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2.悪魔
今度こそ、護らせてくれ
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朝の鐘に合わせて冒険者たちに言伝を送った後、エルレインはすぐにエセルバートの部屋を訪れた。
もちろん、アストリッドとの婚姻の許しを得るために。もう、あまり悠長にしていられないのだから。
「アーシェと……アストリッドと正式な婚姻を結びたい。頼む、許可をくれ」
「エルレイン、だが、それはもう少し落ち着いてからでも」
予想はしていたものの会うなりの頼みに、エセルバートは面食らいつつも、つとめて穏やかに言葉を掛けた。
「エセル、頼む。夫であれば、私は大手を振ってアストリッドについていられるんだ。今は簡易な手続きだけでも、もちろん、本当に落ち着いたらきちんと正式に、アストリッドやあなたが望む形で儀式も行うことを約束する」
エセルバートは小さく吐息を漏らす。
ここまで性急にことを進めようとするのは、エルレインらしくない……そう、エセルバートには感じられた。
これほど強引に進めなければならないのは何故なのか。
けれど、そこまで考えたところで、いや、エルレインはアストリッドの絡むことではいつだって冷静ではなかったなと思い返す。
「何か急がなければならない理由があるのか?」
「――“悪魔”は、まだ完全に姿を消していないんだ」
「エルレイン?」
エルレインの言葉に、エセルバートは息を呑む。
アストリッドは救出された。冒険者司祭の見立てでも、エルレインの見立てでも、何も問題はなかった。だからもう終わったはずではなかったのか。
エセルバートはわずかに目を眇め、無言でエルレインを見返した。
「エセル……ここだけの話に納めてほしい。教会は昨夜のうちに“悪魔”が討たれたと発表するだろう。けれど、そいつはいわば手先のような魔物でしかない。本命は、まだどこかに隠れている。
だから、私はアーシェのそばについていたい」
「なんだって? だが、君は聖騎士だろう。“悪魔”がまだ潜んでいるなら、教会にはやらねばならないことが多いはずだ。君だって同じだろう。アーシェにずっとついているわけには……」
「わかっている。けれど、それでもなんだ。頼む、エセル。シャルルロアの当主であるあなたが認めてくれれば、手続きなんてすぐに終わるだろう?」
「つまり、これからもアーシェは狙われると、君は危惧しているのか?」
“悪魔”がかつて現れた悪魔なら、シャルルロアを……アストリッドを諦めていないというのか。
エセルバートは、もう一度小さく溜息を吐く。
「――では、教会に、保護を求めなければ」
「だめだ」
「エルレイン?」
悪魔に狙われるというなら、当然、教会に保護を求めるべきである。
なのに、それを強く否定するエルレインの言葉にエセルバートはさすがに驚き、訝しんだ。教会こそが、悪魔に対抗できる存在なのではないのかと。
「いったい何が問題なんだ、エルレイン?」
「……教会は、“悪魔”に攫われたアーシェを疑っている」
「それは」
エセルバートは、今度こそ大きく目を見開いた。
あの冒険者の司祭と、何よりエルレイン自身の見立ては、いったい何だったというのか。
「エセル、本命がまだ隠れていると言ったろう?」
「アーシェは無事だったはずだ。君自らがそう宣言したではないか」
「もちろんだ。けれど、教会は少しでも不安があると判断できれば、アーシェを手元に置いて厳重に監視するだろう。ことによれば、教会に封じる可能性もある。穢されたものは見つかっても、それを穢した“悪魔”は見つかっていないんだ」
「しかし……だがしかし、君の立場はどうなる? 君は神と教会に仕えると誓った聖騎士じゃないか」
