上 下
26 / 64

第26話

しおりを挟む
 互いの体温で、すっかりぬるくなった布。それを取り払うと、カガリの瞳は乾くどころか分厚い涙の膜を張っていた。私に「恥ずかしい」と言われた怒りなのか、それとも悲しみなのかは分からない。少なくとも目の周りの赤味は落ち着いたので、それで良しとしよう。

「カガリに対する嫉妬――ヤキモチでも嫌がらせでもなく、正直に話すわ。母さんや父さんに守られたまま大人になっても、それはあなたにとって得にはならないの」

 相手は子供なのにを語るなんて、やっぱり商人の近くに居すぎたのかしら。発した言葉に自分で笑いそうになりながら続けた。

「あの2人が生きている間はカガリも楽しいし、安全だと思うわ。でも……あと何年一緒に居られる? 病気や怪我をせずに健康だったとしても、きっと30年もすれば死んでしまう」
「し、死ぬ? なんで? パパとママも、私を置いて行くってこと……?」
「生き物は寿命を迎えたら死ぬのよ、例外はない。カガリを置いて行きたくて死ぬ訳じゃなくて、こればかりはワガママを言っても仕方がないわ。母さんや父さんだって、可愛いあなたを1人残して死にたくないに決まっている――でも、どちらのワガママも受け入れられないの」

 甘やかされて育ったカガリに死生観を説いたって、無駄かも――。やや不安に思ったけれど、ショックを受けた表情でようよう頷く彼女を見る限り、意外なことに理解しているのではないだろうか。
 道徳の話は学校の授業でもやるはずだ。この子は宿題はからきしだけれど、もしかすると学校では真面目に授業を受けているのかも知れない。

「今のカガリは、両親に守られているから楽しいの。危ないことをする前に止められて、嫌な人が近付こうとしたら遠ざけてくれる。……まあ、手や目の届かない学校とか、通学路では守りきれないみたいだけど――つまり、よ」
「そういうこと?」

 カガリは今、両親を喜ばせるためだけに生きていると言っても過言ではない。
 本人が心のどこかで恥ずかしいと思っていても、自立しようものなら母が怒り狂うから立ち上がれない。父はいつだって母を宥めるのに必死で、彼の心の安寧を願うならば母を大人しくさせておくに限る。
 つまり、母の望む「弱々しくて保護者が居なければ何もできない、甘えん坊の子供」で居るしかないのだ。期限は母が満足して子離れできるまで――と言ったって、あの調子では死ぬまで満足しないだろう。

 ただ、そこまでして両親を喜ばせても、まだ。カガリの安全がいついかなる時も100%守られているのかと言えば、決してそうではないのだ。

 学校で勉強しているとなれば、参観日でもない限り両親は顔を出せない。学校から家までの通学路に四六時中張り付いていれば、それはもう過保護の領域だし……そもそも不審者だ。
 いくら我が子のことが心配でも、他にそんな真似をしている親は居ない。学校としても他の保護者としても、許せるはずがないではないか。

 そうして目を離した隙にカガリが悪意に晒されても、彼らは手も足も出せないのだ。
 だからこそ気の強い同級生に「ワガママ」「可愛いだけのくせに」と口うるさく責められて、近所の人から「姉と大違い」「依存症の母親も含めて恥ずかしい」なんて揶揄される。

 結局のところ、両親に固執していても無駄なのだ。彼らには年齢や立場上、どうしたって入れない領域がある。ただそれも、もしも学校の中に――通学路の途中に、ありとあらゆる場所に。両親と同じくらいカガリを守って助けて、問答無用で味方になってくれる者が居れば、話は変わってくる。

 カガリが今すべきなのは、変わること。両親の前で無理に自立する必要はない。ただ家族以外のコミュニティでは、真面目にしていた方が人から好かれるだろう。
 いくら見た目が良くたって、将来ソレだけに釣られて彼女に群がるような男はクズだ。きっとそんな男に愛されても、彼女は心の底から幸せにはなれないはず。

「つまり――なんて言えば良いのかしら。八方美人……だと意味合いが悪いから、生きなさい……? うん、そうね、要領よく生きなさい。両親の前では、これからも甘えん坊のまま生きれば良いわ。その方が2人は喜ぶし、家も平和でしょうから」

