾那が『様』と呼んだ事に颯月は僅かに眉を寄せたが、しかし気を取り直すように頭を振った。
そして、「とりあえず今は頷いておけ。得しかないと言っても、結果次第じゃ消されるリスクもある訳だから、実質プラマイゼロだろ?」と続けた。
その言葉に、綾那は「アレ、言われてみればそうかも知れないぞ」とすんなり納得する。
他に選択肢はないとまで断言された以上、ここで変にごねても仕方がない。
躊躇いがちに頷いた綾那を見て、颯月は満足そうな笑みを浮かべた。
「禅、綾を部屋へ案内してやれ。魔石をひとつ渡して、使い方の説明も頼む。ああ、後で着替えも持って行かせるからな」
「着替えですか……? いえ、かしこまりました。綾那殿、こちらへ」
「は、はい! えっと、皆さんよろしくお願いいたします!」
綾那は騎士に頭を下げてから、応接室の扉前で待つ竜禅の元へ駆け寄った。
応接室から出て扉を閉めるために振り返ると、颯月から「綾」と呼ばれて顔を上げる。
そして、だいぶ見慣れたからとすっかり油断していた事を、激しく後悔した。
「おやすみ」
「ッヅ……! おやずみなざい゛ッ……!」
小首を傾げて微笑む颯月の顔の神々しさと言ったら、それはもう殺人級の威力を発揮する美しさだった。
やはり彼は神だったのだ。
綾那は唇を噛みしめて、喉の奥から絞り出した震える声で何とか挨拶を返すと、そっと扉を閉じた。
そうして震えながら振り返ると、背後に立つ竜禅が無言でこちらを見ていた。
仮面のせいで表情は分からないが、何やら生暖かい視線を送られている気がする。
「颯月様に魅了されていると言うのは、真実らしいな」
言いながら歩き出した竜禅の後に続いたものの、またもや図星を突かれた綾那は、ぐうと喉を鳴らす事しかできなかった。
颯月より提案された腕相撲。
その土俵は――会議机では幅があり過ぎて難しいからと――お互い床に膝をついて、椅子の座面上で取り組む事となった。
颯月は綾那の肉付きが良いと論じていたが、まず比較対象であるこの領の女性が極端に細いのだ。
その訳は、王都に住まう婦女子にとって憧れの象徴的存在が、現国王の正妃だからである。
正妃は今年40歳になるが、街の者から怜悧な美妃だと称えられている。
アイドクレース領の人間らしく健康的に焼けた肌。癖ひとつない黒髪のストレートヘアは、年齢を感じさせない艶がある。
やや激しい気性に相応しい切れ長の釣り目に、酷薄そうな薄い唇。
全体的に細く薄い体躯は、華奢どころか風が吹いただけで倒れそうなほど頼りない。
中でも、これでもかとコルセットで締められた折れそうな腰は、領民の憧れの的である。
彼女に近付こうと無理な食事制限をする者も多いので、女性らしく柔らかそうな体というものからは縁遠い。
体質的にどうしても胸が育ちやすい者などは、「美しくない」「恥ずかしい」などと言って、布を巻いて潰すほどに徹底していると聞く。
他領から移住してきた女性は、王都の人間ほど極端ではないが――しかしこの街に長く住めば住むほど価値観が染められるのか、段々と細くなるし、胸の大きさも隠しがちになっていく。
全く、正妃の影響力は桁外れだ。
颯月は正妃と少なからず因縁があるため、彼女が苦手だという事を幸成も知っている。
とは言え、好みの女性が真逆になるほど深刻だとは思わなかった。
幸成はひとつため息をつくと、改めて椅子を隔てた正面に膝をつく女性――綾那を見やった。
確かに、何もかもが正妃とは真逆だろう。
この辺りでは珍しい白肌に、ふわふわと柔らかそうな水色の髪の毛。大きな瞳は桃色で、垂れた目尻が色っぽい。
顔に浮かぶ表情も正妃と違って弱々しいと言うか、おっとりしていると言うか――派手で華やかな顔立ちに似合わず、その性格は大人しそうだ。
中でも目を惹くのは、服の上からでも分かる豊かな胸元だろうか。
その大きさを引き立てるようにくびれた腰に、なだらかなカーブを描く尻。
外を歩くには少々露出が過ぎるのではと思う短いズボンからは、むっちりと程よく肉のついた足が伸びている。
アイドクレースの男は正妃のように細い女性を好みがちだが、確か他領では、綾那のような体の事こそ「男好きのする体」と言うのではなかったか。
「お姉さんいくつ?」
「え? 21ですけれど……」
颯月の2つ下だ。まだ若い。
一体、颯月は何を思って腕相撲なんて提案をしたのだろうか。