「私は問題ない。大丈夫だよ、我らを導く尊いお方は、私を聖騎士として今もお認めになっている。そこに疑いの余地はない。
――だから、私にアーシェを護る正当な権利が欲しいんだ、エセルバート。そうすれば、私は大手を振って神の名の下にアーシェを護ることができる」
エセルバートは大きく目を見開いたまま、エルレインを凝視する。
けれど、そのエルレインにどこか縋り付くように見つめ返されて、エセルバートはとうとう小さく息を吐いた。
エルレインの決意は固いのか、と。
「わかった……アーシェが望むなら反対しない。この件があるよりも前から、君たちは結婚を決めていたんだ。今回の件で少々早まっただけに過ぎない」
「ありがとう、エセルバート」
エルレインは安堵に笑みを浮かべた。
書類を揃えて、エルレインはアストリッドの部屋へ戻った。これにサインを入れて地母神の司祭に簡易の儀式を行ってもらえば、手続きは完了だ。そうすれば、夫の権利を盾にアストリッドを自分の手で護ることができる。
「アーシェ!」
「エルレイン?」
「エセルバートからの許しを得たよ。結婚しよう、アーシェ。今からふたりで地母神教会へ行って、誓いの儀を済ませるんだ」
「え、結婚?」
驚きに身を固くするアストリッドに、エルレインは安心させるように柔らかく笑んだ顔を向ける。
けれど、抱き締められて告げられた言葉に、アストリッドはひどく動揺しているようだった。「でも」と言葉を濁したきり、黙り込んでしまう。
そのアストリッドの頬にキスをして、エルレインは甘い声で囁いた。
「アーシェ、来年の約束が今日になっただけだ。
私は心配なんだよ、アーシェ。心配で心配でたまらないんだ。だからどうか、私にアーシェを護る権利をくれないか」
「でも、エルレイン、私……」
「私はアーシェを……アストリッドを愛している。アーシェが不安だというなら、何度でも言うよ。何があろうと、私はアーシェを愛している」
エルレインの言葉は、心の底から嬉しかった。
けれど、アストリッドは汚れてしまったのだ。
エルレインに捧げるはずだった何もかもをあの“悪魔”に奪われたのに、エルレインの言葉を喜んでもいいのかと考えてしまうのだ。
「それとも――まさかアーシェは、もう私を愛していない?」
「そんな!」
反射的に声を上げてしまったアストリッドに、エルレインはとろりと微笑みを浮かべた。抱き締める腕に力を込めて、伏せてしまったアストリッドの顔を上げさせる。
エルレインの煌めく瞳が、じっとアストリッドを見つめている。
「そんなこと……」
「なら、まだ私を愛してくれている?」
けれど、額を合わせて囁くエルレインをじっと見つめて……アストリッドはついと目を逸らしてしまった。
何も答えないアストリッドに、エルレインの顔がじわりと曇る。じわじわと血の気が引いて、心臓が絞られたように苦しくなっていく。
うまく呼吸ができなくなって、小さく喘ぐように息を吐く。
まさか、まさかという思いが膨らんでいき、目の前が暗くなる。
「――アーシェ?」
エルレインの促す声に、アストリッドは小さく吐息を漏らした。
「エルレイン、私……私、司祭の資格をなくしてしまったの」
「アー、シェ?」
けれど、告げられた言葉はエルレインが思ったものとは違っていた。
俯いたまま、アストリッドが声を震わせる。
「わ……私は、悪魔に汚されて……だから、もう、だめなの。私、あなたと共にある資格を失くしてしまった。朝、いつものように祈りを捧げても、尊きお方が応えてくれなかったのよ。私……私は、きっと、“悪魔”に穢されて、堕ちてしまったんだわ」
「まさか、アーシェ……」
先ほどとはまた別な意味で、エルレインは息を呑む。
祈りに、神が応じない?
自然と眉が寄り、いったいどういうことなのかと考える。
祈りを捧げても神術が降りてこないというなら……アストリッドは、ほんとうに司祭の資格を失くし、神の加護を失ったというのか?