 カガリはどこか不服そうに唇を尖らせているけれど、私の言葉に真剣に耳を傾けている。いつもならすぐ癇癪を起すのに、今は文句を言ってくることもない。

「でも、外では――学校では「何もできない可愛いだけのカガリ」より、「なんでもできて可愛いカガリ」の方が愛されるわ。性別問わず味方になってくれるお友達も増えるでしょうし、そうなれば口うるさく意地悪な注意をする同級生も黙るんじゃない? 人気者のカガリに嫌味を言ったなんてことがバレたら、いじめられちゃいそうだもの」
「……うん」
「それにご近所の人と話すときも、しっかりしているところを見せつけてあげなさい。顔を合わせたらきちんと挨拶をして――あなたさっき、商会の職員さんから声を掛けられても全部無視したわよね? いくら泣いていたからって、アレは褒められたことではないわ。人として最低ね」

 キッパリと断言すれば、カガリの喉が「ヒッ」と鳴った。顔を歪めてしゃくり上げるのを耐えている。でもプルプルと震えて、今にも泣き出してしまいそうだ。

「……だけど、まだ8歳だからやり直せるわ。これから変われば良いのよ、まだ間に合う」
「うん……でもお姉ちゃん、ママと近所のおばさんが一緒に居る時はの顔をすれば良いの? 外でしっかりしたら、ママやパパにもバレちゃうんじゃあ……」
「その時は、思う存分バカになれば良いじゃない」
「バ、バカ?」
「思いっきり母さんに甘えるバカになりなさい。近所の人はきっと「あらあら、カガリちゃんってば外ではしっかり者なのに、お家では甘えん坊さんなのね~。そんなにママが好きなの~?」とかなんとか、言ってくれるわよ」

 アドバイスが少々投げやりになったのは、私にそんな経験がないのだから仕方がない。
 ――でも、あの母のことだ。「外ではしっかり者なのに」なんて前半の言葉よりも、「お家では甘えん坊」「そんなにママが好き」という後半の言葉に釘付けになるに違いない。

 仮にカガリが外で自立していたとしても、大した問題にはならないのだ。ただ母の前では何もできない子供ならば――誰よりも母を頼れば、それで良い。むしろ内と外で態度が違うことに、特別感を見出すかも知れない。

 ……きっと私も、そうするのが正解だったのだろう。内も外も関係なしに肩肘を張って生きたばっかりに、自分と母の首を絞めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

あなたなんて大嫌い

みおな
恋愛
 私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。  そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。  そうですか。 私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。  私はあなたのお財布ではありません。 あなたなんて大嫌い。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

なにひとつ、まちがっていない。

いぬい たすく
恋愛
若くして王となるレジナルドは従妹でもある公爵令嬢エレノーラとの婚約を解消した。 それにかわる恋人との結婚に胸を躍らせる彼には見えなかった。 ――なにもかもを間違えた。 そう後悔する自分の将来の姿が。 Q この世界の、この国の技術レベルってどのくらい?政治体制はどんな感じなの? A 作者もそこまで考えていません。  どうぞ頭のネジを二三本緩めてからお読みください。

【完結】亡くなった人を愛する貴方を、愛し続ける事はできませんでした

凛蓮月
恋愛
【おかげさまで完全完結致しました。閲覧頂きありがとうございます】 いつか見た、貴方と婚約者の仲睦まじい姿。 婚約者を失い悲しみにくれている貴方と新たに婚約をした私。 貴方は私を愛する事は無いと言ったけれど、私は貴方をお慕いしておりました。 例え貴方が今でも、亡くなった婚約者の女性を愛していても。 私は貴方が生きてさえいれば それで良いと思っていたのです──。 【早速のホトラン入りありがとうございます!】 ※作者の脳内異世界のお話です。 ※小説家になろうにも同時掲載しています。 ※諸事情により感想欄は閉じています。詳しくは近況ボードをご覧下さい。(追記12/31〜1/2迄受付る事に致しました)

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

【完結】記憶を失くした貴方には、わたし達家族は要らないようです

たろ
恋愛
騎士であった夫が突然川に落ちて死んだと聞かされたラフェ。 お腹には赤ちゃんがいることが分かったばかりなのに。 これからどうやって暮らしていけばいいのか…… 子供と二人で何とか頑張って暮らし始めたのに…… そして………

処理中です...