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1.事件
惨劇
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「う、あ……」
ぼんやりと霞む視界には、転がったランプからこぼれた油に移った炎と、それに照らされる、赤に染まって横たわった鎧姿の騎士しか見えなかった。
あの噂は杞憂で、この巡回だって形式的なものだと思っていたのに。
さっきまで微かに呻いていた騎士は、もうぴくりとも動かない。自分以外、誰の声も聞こえなくて、今にも意識は遠退いてしまいそうで……。
「エルレイン、助けて……」
わずかな呟きは、ちゃんと声として放たれたのかもわからなかった。
じわりと涙が滲み、石畳で冷たくなった頰を伝ってこぼれ落ちる。
ただの噂のはずだったのに。
“紅い瞳の悪魔”なんてただの伝説で、町を騒がせているのはただの夜盗だと思っていたのに。
心配そうに見送るエルレインの顔が脳裏に浮かぶ。嫌な感じがすると不安がる彼に笑って、何も心配なんかないと言ったのは、自分なのに。
* * *
「なぜかわからないけれど、嫌な予感がするんだ」
「なあに? まさか、神託って言うわけじゃないんでしょう?」
どことなく不安げな顔のエルレインにくすくす笑って、アストリッドは手を握る。
「いつもの巡回で、教会騎士も一緒だし警備兵だっているのよ。夜盗なんていくらでも返り討ちにして捕らえてやるわ」
「ああ……やっぱり当番の日程はアーシェと合わせてもらうべきだったな」
小さく溜息を漏らすエルレインを宥めるようにアストリッドはもう一度手を握り締めた。どうにも冴えない顔色のエルレインに苦笑する。
「子供じゃないのよ。聖務に私情を挟むのは良くないわ」
「わかってる。けれど、いっそこれが神託ならよかったのにと思うくらいなんだよ。だから、くれぐれも気をつけて」
「ええ、もちろんよ」
頬にキスを落とし、聖句を唱えて祝福を施すエルレインに、大げさなんだからとアストリッドは笑う。
そもそも、いつもの夜回りで町の外に出るわけじゃない。伝説の“紅い瞳の悪魔”の復活だって、“見た”という噂だけで誰も犠牲者が出ていないのだ。
不注意に夜出歩いた者が、闇に怯えて何かを見間違えただけだろう。
この“封印の町”には、町の名の由来ともなった“紅い瞳の悪魔”という魔物の伝説がある。その昔、人々の血を求めて夜な夜な町に出没した、正体不明の魔物を封じたという伝説だ。
これだけなら、魔物とはまるで吸血鬼のことを指しているようだが、違う。血を啜られて死んだものは、不死者として蘇らないからだ。
記録には、魔物の正体は悪魔に憑かれて血に狂った、この町の領主だったと記されている。領主の娘が騎士と正義の神の教会に訴え出たことでようやく魔物の正体が知れ、教会は多大な犠牲を払いつつも領主ごと魔物を封じたのだと。
彼女が、領主自らが魔物に変わっていたことに、いったいどんなきっかけで気づいたのかは伝わっていない。
けれど、そのおかげで町は再び安全な夜を取り戻せたのだ。
領主の館は焼け落ちて以来、何百年も打ち捨てられたままだ。現在では誰も立ち寄る者はなく、ただの崩れ落ちた廃墟でしかない。領主の娘は爵位を返上し、教会にこの町の自治を委ねた後、犠牲となった恋人の忘形見とともに静かに余生を送ったと伝わっている。
「アストリッド司祭」
「ええ」
月が二つとも中天に差しかかる頃、小さな悲鳴が聞こえた気がして、ぴたりと足が止まった。
つい先程まで穏やかに言葉を交わしていた五人の顔が、一瞬で引き締まる。
教会騎士も警備兵もアストリッドも、無言のまま悲鳴の上がった方向へじっと耳を澄ませた。すぐにまた、かすかな悲鳴が、けれど確かに聞こえた。
「廃墟のほうよ」
「あのあたりは人気がないから」
走り出しながら短く言葉を交わし、アストリッドは準備してある神術を頭に思い浮かべる。ただの夜盗ならいいが、夜盗が廃墟でひとを襲うだろうか?