この応接室の中で言えば、幸成は颯月の次に腕力がある。全力で腕相撲に興じれば、彼女に怪我をさせてしまうに違いない。
スパイ疑惑がかけられているものの、本音を言えば年若い女性にそんな無体はしたくないものだ。
それにも関わらず、和巳でなくわざわざ幸成を指名した意図とは。
わざと負けて綾那に華をもたせたところで、彼女の得にはならない。
そもそも和巳には手を抜いたかどうかなど一目瞭然であるし、無意味だろう。
「なあ、颯……俺どうするべきなんだ?」
思い悩むよりも、指示を仰ぐ方が手っ取り早い。
そうして颯月を見やれば――行儀悪くも会議机に腰を下ろした彼は、その長い足を組み替えると不敵に笑った。
「どうもこうも、全力で行け。ああ、「身体強化」は使った方が良いぞ」
「は? ブ――「身体強化」を?」
「綾、アンタも遠慮しなくて良い。成は頑丈だからな」
「は、はい」
もしや颯月は、今まで彼女を泳がせていたのだろうか?
やはり綾那は他領から送られてきたスパイで、颯月は全て分かった上で逃げ場のない本部まで誘い込んだのか。
そして今、「アイドクレースを舐めればどうなるのか分からせてやれ。全力で潰せ」と、そういう事なのだろうか。
であれば、幸成としても遠慮する事はないだろう。
「ねえ、お姉さん。いいのかな、全力で」
幸成は念のために問いかけた。
問いかけと言っても、最早「例え怪我をさせても恨んでくれるなよ」という念押しに近い。
スパイならば言葉の意味くらい正確に読み取れるだろう。彼女の目を真っ直ぐに見やって、口元だけの笑みを浮かべてやる。
問題の綾那はと言うと、どこか困ったように微笑んで小さく頷いた。
真意はどうであれ、確かに颯月が気に入るだけの事はある。それほどに彼女は美しい。
ただ、それが何だと言うのか。スパイ疑惑の晴れない女を、颯月の傍に置いておく事などできないのだ。
しかし、やはり見た目通りに柔らかい綾那の手と組み合うと、幸成はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
せめて「身体強化」だけは使わずにおこうと決めて、勝負開始の合図を待つ事にする。
◆
綾那は、目の前の男――幸成を見た。
颯月よりも少し短い黒髪は癖ひとつなく、硬そうだ。恐らく綾那よりも年下で、まだ十代ではないだろうか?
颯月とは方向性が違うものの、十分に整った顔立ちをしていると思う。
全体的に軽薄そうな雰囲気だが、人懐っこい笑顔を浮かべる人だ。まあその割に、綾那を見る目は一切笑っていないのだが。
射貫く様な鋭い瞳は美しい金色で、四重奏のメンバーを思い起こさせる。
(渚と同じ色)
キューには、辛くなるだけだからメンバーの事はなるべく考えないように、と言われていたが――どうしても考えてしまう。
綾那自身、手放しに無事とは言い難い状況なのだ。彼女らは今頃、どこで何をしているのだろうか?
ヴェゼルのような、勝ち目のない敵に襲われていなければ良いのだが。
やや思考がずれてしまったが、綾那は幸成に手を組まれた事で我に返る。
剣ダコが多いのか、大きな手は硬くて皮も分厚い。確かに颯月の言う通り頑丈そうだ。
組み合った時の感覚からして、「怪力」のレベル1では勝負にならないかも知れない。
とは言え、明らかに油断している様子の幸成相手に、最初から飛ばして怪我をさせては大変だ。
(ひとまず、レベル1で様子を見てみようか)
やや悩んだものの、勝ち負けの前に腕っぷしの強さだけ示せればいいのだ。
どうせすぐにレベル2まで引き上げられる状態なのだから、焦る事もないだろう。
綾那は意を決すると、小さく息を吐いた。
「では、いずれかの手の甲が座面についた時点で終わり、という事でよろしいですか」
綾那と幸成の間に立つ和巳の言葉に、二人は手を組んだまま頷いた。
組まれた手の上に和巳の手が重なって、「始め!」と開始の掛け声が上がるのと同時に、それが外される。
綾那は初めから現時点で使える分の最大の力を出して、幸成の腕を傾けにかかる。
「ハ――? ぐ……ッ!?」
思いがけず力の強い綾那に、虚を突かれたような声を漏らす幸成。
しかし、すぐさま我に返ると、あっという間に己の腕をスタート位置まで戻した。
そうして即座に体勢を立て直すと、綾那の腕を沈めようと一気に力を強める。
(わあ、やっぱり強い……うん、レベル2でも平気そうだね!)
