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第1章 奈落の底に落ちて出会う

11 王都アイドクレース

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「――分かった、アンタの国と文化が違うんだ」

 颯月が繰り出した衝撃の発言以降、綾那は無言で森の中を歩いた。
 もちろんその横には颯月が歩いているのだが、彼は何も答えない綾那に構わず、一方的な会話を続けている。

(何が『文化』ですか! 不倫――いや、「浮気はこの国の文化だ」とでも? さすがにナイ! とは言え、顔は良い……それは曲げようのない事実。ただ、言い換えればそれだけだもの)

 このまま颯月と居ると、いつの間にか彼の愛人にされてしまいそうだ。一体それが、第何号になるのかは知らないが。

 しかし、体の一部だったとは言え、悪魔ヴェゼルを軽々ほふるような魔法を操る男から逃げるなど、並大抵の事では不可能だろう。

 奈落の底に落ちてからというもの、綾那はずっと散々な目に遭っている。
 つい数分前に撤回したばかりだが、やはりキューの祝福とやらの効果については「ちょっと良い事など起きない」と言わざるを得ない。

「綾」
「…………」
「綾?」
「……なんですか」

 颯月に何度も呼ばれて、綾那は仕方なく返事をした。
 そうして渋々隣を見やれば、思いのほか間近に立っている彼に驚いてしまう。

 やや身構えていると、颯月は背に纏うフード付きの外套を外して、代わりに綾那の肩へ掛けた。
 彼とはどうしても対格差があるため、体がすっぽりと外套に覆われる。

 颯月は綾那の鎖骨辺りで外套の留め具を付けると、続けてフードを頭に被せた。終始なんの説明もないままで、彼の目的がいまいち分からない。
 突然の事にポカンと呆けていたが、綾那はハッと我に返ると慌てて口を開いた。

「な、なんなんですか?」
「そろそろ街が近い。アンタ目立つから、中へ入るまではそれで我慢してくれ」
「目立つって……ああ、髪色が?」
「それもあるが、どちらかと言うと肌だな。綾は白すぎる」

 綾那は、目の前に立つ美丈夫の露になった顔を――まともに見る勇気はなく、その顎先を見て「一体この人は何を言っているんだ」と首を傾げた。

「お言葉ですが、颯月さんの肌も白いと思いますけど……」
「だから……ただでさえ俺が人目を引くのに、アンタまで肌を見せていたら余計に目立つだろ。異大陸出身のアンタには分からないだろうが、アイドクレースは年中温暖な気候に恵まれている。つまり、王都は日に焼けたヤツが多い」
「ああ確かに、初夏にしては随分温かいなと……」
「白肌の人間は、ほぼ間違いなく多領の人間だ。通行証をもたない他領の人間を夜中に連れ込もうとすれば、さすがに訳アリだとバレる。いくら俺でも足止めを食らうし、門番にアンタの身元を探られちまうと面倒だ――そうなれば、身元不明のアンタは街へ入れなくなる」

 颯月の説明に、綾那はまた首を傾げる。

「颯月さんは?」
「……俺は、アイドクレース生まれのアイドクレース育ちだ。ただ、どうも体質的に焼けにくいらしい。周りに揃えて焼こうと試した事もあるが、餓鬼の時分に無駄だと分かって諦めた」
「あら、私と一緒……いえ、そうですね。ひとまず理解しました」

 綾那は素直に頷くと、フードを目深に被ったまま慎重に歩を進める。
 視界が狭まった分、やや歩みが覚束おぼつかない。しかし、颯月と話している内に森を抜けていたようだ。

 彼が纏っていた時は膝裏ほどの長さだった外套の裾が、綾那の足首まで届いている。
 歩くたび両足に纏わりついて、身体のラインも何も分からないほどゆったりとした外套に、段々と落ち着かない気持ちになってきた。

(目立つって言うなら我慢するしかないけど、ちょっと暑い……それに、こういう恰好は落ち着かない)

