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第3章 瘦せウサギの奮闘

7 アルの問題

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 改めて小川を見ると、とても川じゃない感じがする。全体的に浅いんだけど、とにかく幅が広い。端っこはすごく浅くて、でも真ん中へ行くほど深くなっていて、なんだかお皿みたいな川だな。

 これはカウベリー村に居た時に知ったことだけど、川って下流に向かうほど広くなっているみたいだね。上流の方へ遡ってみると、意外と狭くて細いことのほうが多い。でも、不思議と上流の方が川の流れが速い気がする? 狭っちいくせに生意気だ。

 理由は――よく分からない。でも大雨が降って洪水が起きた次の日って、川のが水と土砂でいっぱい削られているんだ。上流よりも下流の方が丸々した転がる石ころも多いし、上から下へ色んなものが流されちゃうんだと思う。

 たぶん、そういうことが何度も繰り返されていくうちに、川の流れに沿って幅がどんどん広がって行っちゃうんじゃないのかなあ。今度またセラス母さんに聞いてみよう。

「ところで、こんな朝早くからお散歩ですか? 番人はお暇ですね」
「暇って……さすがに、この時間に森を訪ねてくる人なんて居ないわよ。ちょっとくらいお散歩したって良いでしょう?」

 魔女――レンがとった魚は全部、薄く水を張った桶に入れられている。
 僕の顔に飛んで来た魚はかなり弱っているように見えたけど、でも桶に入れると意外と元気そうで安心した。ただ、そんなに大きくない桶の中を魚が5、6匹も泳いでいるのは、ちょっと窮屈そうだ。

 レンはやっと川から上がったかと思ったら、そのままへりに腰掛けた。そしてすぐ近くに投げていたらしい大きなタオルで、濡れた足を丁寧に拭いている。
 うーん、慣れているなあ。レンが川の真ん中に浸かって太ももの真ん中まで沈むってことは――もし僕が入ったら、腰ぐらいまで沈むかも? なかなか危険だ。

 それにしても、一体何時から魚とりをしていたんだろう。セラス母さんとのやりとりを聞いた感じ、レンが朝早くに魚をとりにくるのは、そんなに珍しいことじゃないみたいだ。

「まあ、別に――この森は誰のものでもありませんから、あなた方の行動を制限する気はないですけど。ただ、そちらのウサギくんはしばらく安静にしていた方が良いと思いますよ――これでは、何のために「番人に会え」と勧めたのか分かりません」

 レンはタオルで足を拭き終わると立ち上がって、黒かぼちゃみたいにたくし上げていたスカートの端を引き抜いた。しわくちゃになって変な型のついたスカートは足首まで伸びていて、よくひとつも濡らさずに川の中を動けたなあと思う。

 ぼんやりそんなことを考えていると、セラス母さんが「分かってるわよ」ってため息をついた。

「もちろん、レンがどんなことを考えてアルを送ってきたのか、それは分かってる――この子が心配だから、あなたの代わりに看病しろってことでしょう?」
「全っ然違います。あまりにも面倒くさそうな案件だから、あなたに投げたんです。こんな常識知らずで情緒が破綻している痩せウサギ――」
「ちょっと! アルに失礼だわ、今までまともな教育を受けられなかっただけよ!」
「それは分かっています。分かった上で、面倒だって言ってるんです。元居た村へ返すにしろ、街で新たな生活を進めるにしろ、骨が折れるでしょう。非常識なのは学べば済むからまだ良いです、問題は――」

 レンはそこで口を閉じると、大きくて真っ黒なキツネ目で僕を見た。なんだかまた眩しいような気持ちになって、僕は目を細める。

「……何を笑っているんですか」
「え? 可愛いなあって思って?」
「痩せウサギ――いや、汚れた骨のくせに生意気ですね。もう昨日の話、覚えていないんですか?」
「うーん、やっぱり可愛くて好きだなあ、結婚したい。頑張ってクマみたいになるから……僕まだ諦めてないから、待っててね」

 僕は包帯で真っ白の両手を軽く握って、頑張るぞと思った。するとレンは大きな目を半分に眇めて、ため息を吐き出す。

「一番の問題は、この異常な精神力なんですよ……何を言われてもヘラヘラ笑って流す、歪んだ自己防衛本能。人と話していても、自分にとって都合の良い解釈をして済ませる現実逃避癖――かと思えば、自身の目的さえ達成できれば平気で命を投げ捨てることも厭わぬ精神破綻者。こればかりはもう、死ぬまで矯正できないでしょうね」

 レンはそのままセラス母さんに「その精神破綻者に言い寄られる者の気持ちが分かりますか?」って聞いた。母さんはグッと言葉に詰まると、眉毛を下げて僕を見る。

 難しい言葉ばかりで、ほとんど分からなかったけど――でもたぶん、僕がちょっとおかしいって話だと思う。
 僕は知らないことが多すぎるし、村の人とまともに関わってこなかったから人との正しい接し方だって分かっていない。村で子供たちに苛められていた時も、よく「コイツは変だ」って言われていた。

 それはたぶん、見た目だけの話じゃあない。僕の考え方も変だったんだと思う。だって、父さんと母さんが「何を考えているのか分からなくて薄気味が悪い」って言うくらいなんだから。
 きっと、少しでも痛いのが早く消えるように――寂しいのも怖いのも、何もないんだって諦めて、僕自身に嘘をつき続けていたせいだ。だけど、そうしないと僕は生きられなかった気がする。

 毎日痛くて寂しくて怖かったら、僕が嘘つきじゃなかったら、たぶんレンにもセラス母さんにも会えなかったんじゃないかなって思うから。
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