「ッ……、オイ、ちょっと!? 待っ……!」
「幸成? 何を遊んでいるんですか」
「遊……っ、違う、待て待て、違う、コレは……ッ!」
レベル2まで引き上げた綾那は、まるで幸成の限界を探るように、徐々に力を込めていった。
苦しげに歪んだ表情に、ぷるぷると震える幸成の腕。
対する綾那は自身の腕力ではなく、あくまでもギフトを発動しているだけ。その涼しげな表情が歪む事はなく、腕の震えも一切ない。
まさか、幸成が何かおかしな忖度をしているのではないかと、和巳は訝しむような表情で彼を見やった。
真剣勝負をしているにも関わらず妙な疑いを掛けられた幸成としては、堪ったものではないだろう。
そうこうしている間にも、幸成の震える腕がゆっくりとだが確実に座面へ近づいていく。焦りの表情を浮かべた幸成は、声を張り上げた。
「お、おい、颯ッ! 「身体強化」! 使って良いんだよな!?」
「だから言っただろう、最初から使った方が良いって」
笑い交じりに告げられた颯月の言葉に、幸成は大きく頷いた。
そして、口早に魔法の詠唱らしき言葉を紡ぎ始める。
「は――、爆ぜろ、緋色の炎! 熱き焔を我が身に宿せ、「身体強化」!」
「っわ、あ……っ!?」
詠唱を終えると同時に、一瞬幸成の体が光に包まれた。すると、いきなり彼の力が増した。
先ほどまで「怪力」の力を刻んでいた綾那だったが、己の手の甲が座面スレスレまで倒された事に焦ると、慌ててレベル2で使える最大の力を出す。
しかし、それでも腕をスタート位置まで戻す事はできない。
互いの力は拮抗するように、進みも退きもせず、完全に動きを止めてしまった。
体を強化するらしい魔法込みとは言え、「怪力」のギフトもち相手にここまで張り合えるなど、幸成は相当な膂力をもっている。
綾那は握り合った震える拳を見ながら、素直に感心した。「表」ではまず会えないタイプの人間だ、と。
ただ困った事に、相手が生身の人間である以上、綾那はもう「怪力」のレベルを上げられない。レベル3以上にすると、怪我云々の話では済まないからだ。
幸成が疲れるのが先か、それとも綾那が疲れてレベル2を保てなくなるのが先か――ここから先は根比べである。
「幸成、まさか貴方……本気なのですか?」
「~~っはァあ!? 俺が、本気出して、女の子に負ける訳、ねえだろ!? こっからだ、こっからァ……ッ!!」
「いえ、しかし……見たところ、「身体強化」を使っても勝てそうにないんですけれど……」
「るッせえ、まだ手ェついてねえだろうが! 邪魔すんな!!」
半ば叫びに近い怒声を上げながら、幸成は己の全てを絞り出すように腕に力を込めた。
僅かに綾那の腕が傾きを大きくしたものの、しかし座面につくまでは至らない。
(うーん、どうしよう。もう力は示せただろうし、そろそろ負けちゃっても……)
すっかり止め時を失った綾那が、そんな事を考え始めたその瞬間。
2人が肘を置く土俵――椅子の座面が、みしりと鈍い音を立てた。
(こっ、壊れちゃう!?)