だとすれば、教会の疑いが確定的なものになってしまう。
少なくとも、大司教はアストリッドの内に“悪魔”の本体か、もしくは“邪悪の真髄”がと考えるだろう……下手をすれば、アストリッド自身が新たに現れた“悪魔”だとされて、断罪すらもあり得るのではないか。
だが、アストリッドは違うのだ。
そんなこと、なんとしても防がなければいけない。
「なら……アーシェ、なおさらだ。私にアーシェを護らせてくれ」
「でも、エルレイン」
「言っただろう? 私はどんなアーシェでも愛している。君が汚されたというなら、それは護れなかった私のせいだ。君を攫った“悪魔”が君を穢したというなら、私がその“悪魔”を討つよ。
私に、今度こそ君を護らせてくれ、アーシェ」
――あの日の啓示は、すべてアストリッドのことだったのか。
エルレインはしっかりとアストリッドを抱いて考える。
引き裂かれた羊はアストリッドを指し、影に潜むものは“悪魔”を指し、その“悪魔”が植え付けた何かにアストリッドが侵食されていることを示し……あの啓示は、この今の状況に至ることを伝えていたのか。
この状況を破りアストリッドを救えと、神はエルレインに命じているのか。愛する者を護り、救えと。
「アーシェ、お願いだ。愛しているからこそ、私が君を護るものでありたい」
真摯なエルレインの言葉に、アストリッドの頬を涙がひと筋伝う。
「――怖いの。私が私でなくなってしまうのが、とても怖くて……私はどうなるの? エルレイン、悪魔に抗えないのよ……抗いたいのに、どうして……どうして神は助けてくれないの?」
「アーシェ、アストリッド」
こぼれた涙を、エルレインはキスで拭う。
信仰を捧げた神を疑ってしまうほど、アストリッドは追い詰められているのだ。それもこれもすべて、隠れ潜む“悪魔”のせいで――
エルレインの手が、アストリッドの頬に触れる。何度も何度も愛しげに撫でて、さらにキスを落とす。
「私がいる」
「エルレイン」
「だから、大丈夫だ。何があっても、私がいるよ、アーシェ」
何度も何度も、エルレインは優しく囁く。
「私はけして君から離れない。
だからお願いだ。私に君を護らせてくれ、アーシェ」
ようやくこくりと頷いたアストリッドに笑顔を返して、エルレインはふわりと抱き上げた。
「さあ、アーシェ。用意をして地母神教会へ行こう。書類はもうできてるんだ。とりあえずは簡易の手続きになってしまうけれど、すべて片付いたら、もう一度君の望むようにやり直すと約束する」
エセルバートが用意した馬車を借りて、地母神教会へと向かった。
地母神教会といっても、この町にあるのは礼拝堂程度の小さなもので、司祭もひとりしか常駐していない。けれど、それで十分だ。今は、正式に夫婦と認められることが重要なのだから。
朝の礼拝の後、ひと息ついたばかりの司祭をつかまえて、急かすようにして誓いの儀式を済ませた。
女神の祝福を贈られ、儀式を終えて、ようやく安堵するエルレインを、少し非難めいた表情の司祭がじっとりと見つめる。だが、それでも事情は……数日前から続く“悪魔”の事件などは聞き及んではいるのか、何かを言われることはなかった。
「実は昨夜、“邪悪の真髄”に触れて変容した者が見つかったんだ」
「――え?」
地母神教会を出て、戻りの馬車の中で、エルレインがおもむろに話し始めた。
今しがた地母神の司祭のサインが入った羊皮紙を広げ、ひとしきり眺めてまた丸めると、巻物入へ戻す。
「今まで町に出没していた“悪魔”はそいつだろうと、大司教猊下と聖騎士長が仰っていた」
「じゃあ、エルレイン……」
「けれど、“邪悪の真髄”、もしくはそれに穢されたものは何も見つかっていないんだ、アーシェ。昨夜からずっと……教会はおそらく必死で探しているのだろうが、たぶんまだ見つかってはいない」
「……エルレイン?」
訝しむアストリッドに、エルレインはどこか困ったような笑みを向けた。
