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第35話

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「――じゃあ、他にもまだ危ない人が居るかも知れないのね?」
「ん……よく分からないけど、やめてって言っても話しかけてくる人はいっぱい居るから……」

 ウルウルと瞳を潤ませる妹は、身内贔屓びいきを抜きにしても可愛すぎる。それは男たちも魔が差して当然だ。むしろこんな幼女に骨抜きにされてしまった男たちの方が被害者なのではないか? なんてバカなことを考える。
 それくらい現実逃避していなければ、やっていられない。カガリには今後も脅威が付き纏うということなのだから。

「困ったわねえ……佳人薄命かじんはくめいってヤツ? とにかく、美人に生まれたからって必ずしも幸福とは限らないんだわ」
「は、薄命ハクメー? 何ソレ、私、早死にするってこと?」
「薄命は、早死にするっていう意味だけじゃなくて……なんて言えば良いのかしら? 運に恵まれず不幸なことが多く起こるってこと。美人は良くも悪くも人目を惹くから、危険とも隣り合わせでしょう?」
「そんなぁ……怖いよぉ……」

 怖くて当然だろう。大人でも怖いのだから、まだ8歳の少女に「まあ、美人に生まれたのが運の尽きと思って、諦めなさい」なんて言えるはずもない。
 せっかく止まっていた涙がまた溢れ出して、私は小さな背中をぽんぽんと叩いてあやした。

「私、これからどうすれば良い? もう1人で歩けない……それに、今日のことがママに知られたら学校にも行けなくなるかも――」
「そうよね……私も、どうするのが一番良いのか分からないわ。――だけどホラ、さっきあれだけ大勢の人の前でゴードンに守られたでしょう? いっそこの出来事が町中に広まれば、カガリをつけ狙う男たちは震え上がるんじゃないかしら。あの人、見た目だけじゃなくて腕っぷしも相当なものだし……私を片手で軽々持ち上げるくらいよ、分かるでしょう」
「あ……」

 ヒックと喉を鳴らしたカガリは、ぴたりと涙を止めた。そうして熱に浮かされたようなぼんやりとした顔で見つめてきたので、しっかりと目を合わせながら今後について説明する。

 まずは決して1人の時間を作ってはいけないこと。通学中は必ず友達と行動して、人通りの多い道を選ばなければいけない。
 商会へ通うのは危険だから辞めさせた方が良いのかも知れないけれど、いっそ友達と一緒に「宿題をする」ということにして、皆で遊びにくれば良い。そうして夕方の定時を迎えれば職員がこぞって帰宅するので、その波に紛れて家まで帰るのだ。
 そのあとは翌朝まで家から出なければ、さすがに父母の目の前で誘拐事件が起きるようなことはないだろう。

 私が実家の近所を回って「カガリにこんなことがありました。他のお子さんにも起こり得ることですから、よく見てあげてください」と触れ回っても良い。そうすればカガリの安全は守られて、他の子供を狙った犯罪も未然に防げて一石二鳥だ。

 ただ、母の軟禁は避けられないかも知れない。今回のことでぷつりと糸が切れて発狂するかも分からないし――もっと、とんでもないことを言い出すかも知れない。

「……とんでもないこと?」
「例えば、「カガリの人気に嫉妬したセラスが、男をけしかけたんだわ! 最低の姉ね、もう二度と商会には近寄らせないわ!」……とか?」

 自分で「あり得ない」と思いながら言っていて、背筋が凍る思いだった。もしかして私は名探偵? なぜだかリアルな肉声の幻聴まで聞こえたような気がした。
 ……あの母なら、言いかねない。ただでさえ私の居る商会にカガリが通いつめることを不服に思っているようだから、これ幸いと喚き散らしそうだ。

「そうなった時に、カガリがどうしたいか――ね。危なくても外の世界で学びたいのか、もう危ないのは嫌だから家に篭るのか」
「…………お姉ちゃんは、私が危ない目に遭っているのを見たら助けてくれた?」
「え? それは当然、相手がどれだけ怖そうな男だろうが食ってかかるわよ。ただ、勝てるか――助けられるかどうかは別問題。殴られて気を失えば、結局あなたを助けられないものね……その時はごめんなさい。食ってかかったところで助けられないんじゃあ、傍観する人だかりの中の1人と同じレベルなのかも」