綾那はびくりと体を揺らすと、思わず「怪力」を解除した。
それと同時に、綾那の手の甲は座面のクッションへ勢いよく沈められる。
ただ、ダァン! と大きく響いた音の割に、綾那の手に痛みはなかった。
「そこまで!」
「――ッシャオラアァア!!! 見たか、和巳ィ!!」
「…………はあ、まあ」
幸成は、勝敗が決すると同時に勢いよく立ち上がった。
そうして両腕を掲げると、大きなガッツポーズをしながら声高に吠える。
そんな幸成に対して、和巳は黙って胡乱な目を向けた。
その瞳は、「女性相手にそんなにはしゃいで、恥ずかしくないのか? お前」と物語っているようだ。
綾那は椅子の座面が壊れていないかの確認をしてから、ゆるゆると立ち上がった。
すかさず竜禅が、僅かに膝を折って彼女の顔を覗き込む。
「怪我は?」
「あ、いえ、ありません!」
ぶんぶんと両手を振って微笑む綾那を見て、竜禅は口元に笑みを湛えて頷いた。
一連のやりとりを眺めていた颯月は、パンと拍手を打って机から立ち上がる。
「これで分かっただろう? 魔法が使えない分、悪魔相手には無力だろうが――恐らく、普通の眷属や魔物が相手なら遅れをとらない」
「いや、そうだ! お姉さんの体、どうなってんの!?」
「え、ちょっと……フフ、くすぐったいです」
ハッと思い出したような顔をした幸成は、綾那の元へ駆け寄ると、その二の腕を無遠慮に掴んで揉んだ。
しかし返ってくるのは柔らかい感触だけだ。決して体を鍛えている訳ではなく、あくまでもギフト頼りで生きているのだから。
「まさか、実は「お兄さん」なんて事は――いや、正直このツラなら、例え男だとしてもイケそうだけどよ……!?」
「こ、コラ幸成、お相手は女性なんですよ、無闇に触らない!」
慌てて幸成を羽交い絞めにした和巳は、彼を綾那から引き離した。
騎士の様子に、颯月は「俺も初め見た時はそうだった」と笑って、言葉を続ける。
「法律が改正されるまで、公に戦闘の参加を許す訳にはいかないが――綾なら広報として、巡回にも連れて行けるだろう?」
「あの……先ほども仰っていましたが、許可を取らないと戦ってはいけない法律があるんですか?」
「ああ、この国は問題を抱えているって言っただろ? まあ、詳しい話は追々な。――で、どうなんだ成、和? そもそも存在しない事を証明するのは何よりも難しい。綾の容疑は解けたのか?」
颯月の問いかけに、幸成と和巳の二人は顔を見合わせた。
そうしてまず口を開いたのは和巳だ。
「もう颯月様の中では、決まっているのでしょう?」
「そうだな」
「であれば、私は颯月様の安全を守るため、己の目で彼女を見極めようと思います。先ほどの、魔法とは違う力――アレを目にした今、彼女がこの国の人間でない事は理解しました。綾那さんには窮屈な思いをさせるでしょうが、しばらくの間は我々の目の届く場所に留まっていて欲しいと思います」
中性的な顔立ちと柔らかな喋り方に反して、ぴくりとも笑わない和巳だったが、意外と綾那の事を気遣ってくれているらしい。
気付けば和巳の青い瞳からは、綾那を追及する厳しさ、冷たさが薄れている。
確かに彼らの世話になる以上、スパイ容疑の晴れない綾那が窮屈な思いをするのは避けられないだろう。
けれど命の保証さえ得られるならば、そんなことは些事である。
そして残りは、幸成の意見のみ。
綾那がちらりと窺うように見やれば、彼は難しい顔をして見返してきた。
「俺も……やっぱり、様子を見た方がいいと思う。ただ、少なくとも俺と和巳が見極め終わるまでは、お姉さんには颯に近付いて欲しくない」
「何? 俺が綾に近付くのは?」
「却下に決まってるだろ、何ガキみたいな屁理屈言ってんだ?」
「オイ、何だよ? 綾を拾ってきたのは俺だぞ、俺に世話をさせるのが道理だろうが」
「颯月様、もしかして彼女のこと犬猫に見えてますか?」
子供のようなむくれ顔で「そんな訳あるか、どこからどう見ても女だろう」と言う颯月に、和巳は頭痛を堪えるような顔でこめかみを押さえた。
幸成もまたその隣で大きな息を吐き出した後に、疲れた様子で口を開く。