「大司教猊下は、アーシェを疑っているのだと思う。アーシェが回復したら、教会へ連れて来るようにと命じられたよ」
「――エルレイン!」
大きく目を見開いて、アストリッドは非難に声を荒げた。
それを知っていて、どうして自分と結婚なんてと、血の気の下がった顔色で呟く。どんとエルレインの胸を叩き、上着をくしゃりと握り締める。
「そんな……それなら、こんなことしたら……教会には、この結婚のことは言ってないんでしょう? だから、こんなに結婚を急いだんでしょう?」
「アーシェ」
「だめよ……だめよ、エルレイン。あなたは聖騎士なのよ。神と教会に仕える聖騎士なのよ? 叙勲で誓ったんでしょう? こんなことして……“悪魔”に攫われて、司祭の資格も失くして“悪魔憑き”になった私と結婚だなんて、だめよ。破門されたらどうするの」
「君は“悪魔”でも“悪魔憑き”でもない。私がわかっている」
震えるアストリッドを、エルレインは優しく抱き締めた。
「大丈夫だよ。私は今度こそアーシェを護ると決めたんだ。遥か高みより我らを導く聖なるお方の尊い御名に誓って、今度こそ君を護ると」
エルレインは何度も何度も背を撫でて、アストリッドにふんわりと微笑む。
「アーシェ、だから、大丈夫だよ」
――まだ体調が思わしくないという理由で、数日は稼げるだろう。その間に、アーシェに取り憑いた何かを捕らえるのだ。
エルレインは、頭の中だけで算段を立てる。
“邪悪の真髄”探しは冒険者たちに任せればいい。
その間に、エルレイン自身はアストリッドに憑く何かを捕らえるのだ。
何かが……“悪魔”としか思えない何かがアストリッドのもとを訪れたことはわかっている。そいつを捕らえ、引導を渡し、九層地獄界の業火の中に叩き返すのは、エルレインの役目だ。
大丈夫と繰り返しながら、落ち着かせるように宥めるように優しくキスをして、エルレインはきつくきつくアストリッドを抱き締めた。
もちろん、アストリッドとの婚姻の許しを得るために。もう、あまり悠長にしていられないのだから。
「アーシェと……アストリッドと正式な婚姻を結びたい。頼む、許可をくれ」
「エルレイン、だが、それはもう少し落ち着いてからでも」
予想はしていたものの会うなりの頼みに、エセルバートは面食らいつつも、つとめて穏やかに言葉を掛けた。
「エセル、頼む。夫であれば、私は大手を振ってアストリッドについていられるんだ。今は簡易な手続きだけでも、もちろん、本当に落ち着いたらきちんと正式に、アストリッドやあなたが望む形で儀式も行うことを約束する」
エセルバートは小さく吐息を漏らす。
ここまで性急にことを進めようとするのは、エルレインらしくない……そう、エセルバートには感じられた。
これほど強引に進めなければならないのは何故なのか。
けれど、そこまで考えたところで、いや、エルレインはアストリッドの絡むことではいつだって冷静ではなかったなと思い返す。
「何か急がなければならない理由があるのか?」
「――“悪魔”は、まだ完全に姿を消していないんだ」
「エルレイン?」
エルレインの言葉に、エセルバートは息を呑む。
アストリッドは救出された。冒険者司祭の見立てでも、エルレインの見立てでも、何も問題はなかった。だからもう終わったはずではなかったのか。
エセルバートはわずかに目を眇め、無言でエルレインを見返した。
「エセル……ここだけの話に納めてほしい。教会は昨夜のうちに“悪魔”が討たれたと発表するだろう。けれど、そいつはいわば手先のような魔物でしかない。本命は、まだどこかに隠れている。
だから、私はアーシェのそばについていたい」
「なんだって? だが、君は聖騎士だろう。“悪魔”がまだ潜んでいるなら、教会にはやらねばならないことが多いはずだ。君だって同じだろう。アーシェにずっとついているわけには……」