 綾那は人よりも太りやすい。
 四重奏カルテットの保護者兼師の厳しい体形管理の下、なんとかスタイルを維持していたくらいだ。

 一般人であれば、多少ふくよかな体形だろうと個人の自由であるが――もちろん健康面を考慮するならば、太り過ぎには注意したい――綾那は『素人』とは言え、四重奏として人前に出る仕事をしていた。

 曲がりなりにも有名人で、人前に立つ仕事をする綾那が体形を崩して良いはずがない。
 しかも、ただでさえ四重奏は痩せ気味のメンバーで構成されている。
 綾那だって身長を考えれば十分細身なのだが、極端に華奢なメンバーに囲まれると相対的に太く見られやすいのだ。

 体系管理を怠れば悪目立ちする上に、四重奏のファンも――そしてアンチまで荒れてしまう。

 四重奏の師も彼女らと同じく神子みこで、複数のギフトを所持していた。
 その中の一つが綾那と同じ「怪力ストレングス」なのだが、実は綾那は過去、好物のケーキを食べ過ぎて太った事がある。

 今まで着ていた服を綺麗に着こなせなくなった事に、焦りを覚えた綾那は――まるで、崩れた体形を隠すように――ゆったりとした服を着て、数か月に1度ある師の体術講習を受けに行った。

 その際、師は「痩せる努力をする前から服でカバーしようなんて甘えた考えの子は、全身全霊で尻叩きの刑に処すけど……いいの?」と言って、おもむろに「怪力」を発動させた。
 そうして、綾那の目の前にぶら下がるサンドバックをビンタ1発で天井から千切り飛ばすと、その革を弾けさせて、演習場にちょっとした砂場を作り上げたのだ。

 綾那は「私もこのままだと、師匠にビンタされてのでは?」と震え上がった。
 その後、激しい運動と厳しい食事制限を行って、短期間で体形を戻した綾那は――師に「私は問題ない」と証明するかの如く、体のラインがはっきりと分かるようなものや、肌の露出が多い服装しかできなくなってしまったのである。

(こんな恰好見たら、師匠は何て言うだろう)

 その事件がトラウマになっているせいで、綾那は肌に布が纏わりつく感覚が苦手なのだ。
 こうして体のラインを隠すような服装を強いられる時は、そわそわと落ち着きがなくなってしまう。

 まあ、そもそも奈落の底に師が居るはずがないので、杞憂も良いところなのだが。

「綾、ついたぞ」

 颯月に声を掛けられて、綾那はパッと顔を上げる。
 フードが邪魔をしてよく見えないが、気付けばすぐそこまで街の灯りが迫っていた。

 白を基調とした高い壁に、ぐるりと囲まれた巨大な街。その壁には、等間隔でいくつもの明かりが灯されている。
 恐らく金属製であろう重厚な門扉は固く閉ざされており、その前には見張りらしき男が2人。

 あれがきっと、通行証を確認する門番なのだろう。

 外からでは壁に阻まれて、アイドクレースの街並みを確認できない。
 しかし、きっと王様が住む屋敷だろうと思われる――と言うよりも、まるで城のように見えるが――背の高い建物の屋根だけは視認できた。

「綾は門番に声を掛けられても話さず、顔も上げるな。ただ黙って俺の後を歩く事――できるな?」
「は、はい」

 何やら、密入国しているようで緊張してくる。いや、実際密入国者に違いない。

 綾那はごくりと喉を鳴らして、ぎゅっと己の体を抱き締めるように外套を手繰り寄せた。更にフードが外れないよう、出来るだけ深く俯きながら歩く。

「うん? これは颯月様、警邏けいら巡回お疲れ様でした! 今夜は珍しくお戻りが早いですね」
「ああ、アンタらも見張りご苦労さん」

(――様?)