 正直に思ったことを話せば、カガリはほんの少し嬉しそうに微笑んだ。小さく動いた唇は、ありがとうと呟いたのだろうか。

「大事な妹だから?」
「ええ、そうね。……ゴードンの言った意地悪は、たぶんあなたを元気づけようとして言っただけだから気にしない方が良いわよ?」
「……あのね、お姉ちゃん。私、お義兄ちゃんと話すようになってから分かったことがあるの」
「そうなの? 何かしら」
「お姉ちゃんは私が大事な妹だから手助けしてくれるでしょう? ママやパパは、私が大事な娘だから守ろうとしてくれる。学校のお友達は……お友達は、どうして私によくしてくれるんだろう?」

 カガリは不思議そうに首を傾げたけれど、言葉とは裏腹にその瞳は答えを知っているようだった。

 どうして――なんて、たぶん少し前なら「そんなの、あなたが可愛いからよ」と即答していた。ワガママでも言動がアレでも、可愛いから許されて、可愛いからがあった。
 とはいえ、そんな身も蓋もないことを言うのははばかられて口を噤む。しかしカガリには伝わったらしい。

「私には、可愛いっていう『利用価値』があったから仲良くしてくれるの。連れて歩けばそれなりに見栄えするし、私と友達だって目で見られると、自分まで可愛くなったような……すごい存在になったような気になるでしょう?」
「……それ、ゴードンが言ったの?」
「ううん。私が勉強して、自分で考えたの」
「そう、それなら良いけど……いや、良いのかしら……? うーん、やっぱりカガリも商人が向いているんでしょうね……」

 私が唸れば、カガリは明るく笑って「うん、大きくなったら商会で働きたいな」と言った。

「それでね? お友達は利用価値がないとよくしてくれないでしょう? ご近所さんもそう。ほとんどの人が損得勘定で動いていて、心に天秤をもっていて……だから人間ってみんな『商人』なの」
「その考え方は斬新ね、でも嫌いじゃないわ」
「……だけど、世の中にはがある。損得なんて関係なしに、親が子に注ぐもの。子が親に返す反応。――あとは、一番好きな人に向けるもの」

 正直「さて、それはどうかしらね」なんて捻くれたこと言いかけたけれど、やめておいた。一般的にはそうなのだろう、私と父母が変わり種だっただけ。
 カガリは一度言葉を切ると、細く息を吸い込んだ。そうして改めて私と目を合わせると、口を開く。

「でも、私はパパとママの一番にはなれないって分かっているの。もちろん、お姉ちゃんの一番にも」
「……どういうこと?」
「結局パパの一番はママで、ママの一番はパパだから。お姉ちゃんの一番は――ちょっと、まだ分からない。分からないのに……どうしてお義兄ちゃんは、家族でもないお姉ちゃんに無償の愛を渡せるの? どうしてお義兄ちゃんのは家族じゃなくて、お姉ちゃんなんだろう……?」
「……無償? それは美化し過ぎよ、私だって色々と――」

 ――渡していると言いかけて、止まった。彼からもらっているものが多すぎたから。
 愛情、信頼、金品、仕事、住居……恋人、家族という立場。何もかももらってばかりで、カガリの言う『心の天秤』が吊り合っていない気がした。

 私が彼に渡したものって、なんなんだろうか……強いて言えば体? そんな最低なことを8歳の妹に話せるか。いやいや、でも、私だってちゃんと愛している。彼でないと絶対にダメなのだ。
 ただそれを、どう言葉にすれば良いのかが分からない。

 すっかり答えに瀕した私を見かねたのか、カガリはどこか寂しそうな顔をして「お姉ちゃんは、幸せでいいなあ」と呟いた。
 そこでようやく私は、以前からカガリが度々口にする「いいなあ」が、思った以上に深い言葉であったということに気付いたのだ。
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