「わかっている。けれど、それでもなんだ。頼む、エセル。シャルルロアの当主であるあなたが認めてくれれば、手続きなんてすぐに終わるだろう?」
「つまり、これからもアーシェは狙われると、君は危惧しているのか?」
“悪魔”がかつて現れた悪魔なら、シャルルロアを……アストリッドを諦めていないというのか。
エセルバートは、もう一度小さく溜息を吐く。
「――では、教会に、保護を求めなければ」
「だめだ」
「エルレイン?」
悪魔に狙われるというなら、当然、教会に保護を求めるべきである。
なのに、それを強く否定するエルレインの言葉にエセルバートはさすがに驚き、訝しんだ。教会こそが、悪魔に対抗できる存在なのではないのかと。
「いったい何が問題なんだ、エルレイン?」
「……教会は、“悪魔”に攫われたアーシェを疑っている」
「それは」
エセルバートは、今度こそ大きく目を見開いた。
あの冒険者の司祭と、何よりエルレイン自身の見立ては、いったい何だったというのか。
「エセル、本命がまだ隠れていると言ったろう?」
「アーシェは無事だったはずだ。君自らがそう宣言したではないか」
「もちろんだ。けれど、教会は少しでも不安があると判断できれば、アーシェを手元に置いて厳重に監視するだろう。ことによれば、教会に封じる可能性もある。穢されたものは見つかっても、それを穢した“悪魔”は見つかっていないんだ」
「しかし……だがしかし、君の立場はどうなる? 君は神と教会に仕えると誓った聖騎士じゃないか」
「私は問題ない。大丈夫だよ、我らを導く尊いお方は、私を聖騎士として今もお認めになっている。そこに疑いの余地はない。
――だから、私にアーシェを護る正当な権利が欲しいんだ、エセルバート。そうすれば、私は大手を振って神の名の下にアーシェを護ることができる」
エセルバートは大きく目を見開いたまま、エルレインを凝視する。
けれど、そのエルレインにどこか縋り付くように見つめ返されて、エセルバートはとうとう小さく息を吐いた。
エルレインの決意は固いのか、と。
「わかった……アーシェが望むなら反対しない。この件があるよりも前から、君たちは結婚を決めていたんだ。今回の件で少々早まっただけに過ぎない」
「ありがとう、エセルバート」
エルレインは安堵に笑みを浮かべた。
書類を揃えて、エルレインはアストリッドの部屋へ戻った。これにサインを入れて地母神の司祭に簡易の儀式を行ってもらえば、手続きは完了だ。そうすれば、夫の権利を盾にアストリッドを自分の手で護ることができる。
「アーシェ!」
「エルレイン?」
「エセルバートからの許しを得たよ。結婚しよう、アーシェ。今からふたりで地母神教会へ行って、誓いの儀を済ませるんだ」
「え、結婚?」
驚きに身を固くするアストリッドに、エルレインは安心させるように柔らかく笑んだ顔を向ける。
けれど、抱き締められて告げられた言葉に、アストリッドはひどく動揺しているようだった。「でも」と言葉を濁したきり、黙り込んでしまう。
そのアストリッドの頬にキスをして、エルレインは甘い声で囁いた。
「アーシェ、来年の約束が今日になっただけだ。
私は心配なんだよ、アーシェ。心配で心配でたまらないんだ。だからどうか、私にアーシェを護る権利をくれないか」
「でも、エルレイン、私……」
「私はアーシェを……アストリッドを愛している。アーシェが不安だというなら、何度でも言うよ。何があろうと、私はアーシェを愛している」
エルレインの言葉は、心の底から嬉しかった。
けれど、アストリッドは汚れてしまったのだ。
エルレインに捧げるはずだった何もかもをあの“悪魔”に奪われたのに、エルレインの言葉を喜んでもいいのかと考えてしまうのだ。
「それとも――まさかアーシェは、もう私を愛していない?」
「そんな!」
反射的に声を上げてしまったアストリッドに、エルレインはとろりと微笑みを浮かべた。抱き締める腕に力を込めて、伏せてしまったアストリッドの顔を上げさせる。
