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第七章 運命からの逃走 (怜一郎side)

53.俺の再スタート

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 俺は飛行機の中で一人、昨日までの出来事を振り返っていた。
 でももう今更、悩むことなんてなにもない。
 もう全てやってしまったことだから……。

 昨夜、俺は大学時代の知人で新聞記者をしている男と都内のバーで会った。
 宝条ホールディングスが政治家へ巨額の賄賂を贈っていた証拠、そして会社が政治家からその見返りに年間数百億円分の公共施設の備品の受注などを独占的に受けていた証拠を彼に見せた。
「嘘だろう……。これはとんでもない規模の贈収賄事件じゃないか……」
 俺の奢りだと知り勢いよく酒を飲んでいた記者の男は、一気に酔いが醒めた様子で声を震わせた。

「それに、どうしてこんな真似……」
 そう思われて当然だろう。これまで通りのいい子を演じ、黙って新CEOに就任すればいいものを、俺は組織の不正をリークしたのだ。
「もう嫌になったんだ。生まれながらに背負わされているもの全てが……」

 バーを出て一人、裏路地から駅へ向かう道中で、
「はは、バカだな。俺は……」
 と小さな声で自分を嘲笑うと、すっと肩の荷が降りた気がした。
 これまで俺が背負っていた重たいものが全て消え、信じられないほど身軽な気持ちだ。

 こんな情報を流して父親はきっと大変なことになってしまうだろう。
 逮捕されるだろうか? 会社はこれからどうなるだろう?
 しかしそんなの俺の知ったことではない。

 贈賄の事実を知ったとき、俺は真っ先に父親に詰め寄った。
 秘書が代わりに返事をしそうだと思ったので、俺は秘書を退席させ親父と二人きりになった。
 俺はその事実を聞くとき、足がガクガク震えて生きた心地がしなかった。
 どういう言葉で聞いたのかさえ覚えていない。
 初めて息子に反抗的な態度を取られた親父はひどく驚いた顔をしていたが、ふう……と笑い交じりにため息をついて、部屋の中をゆっくり歩き、高層階であるその部屋の窓の外を眺めた。
「怜一郎、宝条ホールディングスにはグループ企業や子会社を含め、何人の従業員がいるかわかっているか?」
「……非正規雇用まで含めると、数万いや数十万人でしょうか」
「そうだな。我々の仕事はそれだけの人の生活や人生がかかっているんだ。お前ももう大人なら世の中はきれいごとばかりじゃ済まされないとわかるだろう」
「しかしっ……」
 俺はそんな簡単な言葉であしらわれるつもりはなく食い下がった。
 親父は部屋の中に掲げられている歴代の取締役のポートレートを見つめた。
「……長い歴史のある会社だ。先代も先々代もみんなある程度、手を汚す覚悟でこの会社と従業員を守ってきたんだ。……そして、それはもうすぐ、お前の番になる」
 親父は俺の肩をポンっと叩いた。

 なんだよ、それ。俺は知らない他人の人生を守るためにこれまで生きてきたのか。
 自分の気持ちを全て押し殺して、親に生き方を支配されて……。
 手を汚す覚悟だって?
 ……だったら俺は、本当に自分が望むような汚れ方をしながら生きたい。
 もう、いやだ。一人で自由に生きてやるっ!
 そんな欲望が一気に湧き上がった。

 駅のコインロッカーへ入れておいた最低限の荷物を持って、自宅とは全く違う方向の電車に乗り、俺は空港へ向かった。
 前もってチケットを予約しておいたニューヨーク行きの飛行機に乗った。
 ニューヨークがいいと思ったのは、ゲイであることを日本よりずっとオープンにできるみたいだし、同性婚もできると知っていたからだ。
 何もかも捨て、自分らしく生きるための再スタートの場には相応しいだろう。
 もちろんこの計画は誰にも知らせていない。……龍之介にも。
 以前のようにジャケットに発信機がついていたら困るので今朝は新品のジャケットを下ろして着てきた。


 ニューヨークではまずピアノ演奏のアルバイトでもして生活しようと思っていた。
 元々俺はピアニストになりたかったからだ。
 ビジネスホテルに滞在して街の中を歩いて回り、レストランやバーのピアニスト、幼児向けピアノ教室の先生まで、募集しているところは片っ端から応募した。
 俺の経歴を知ったら驚いて簡単に雇ってもらえると思ったのだが、たどたどしい片言の英語しかしゃべれない人間を雇ってくれるところなんてなかった。
 まれに、じゃあ弾いてみてよ、と演奏を聴いてくれるところもあったが、考えてみれば高校時代以来、十年近くピアノに触っておらず、自分が思うよりも指が動かず、チャンスを掴むことなどできなかった。
 現実は俺が思っていたよりずっと厳しかったのだ。仕事を探し始めてあっという間に一週間が経っていた。

 どうしよう、こんなはずじゃなかった……。
 ピアノを演奏する仕事は諦めて、もう別の仕事でも探そうか、とため息をついて公園のベンチに腰掛けた。
 すると男が道を教えてほしいと話しかけてきた。地図を見ながら説明しているうちにベンチの上に置いていたカバンがなくなっていた。仲間のいるスリだったのだろう。
 ホテルに置いておくのが心配だったので俺はパスポートもクレジットカードの入った財布も持ち物全てをカバンに入れていた。
 だからそれら全てを失ってしまったのだ。

 金を盗まれたと説明したら、ビジネスホテルから摘まみ出された。
 家出同然で日本を飛び出してきたから、警察に相談に行くのは気が引けた。
 パスポートもなくなり就職活動はさらに難航するだろう。
 その前にまず今夜寝泊まりする場所も食べるものもないが……。
 仕方ない、左手につけているブランド物の腕時計を質屋へ売って数日飲み食いする金を手に入れるか……と考えたが、しかしそのあとどうなる? 日本の家族に助けを求めることだけは嫌だった。

 途方に暮れて路地裏にしゃがみ込んでいると、一人の太った黒人の男が話しかけてきた。
「日本人か?」
 少し警戒しながらも、もう取られるものも何もないので、俺は開き直って彼と会話した。
「ええ、そうです」
 答えた瞬間、俺の腹がぐーっと鳴った。ひどい空腹だったのだ。
「グッドルッキングガイだから俺のレストランで雇ってやる。……お前、ゲイだろ?」
 と男は笑った。
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