 こちらに気付いたらしい門番の1人が、ハキハキとした声で挨拶をしてくる。
 綾那としては、門番が颯月の事を「様」づけで呼んだのが気になったが――騎士なんてきっと、由緒正しい家柄の貴族でもなければなれないのだろう。
 綾那は一旦、疑問を頭の隅へ追いやった。

 颯月が足を止めたので、彼の後ろでじっと大人しく待つ。すると綾那の存在に気付いたもう1人の門番が、僅かに声を潜めて颯月へ問いかける。

「颯月様、そちらの方は?」
「巡回中に東の森で会った」
「なるほど、それでは通行証を拝見しても?」
「いや……実は厄介な事に巻き込まれたらしい、通行証も失くしている。悪いが今回は、俺に免じて見逃してくれないか? 責任は全て俺が――不安なら、誓約書にもサインする」
「え? い、いくら颯月様でも、それは……」
「君、外套を外してもらえますか?」

 緊張と不安で、段々と脈が速くなってくる。何やら旗色が悪いように思うけれど、ここは颯月に任せるしかない。
 綾那は彼に言われた通り、俯いたまま無言を貫き通した。

「悪いが、外せない訳がある」
「どういう事でしょうか?」
「森で眷属に襲われていたからだ――と言えば、分かるか?」
「それは……!」

 ため息交じりの颯月の言葉に、門番2人はヒュッと鋭く息を呑んだ。
 震える声で「もしや、外套の下は――」「であれば、颯月様にお任せするのが――」などと囁き合った門番は、やがて颯月に頭を下げると、門扉を開いた。

「……承知しました、どうぞお通りください」
「礼を言う、アンタ達に迷惑はかけない」
「いいえ、とんでもない。颯月様、どうかその方が平穏に過ごせるよう、お力添えをお願いいたします」
「ああ、任せときな」

 突然手の平を返したような門番の態度に、綾那は首を傾げた。
 しかし、彼らに片手を上げてさっさと門をくぐる颯月に気付くと、慌てて追いかけた。

 ややあってから背後でガシャンと金属同士がぶつかる音がして、重々しい門扉が閉じられる。

「なんだか意外と、あっさり通れちゃいましたね?」
「言っておくが、他でもないこの俺が掛け合ったからだぞ? 感謝してくれ」
「えっと、ありがたき幸せ……?」

 疑問形で感謝しつつ頭を下げれば、颯月はクッと小さく笑って綾那の腕をとる。

「その邪魔な外套を外すためにも、まずはここを離れるぞ。中に入っちまえばこっちのものだ、他領からも人が集まってくるのが王都だし……綾は目立つが、街中で過ごす分にはそう気にならないだろう」

 言いながら歩き出した颯月に引きずられて、綾那は眉をひそめる。

「そ、颯月さん。何度も言いますが、婚約者が居るにも関わらず気安く別の女性に触れるのは、感心できませんよ」
「だから、綾の住む国とは文化が違うんだ。郷に入っては郷に従えという言葉を知ってるか?」
「知ってはいますが、素直に従える事と、そうでない事があってですね。ところで、先ほど門番さんから恭しく『颯月様』と呼ばれていましたけれど、もしかして偉い貴族様か何かなんですか?」
「貴族? ……俺がそんな高貴な人間に見えるのか?」

 綾那は自由な方の手でフードを押し上げると、前を歩く颯月の背を見やった。

 騎士服の上からでも分かるほど鍛えられた体躯。
 颯月が身に纏っていた外套は綾那が使っているため、くびれた腰から肩にかけて逆三角形になっているのがよく分かる。

 真っ直ぐに伸びた背筋は、歩いている間も緩む事がない。白い飾り紐1本でハーフアップに結われた髪の毛先が、尻尾のように揺れている。

(高貴かどうかは別として、本当に颯月さんってなんなの……完璧すぎない? ああ、騎士服だけじゃなくて、他の服装も見てみたい。欲を言えば撮影会をさせて欲しい)