エルレインの煌めく瞳が、じっとアストリッドを見つめている。
「そんなこと……」
「なら、まだ私を愛してくれている?」
けれど、額を合わせて囁くエルレインをじっと見つめて……アストリッドはついと目を逸らしてしまった。
何も答えないアストリッドに、エルレインの顔がじわりと曇る。じわじわと血の気が引いて、心臓が絞られたように苦しくなっていく。
うまく呼吸ができなくなって、小さく喘ぐように息を吐く。
まさか、まさかという思いが膨らんでいき、目の前が暗くなる。
「――アーシェ?」
エルレインの促す声に、アストリッドは小さく吐息を漏らした。
「エルレイン、私……私、司祭の資格をなくしてしまったの」
「アー、シェ?」
けれど、告げられた言葉はエルレインが思ったものとは違っていた。
俯いたまま、アストリッドが声を震わせる。
「わ……私は、悪魔に汚されて……だから、もう、だめなの。私、あなたと共にある資格を失くしてしまった。朝、いつものように祈りを捧げても、尊きお方が応えてくれなかったのよ。私……私は、きっと、“悪魔”に穢されて、堕ちてしまったんだわ」
「まさか、アーシェ……」
先ほどとはまた別な意味で、エルレインは息を呑む。
祈りに、神が応じない?
自然と眉が寄り、いったいどういうことなのかと考える。
祈りを捧げても神術が降りてこないというなら……アストリッドは、ほんとうに司祭の資格を失くし、神の加護を失ったというのか?
だとすれば、教会の疑いが確定的なものになってしまう。
少なくとも、大司教はアストリッドの内に“悪魔”の本体か、もしくは“邪悪の真髄”がと考えるだろう……下手をすれば、アストリッド自身が新たに現れた“悪魔”だとされて、断罪すらもあり得るのではないか。
だが、アストリッドは違うのだ。
そんなこと、なんとしても防がなければいけない。
「なら……アーシェ、なおさらだ。私にアーシェを護らせてくれ」
「でも、エルレイン」
「言っただろう? 私はどんなアーシェでも愛している。君が汚されたというなら、それは護れなかった私のせいだ。君を攫った“悪魔”が君を穢したというなら、私がその“悪魔”を討つよ。
私に、今度こそ君を護らせてくれ、アーシェ」
――あの日の啓示は、すべてアストリッドのことだったのか。
エルレインはしっかりとアストリッドを抱いて考える。
引き裂かれた羊はアストリッドを指し、影に潜むものは“悪魔”を指し、その“悪魔”が植え付けた何かにアストリッドが侵食されていることを示し……あの啓示は、この今の状況に至ることを伝えていたのか。
この状況を破りアストリッドを救えと、神はエルレインに命じているのか。愛する者を護り、救えと。
「アーシェ、お願いだ。愛しているからこそ、私が君を護るものでありたい」
真摯なエルレインの言葉に、アストリッドの頬を涙がひと筋伝う。
「――怖いの。私が私でなくなってしまうのが、とても怖くて……私はどうなるの? エルレイン、悪魔に抗えないのよ……抗いたいのに、どうして……どうして神は助けてくれないの?」
「アーシェ、アストリッド」
こぼれた涙を、エルレインはキスで拭う。
信仰を捧げた神を疑ってしまうほど、アストリッドは追い詰められているのだ。それもこれもすべて、隠れ潜む“悪魔”のせいで――
エルレインの手が、アストリッドの頬に触れる。何度も何度も愛しげに撫でて、さらにキスを落とす。
「私がいる」
「エルレイン」
「だから、大丈夫だ。何があっても、私がいるよ、アーシェ」
何度も何度も、エルレインは優しく囁く。
「私はけして君から離れない。
だからお願いだ。私に君を護らせてくれ、アーシェ」
ようやくこくりと頷いたアストリッドに笑顔を返して、エルレインはふわりと抱き上げた。
「さあ、アーシェ。用意をして地母神教会へ行こう。書類はもうできてるんだ。とりあえずは簡易の手続きになってしまうけれど、すべて片付いたら、もう一度君の望むようにやり直すと約束する」