「廃墟に、何か魔物の噂はありましたっけ?」
同じことを考えたのか、教会騎士が小さく尋ねた。
「いえ、特には。不死者の話もないですし、あそこに不審者が出入りしてる気配もなかったかと」
警備兵のひとりが否定する。
何か……それが危険なものなら、大なり小なり必ず人々の口にのぼるだろうし、それが警備兵の耳に入らないこともないだろう。教会を訪れる信者たちからだって、真偽はともかくとしてもそれらしい噂は聞こえてくるはずだ。
「塀の中から、か」
少し息を切らしながら、板を打ち付けられた廃墟の門を見上げた。
崩れた屋敷跡は、ときおり、不死者その他の魔物が出没することもあり、忌み地のような扱いとなっている。
この一角に、町のものはあまり近寄らず……こんなことなら、教会の主導でこの地を清めるべく働くべきだったと、アストリッドは顔を顰めた。
「とにかく、中を確認しましょう」
打ち付けられた板に手を当て、剥がせるだろうかとアストリッドは考える。
警備兵が、一番若いひとりに、念のため詰所へ知らせるようにと命じる。
「司祭、そこを退いてください」
門から少し離れながら声を掛けた教会騎士に、アストリッドは頷いて場所を空ける。騎士は盾を構え、門に向かって勢いよく体当たりをかました。
あまり手入れがされていなかったためか、バキンと派手な音を立てて、門扉がひしゃげ、騎士が中へと転がり込む。
アストリッドは慌てて駆け寄ると、簡単な癒しを施した。
その後ろから、油断なく剣を構えた警備兵が前に出て、あたりを窺う。
すぐに、三度目の悲鳴が聞こえた。
「さっきより弱くなってます」
アストリッドは早口に“祝福”の聖句を唱え、全員に神の加護を与える。騎士が目礼して先頭に立ち、屋敷跡の向こう側へと早足に歩き始めた。
廃墟に灯りはなく、ただ天空の月明かりだけが煌々と照らしている。おかげで、開けた場所は明るく見渡せる代わりに、影となった場所の闇は深い。
慎重に、注意を払いながらゆっくりと四人は進む。
もう、悲鳴は聞こえない。
巡回兵が駆けつけたと気づいた賊は、逃げてしまったのだろうか。緊張のためか、心臓が激しく鼓動を打っている。アストリッドの脳裏に、ふと、心配でならないと零していたエルレインの顔が浮かんだ。
――まさか、本当に“悪魔”が?
いきなりガシャンと大きく鎧を鳴らして、殿(しんがり)についていた警備兵がくぐもった声をあげた。
「おい!?」
けれど、振り向いたそこには闇ばかりで……高く掲げた角灯の届く場所に、誰も、何も見当たらない。
「おい、どこだ! 返事をしろ!」
しん、と静まり返った闇に、角灯の灯りだけがゆらゆらと揺れている。
――と、不意に誰か……何かがくすりと笑う声がした。
「“遥か高みより我らを導く聖なるお方の御名において、光よ、ここへ”!」
アストリッドが聖印を高く掲げ、祈りを捧げる。
現れた小さな光球があたりを照らし、その光を避けるように、何者かが影の中に身を引いた。
気づいた騎士が、待て、と剣を構えて走る。
「気を付けて!」
遅れて警備兵とアストリッドが後に続く。
が、いきなりどさりと音がして、ぷんと生臭い臭いが鼻についた。
続けて、くぐもった呻き声が耳に届く。
影に潜む何かが、何をしたのかがよくわからなかった。
教会騎士が構えた剣を振り下ろす前に、いきなり倒れたのだ。
「何、なの……」
影の中に立っているものは、黒っぽい、人のような者に見えた。
角灯の灯りにゆらゆらと揺れて、まるで、頭からすっぽりとマントを被った人間の影のように。
アストリッドは、呆然と、死と殺戮の神に仕える暗殺者なのかと考え……今度は“加護の祈り”の聖句を頭に浮かべたところで、それと目が合った、気がした。
「――ひ」
恐怖に呑まれそうになって、息を呑んだ。
人だと思ったけれど、これは人じゃない。
人が、こんな禍々しい空気を纏えるものだろうか。
どうにか落ち着こうと荒く息を吐いて、アストリッドは祈りの聖句を口にする。恋人の名を呼んで、私に勇気を、と呟く。
また、どさりと倒れる音にハッと我に返り、癒しの聖句を唱えようとする。
「“遥か高みより我らを導く尊きお方の……”、あっ!」
人影がいきなり目の前に迫った。聖句が途切れ、身体が痛みに襲われる。
何が起こったのか、認識が付いていかない。
「何者、なの……にん、げん?」
震える手に触れたものを掴むと、目の前の人影の纏うマントがずれた。その奥は相変わらず影になっていたけれど……アストリッドは大きく目を瞠る。
「おまえ、その、目」
濃い影の中、紅く輝く目を、まともに見てしまう。
途端に強く蹴り飛ばされ、仰け反り倒れた。そのまま、痛みで力も入らず、転がったまま浅く息を吐く。
「どうして……」
視界が霞む。
警備兵が呻く声に、癒しを、と考えるけれど、声が出ない。
刺された腹が焼け付くように熱いのに、手足の先が冷えていく。どうやら、結構な血が流れているらしい。
祈りの聖句は頭に浮かぶのに、まったくと言っていいほど、必要な集中ができない。神術が、使えない。
