女暗殺者の嫁もまた暗殺者

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ガジュ丸かガジュ太郎か、それが問題だ

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 カーテン越しに差し込む朝日に、紗美は目を細める。
「んん……」
 目覚めた紗美は、反射的にベッドのシーツに手を伸ばした。
 さらさらとした手触り。自分がいた場所以外は冷たく、人がいた気配はない。結局、恵叶は昨日ソファで寝たらしい。
「ふわぁ……」
 歯磨きしてリビングに行くと、コーヒーの良い匂いで室内が満たされていた。キッチンに立った恵叶が、自分用のマグカップにコーヒーを注いでいる。
「……おはよ、恵叶」
「おはよう。コーヒー、残してるから」
「ありがとう」
「私、もう行くね」
「ええ。いってらっ……」
 バタン。
 言い終える前に、恵叶は出て行ってしまった。車庫から車が出て行くのを眺めながら、紗美はリンゴを冷蔵庫から取り出す。
 昔はこうじゃなかった。
 出勤前の数秒を惜しんで、恵叶と唇を押しつけ合っていた。この家のどこにも、紗美が腰をぶつけなかった場所はない。
 玄関に飾っていた鉢植えを、いくつ落としたことやら。でも、それも遠い昔の話。
 最後に恵叶とキスしたの、いつだっけ……。
 リンゴを腕の上で器用に転がしながら、記憶をたぐっていると、四週間前の出来事が頭に浮かんだ。
 その日は朝から家事ロボの調子が悪くて、紗美は自分で夕飯を作らなければならなかった。と言っても、そこまで苦痛ではない。
 料理はともかく、包丁の扱いには慣れている。
 恵叶が帰ってないのをいいことに、紗美は包丁をくるくると投げて遊んでいた。
 室内AIが読み上げるレシピを聞きながら、音楽に合わせて、冷蔵庫から野菜を取り出していく。
「フンフフン……あら? じゃがいもがない。じゃがいもはどこ?」
 問いかけると、すぐに室内AIから返事があった。
『地下の保管庫です』
「そう。家事ロボ、取ってきて」
 すると、家のどこかで返事があった。
『カシコマ……コマシタ』 
 しまった。
 ガビガビした音声に、うっかり包丁を落としそうになる。
 つい癖で命令してしまった。その家事ロボが使えないから、今こうして料理するはめになっているというのに。
 調子の悪い家事ロボがゴギゴギと動き出すのを想像して、紗美は真っ青になった。
 やばいやばいやばい!
 仕事でも、ここまで焦ったことはない。どんな困難でも即座に対応してみせるが、今は少し状況が厄介だった。
 何故なら、地下への階段には、
「買ったばっかりの観葉植物が!」
 紗美はキッチンカウンターを飛び越えると、急いで家事ロボを探しに走り出した。
 途中、包丁を握りっぱなしだったことに気付き、グリップ部分を持ち替える。
 ヒュッ。
 十メートル離れたまな板に突き刺さったが、それを振り返る余裕もなかった。
 ショートカットのためにソファを飛び越え、地下に続く階段に向かう。
 そこでは今まさに、家事ロボが果敢に特攻しようとしていた。
 普段なら階段などすいすい上り下りするが、その姿は遠目から見ても、投身自殺するR2-D2以外の何物でもない。
「待って、ストップストップ! じゃがいも、いらないから!」
『ジャガイモ……カナラズ、トドケマス……』
「意志がとても固い!」
『ジャ……イモ……』
 命を賭して、使命を果たそうとする家事ロボ。何がそこまで彼を突き動かしているのか、さっぱりわからない。
 案の定、家事ロボが上手く重心を移動できず、ぐらりと傾く。その二段下には、つやつやした葉が眩しい、生気溢れるガジュマルの姿。
「駄目ー! 18200円!」
 床をスライディングした紗美は、なんとか家事ロボの足をつかんで、投身巻き込み自殺を阻止する。ぐいと腕を引いて、家事ロボを廊下に引き込んだ。
 ところがその反動で、紗美自身の勢いを殺し損ねた。気付いたときには、視界が回転し、紗美は頭から落ちようとしていた。
 嘘!
 とっさに手を伸ばしそうになったが、間一髪で悪手と判断する。
 下手に手をついたら、骨折する。いっそ、頭を守って落ちたほうがいい。
 さようなら、ガジュ太郎……。
 腹をくくったときだった。誰かにぐいと腕をつかまれ、引っ張り上げられた。もちろん、救世主は恵叶しかいない。
「きゃっ!」
「ぐぎぃゅ!」
 だが、悲劇が起きた。
 ちょうど頭を守ろうと体を丸めてしまい、救世主に思い切り頭突きをしてしまったのだ。
「うぎぃゅ……」
 先ほどからどうやって発音しているのかわからないが、とにかく痛かったらしい。唇を押さえて悶絶する恵叶の背中を、紗美はたださすり続けるしかなかった。
「ごめんね、恵叶。ごめん。これは本当ごめんね」
「ん……。う、うん。平気よ……」
 ……あれはキスにカウントされるの? ただの頭突き?
 あのときのことを思い出して、はてなマークが浮かんだが、それより今更引っかかる箇所があった。
 この私が他人の接近に気付かず、あまつさえ助けられるなんて。あのときは焦って気付かなかったけど……鈍っているのかしら。トレーニングを増やすべき?
「まあ、妻だから気を許しているだけよね……」
 こぽこぽとコーヒーをタンブラーに注ぎ、自分を納得させようとして……。
「熱っ」
 コーヒーが指にかかった。舐め取りながら、ふと紗美は首をかしげる。
「恵叶って、運動神経すごく良いのよね……。学生時代は帰宅部だったらしいけど」
 車に乗り込んだ紗美は、オート運転になっていることを確認すると、職場に行くよう指示した。
 車は滑るように動き出し、全くの無音で周囲の景色を置き去りにする。
 今となっては信じられないが、自動車なんて鉄の化け物を、個々の技術頼みで運転していた時代があったらしい。
 一日に1600件を超える交通事故を起こしていたというが、それはそうだろう。まだスマホに、RAMやCPUなんてものが内臓されていた頃の話だ。
「昔ってめちゃくちゃね……」
 運転に自信のある紗美ですら、技量もわからない人の隣で走りたくない。毎日なんて、絶対にごめんだ。昔の人は凄い。
『職場の位置を記録しますか?』
「やめておくわ」
 車内AIに、いつも通り答えた。
 記録すればこの面倒な日課もなくなるわけだが、万が一にも、恵叶に職場の位置を知られるわけにはいかない。
 まあ、「仕事中は連絡してこないで」「職場には来ないで」と一度告げてから、恵叶はそれを律儀に守り続けている。警戒を怠るつもりはないが、そこはありがたい。
 それに恵叶も全く同じ条件を、紗美に突きつけていた。
「手作りのお弁当とか、持ってこなくていいからね」
 そう言って、クールに笑っていた恵叶が懐かしい。
「えー? 何で駄目なの?」
 恥っず。
 甘い声ですり寄っていた自分まで思い出してしまい、紗美は両手で顔を覆う。苦みが欲しくて、かぱっとタンブラーを開けた。
「誰も持って行かないわよ。……恵叶の馬鹿」
 ……別に、嫌いになったわけじゃないのに。どうしてこんなふうになったのかしら。

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