エセルバートが用意した馬車を借りて、地母神教会へと向かった。
地母神教会といっても、この町にあるのは礼拝堂程度の小さなもので、司祭もひとりしか常駐していない。けれど、それで十分だ。今は、正式に夫婦と認められることが重要なのだから。
朝の礼拝の後、ひと息ついたばかりの司祭をつかまえて、急かすようにして誓いの儀式を済ませた。
女神の祝福を贈られ、儀式を終えて、ようやく安堵するエルレインを、少し非難めいた表情の司祭がじっとりと見つめる。だが、それでも事情は……数日前から続く“悪魔”の事件などは聞き及んではいるのか、何かを言われることはなかった。
「実は昨夜、“邪悪の真髄”に触れて変容した者が見つかったんだ」
「――え?」
地母神教会を出て、戻りの馬車の中で、エルレインがおもむろに話し始めた。
今しがた地母神の司祭のサインが入った羊皮紙を広げ、ひとしきり眺めてまた丸めると、巻物入へ戻す。
「今まで町に出没していた“悪魔”はそいつだろうと、大司教猊下と聖騎士長が仰っていた」
「じゃあ、エルレイン……」
「けれど、“邪悪の真髄”、もしくはそれに穢されたものは何も見つかっていないんだ、アーシェ。昨夜からずっと……教会はおそらく必死で探しているのだろうが、たぶんまだ見つかってはいない」
「……エルレイン?」
訝しむアストリッドに、エルレインはどこか困ったような笑みを向けた。
「大司教猊下は、アーシェを疑っているのだと思う。アーシェが回復したら、教会へ連れて来るようにと命じられたよ」
「――エルレイン!」
大きく目を見開いて、アストリッドは非難に声を荒げた。
それを知っていて、どうして自分と結婚なんてと、血の気の下がった顔色で呟く。どんとエルレインの胸を叩き、上着をくしゃりと握り締める。
「そんな……それなら、こんなことしたら……教会には、この結婚のことは言ってないんでしょう? だから、こんなに結婚を急いだんでしょう?」
「アーシェ」
「だめよ……だめよ、エルレイン。あなたは聖騎士なのよ。神と教会に仕える聖騎士なのよ? 叙勲で誓ったんでしょう? こんなことして……“悪魔”に攫われて、司祭の資格も失くして“悪魔憑き”になった私と結婚だなんて、だめよ。破門されたらどうするの」
「君は“悪魔”でも“悪魔憑き”でもない。私がわかっている」
震えるアストリッドを、エルレインは優しく抱き締めた。
「大丈夫だよ。私は今度こそアーシェを護ると決めたんだ。遥か高みより我らを導く聖なるお方の尊い御名に誓って、今度こそ君を護ると」
エルレインは何度も何度も背を撫でて、アストリッドにふんわりと微笑む。
「アーシェ、だから、大丈夫だよ」
――まだ体調が思わしくないという理由で、数日は稼げるだろう。その間に、アーシェに取り憑いた何かを捕らえるのだ。
エルレインは、頭の中だけで算段を立てる。
“邪悪の真髄”探しは冒険者たちに任せればいい。
その間に、エルレイン自身はアストリッドに憑く何かを捕らえるのだ。
何かが……“悪魔”としか思えない何かがアストリッドのもとを訪れたことはわかっている。そいつを捕らえ、引導を渡し、九層地獄界の業火の中に叩き返すのは、エルレインの役目だ。
大丈夫と繰り返しながら、落ち着かせるように宥めるように優しくキスをして、エルレインはきつくきつくアストリッドを抱き締めた。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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囚われの姫〜異世界でヴァンパイアたちに溺愛されて〜
月嶋ゆのん
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