「颯、少しは自分の立場を考えてくれよ。別に、一生会わせないって言ってる訳じゃあないんだから、しばらく我慢してくれ。ちょっとらしくないぜ、颯? お姉さんの力が魔法じゃないって言うなら、それこそ「魅了」どころかもっととんでもない、未知の洗脳能力をもっていてもおかしくないだろ?」
未知の洗脳能力。
アリスの「偶像」なんかは、正にその類と言えるかも知れない。
きっと幸成含めこの応接室に居る騎士は、偉い立場の割にざっくばらんな性格の颯月に、ブレーキをかける役目を担っているのだろう。
ここへ来る前に竜禅が「颯月様のお世話係その1」と自己紹介していた事の意味が、今ようやく理解できた気がする。
(幸成さん……様? って、若そうに見えるのにしっかりしているんだなあ……それに、この中で唯一颯月さ――まに、ずっと敬語を使っていない。たぶんこの方も偉い人なんだ)
綾那は、まだこの世界に住む一般的な人間について把握していない。
だから比較材料が「表」で言うところの、男子高校生しか居ないのだが――幸成は相当しっかりしているように見える。
見た目はともかくとして、言動だけなら颯月の方がよほど幼いかも知れない。
「正直この条件が飲めないって言うなら、お姉さんには悪いけど……マジで消えてもらった方がいいと思う。最近、東がきな臭いのは知ってるだろ? 何が起きてもおかしくないと考えるべきだ」
「オイ、いい加減にしろ。綾の前でそう何度も物騒な事を言うな。成には人の心がないのか?」
「颯にだけは、そういうまともな事言われたくないんだけどなァ、俺!?」
「とにかく……分かった。綾も良いか?」
いきなり颯月に水を向けられて、綾那は目を瞬かせた。
良いも悪いも、保護観察のような状態で仕事も与えてもらえないとなると――自分がやるべき事が、イマイチ分からないのだ。
「あの、結局私は、ここで何をすれば良いのでしょうか……?」
「何も。成と和はアンタの面接を入念にしたいらしいからな、当分の間ここで生活していれば良い。面接が続く以上今すぐ仕事は渡せないが、衣食住だけは保証する」
「えっ、そういう訳には……! 私しか得しないですよね、それ?」
「そうは言っても……聞いておいてなんだが、今の綾に他の選択肢はないぞ? 疑惑が晴れるまで仕事は渡せないし、何かもうアンタもう、タダじゃここから逃げられないらしいからな」
「ら、らしいってソレ、颯月さ――まが、言いますか?」
綾那が『様』と呼んだ事に颯月は僅かに眉を寄せたが、しかし気を取り直すように頭を振った。
そして、「とりあえず今は頷いておけ。得しかないと言っても、結果次第じゃ消されるリスクもある訳だから、実質プラマイゼロだろ?」と続けた。
その言葉に、綾那は「アレ、言われてみればそうかも知れないぞ」とすんなり納得する。
他に選択肢はないとまで断言された以上、ここで変にごねても仕方がない。
躊躇いがちに頷いた綾那を見て、颯月は満足そうな笑みを浮かべた。
「禅、綾を部屋へ案内してやれ。魔石をひとつ渡して、使い方の説明も頼む。ああ、後で着替えも持って行かせるからな」
「着替えですか……? いえ、かしこまりました。綾那殿、こちらへ」
「は、はい! えっと、皆さんよろしくお願いいたします!」
綾那は騎士に頭を下げてから、応接室の扉前で待つ竜禅の元へ駆け寄った。
応接室から出て扉を閉めるために振り返ると、颯月から「綾」と呼ばれて顔を上げる。
そして、だいぶ見慣れたからとすっかり油断していた事を、激しく後悔した。
「おやすみ」
「ッヅ……! おやずみなざい゛ッ……!」
小首を傾げて微笑む颯月の顔の神々しさと言ったら、それはもう殺人級の威力を発揮する美しさだった。
やはり彼は神だったのだ。
綾那は唇を噛みしめて、喉の奥から絞り出した震える声で何とか挨拶を返すと、そっと扉を閉じた。
そうして震えながら振り返ると、背後に立つ竜禅が無言でこちらを見ていた。
仮面のせいで表情は分からないが、何やら生暖かい視線を送られている気がする。
「颯月様に魅了されていると言うのは、真実らしいな」
言いながら歩き出した竜禅の後に続いたものの、またもや図星を突かれた綾那は、ぐうと喉を鳴らす事しかできなかった。
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