 口では「気安く触るな」なんて苦言を呈しておきながら、本人が見ていないからと気が緩んだらしい。
 綾那はうっとりするように、ほうと悩ましげな息を吐いた。

 スマホに颯月の姿を収めておけば、今後何か嫌な事が起きてもそれを眺めているだけで立ち直れそうな気がする。
 婚約者をもつ男に恋愛感情は抱かないが、純粋な (?)ファンになるかどうかは全く別の話だ。

 歩くたびに揺れる髪をぼんやりと眺めていると、いつまで経っても問いに答えない彼女を不審に思ったのか――不意に颯月が足を止めて振り返った。

 彼と目が合って、綾那はびくりと大袈裟に肩を跳ねさせる。
 この眉目秀麗な顔をはっきりと直視したのは、森の中で颯月と問答をしていた時振りだ。

 綾那は大慌てでフードを目深に被り直すと、やや上ずった声で取り繕うように答えた。

「き、騎士って、由緒正しい家柄の方がなるイメージがあったので! 高貴かどうかは分かりませんが、颯月さんって不思議と品がありますし……」
「不思議と? ほーお、もしかして俺は喧嘩を売られたのか? いい度胸してんなぁ、綾」

 脅すような言葉とは裏腹に、随分と楽しげな表情を浮かべている颯月。
 彼は顔を正面へ戻すと、また綾那の腕を引いて歩き出した。

「リベリアスに貴族制が敷かれていたのは、もう何百年も前の話だ。王でさえ、ただ血統を繋いでいるだけの『象徴』だと言っただろう? この国には貴族も身分も存在しない。民主主義だ、民主主義」
「王様は居るのに、民主主義と言うのも不思議ですが……でも、颯月さんが偉い人なのは事実ですよね? もしかして私も、本来「颯月様」とお呼びするべきなのでは――」
「あー、いい、綾は異大陸の人間だろう。そんな些末さまつな事を気にするな、ただの騎士だぞ? 別に偉くもない」

(その割には傲岸不遜というか、人に命令し慣れている感が凄いんだけど……)

 綾那が考え込んでいると、颯月はとある建物の前で足を止めた。
 通路に面した大きなショーウィンドウの中には、黄色の膝丈ワンピースを着たマネキンが立っているので、恐らく服屋だろう。

 颯月曰く、現在の時刻は深夜帯であるらしい。しかし、そんな時間にも関わらず店内は煌々こうこうとしている。
 店先に掲げられた看板に書かれた文字は「表」で使われているのと同じで、綾那にも読めた。この店は『メゾン・ド・クレース』というらしい。

 マネキンの衣装を見たところ、深夜に開いていると言っても怪しげな服屋ではなさそうだ。

「先に用事を済ませてくる」

 ここがどういった店なのかも分からぬまま、綾那は「はあ、そうなんですね」と気の抜けた返事をした。

 颯月は綾那の外套に手を掛けると、留め具を外して外套を脱がせた。
 そうして再び己の背に纏い直して、綾那の心労を考慮してか、フードを目深に被る事も忘れない。

「――「分析アナライズ」」

 颯月はフードの下から綾那を見据えて、ぼそりと何事かを呟いた。
 何か魔法でもかけられたのだろうか。綾那が小首を傾げれば、彼は何故かグッと体を硬直させた。

 颯月はやや間を空けてから片手で口元を覆うと、ローブを被ったまま天を仰いだ。
 口元まで隠されては、彼の表情が一切分からなくなる。

「綾、アンタ――」
「どうされました? 颯月さん」
「……いや、なんでもない。創造神に感謝の意を表明したくなっただけだ」
「感謝? 神に感謝するような事が起きたんですか? 今……?」
「ああ、起きた。とにかく用を済ませてくる、悪いがアンタはここで待っていてくれ。夜中だから人通りは少ないだろうが、もし変な男に声を掛けられたら迷わず店の中へ入ってこい」
「は、はあ、承知しました」

 颯月の言動は色々と謎だが、綾那は彼の言う通りにしようと素直に頷き返した。

 ただ店の中へ入っていく颯月の背を見送りながら思うのは、この世界の創造神――キューは、割とろくでもない存在であるという事だった。
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