場は、すぐに新たな血の臭いと呻き声だけになる。
「エルレイン……たすけて……」
ひとり戻った警備兵が応援を連れて来るまで、あとどれくらいかかるのだろう。この廃墟から一番近い詰所は、西門だろうか。普通に歩けば半刻ほどだ。応援が到着するまで、それからこの暗がりに倒れる自分たちを見つけるまで、いったいどれほどかかるのか。
いつの間にか、呻き声も止んでいた。
小さく息を吐いて、「エルレイン」と掠れた囁きを漏らす。
「それは、お前の恋人の名前か?」
不意に声が降ってきた。
くつくつと楽しそうな笑い声の主に目をやろうとしたが、よく見えなかった。
「助けを願うか?」
ぼんやりとした視界に、長い髪がさらりと垂れ下がる。小さな火に照らされて、赤く揺らめきながら輝く長い髪が。
だから、これはエルレインじゃない。
「このまま放っておけば、お前は四半刻も保たずに死ぬだろう。お前の呼ぶ“エルレイン”も間に合わない。
――わたしに、助けてほしいと願うか?」
近い場所から聞こえるやや高めの若い男の声は笑いを含んで、けれど心地よく響き……アストリッドには、まるで、悪魔の囁きのように聞こえた。
ひとの耳に甘言を囁き、堕落させる悪魔がここにいる。
「私、は……」
耳に、男の息がかかる。
死にかけているアストリッドの心臓が、どくんと強く脈打った。
「恋人なのだろう? このまま死ねば、もう会えないな」
「あ……」
脳裏にエルレインの顔が浮かんだ。
今日は嫌な予感がするというエルレインの心配を一笑に付すなんて。
彼が懸念していたことが起きてしまうなんて。
涙がひとつこぼれ落ちる。
エルレイン、助けて。会いたい。死にたくない。死にたく……。
「生き、たい」
アストリッドの耳に聞こえるのは、くすくすと笑う声だけだった。
ぼんやりと霞む視界には、転がったランプからこぼれた油に移った炎と、それに照らされる、赤に染まって横たわった鎧姿の騎士しか見えなかった。
あの噂は杞憂で、この巡回だって形式的なものだと思っていたのに。
さっきまで微かに呻いていた騎士は、もうぴくりとも動かない。自分以外、誰の声も聞こえなくて、今にも意識は遠退いてしまいそうで……。
「エルレイン、助けて……」
わずかな呟きは、ちゃんと声として放たれたのかもわからなかった。
じわりと涙が滲み、石畳で冷たくなった頰を伝ってこぼれ落ちる。
ただの噂のはずだったのに。
“紅い瞳の悪魔”なんてただの伝説で、町を騒がせているのはただの夜盗だと思っていたのに。
心配そうに見送るエルレインの顔が脳裏に浮かぶ。嫌な感じがすると不安がる彼に笑って、何も心配なんかないと言ったのは、自分なのに。
* * *
「なぜかわからないけれど、嫌な予感がするんだ」
「なあに? まさか、神託って言うわけじゃないんでしょう?」
どことなく不安げな顔のエルレインにくすくす笑って、アストリッドは手を握る。
「いつもの巡回で、教会騎士も一緒だし警備兵だっているのよ。夜盗なんていくらでも返り討ちにして捕らえてやるわ」
「ああ……やっぱり当番の日程はアーシェと合わせてもらうべきだったな」
小さく溜息を漏らすエルレインを宥めるようにアストリッドはもう一度手を握り締めた。どうにも冴えない顔色のエルレインに苦笑する。
「子供じゃないのよ。聖務に私情を挟むのは良くないわ」
「わかってる。けれど、いっそこれが神託ならよかったのにと思うくらいなんだよ。だから、くれぐれも気をつけて」
「ええ、もちろんよ」
頬にキスを落とし、聖句を唱えて祝福を施すエルレインに、大げさなんだからとアストリッドは笑う。
そもそも、いつもの夜回りで町の外に出るわけじゃない。伝説の“紅い瞳の悪魔”の復活だって、“見た”という噂だけで誰も犠牲者が出ていないのだ。
不注意に夜出歩いた者が、闇に怯えて何かを見間違えただけだろう。
この“封印の町”には、町の名の由来ともなった“紅い瞳の悪魔”という魔物の伝説がある。その昔、人々の血を求めて夜な夜な町に出没した、正体不明の魔物を封じたという伝説だ。
これだけなら、魔物とはまるで吸血鬼のことを指しているようだが、違う。血を啜られて死んだものは、不死者として蘇らないからだ。
記録には、魔物の正体は悪魔に憑かれて血に狂った、この町の領主だったと記されている。領主の娘が騎士と正義の神の教会に訴え出たことでようやく魔物の正体が知れ、教会は多大な犠牲を払いつつも領主ごと魔物を封じたのだと。
彼女が、領主自らが魔物に変わっていたことに、いったいどんなきっかけで気づいたのかは伝わっていない。
けれど、そのおかげで町は再び安全な夜を取り戻せたのだ。
領主の館は焼け落ちて以来、何百年も打ち捨てられたままだ。現在では誰も立ち寄る者はなく、ただの崩れ落ちた廃墟でしかない。領主の娘は爵位を返上し、教会にこの町の自治を委ねた後、犠牲となった恋人の忘形見とともに静かに余生を送ったと伝わっている。
「アストリッド司祭」
「ええ」
月が二つとも中天に差しかかる頃、小さな悲鳴が聞こえた気がして、ぴたりと足が止まった。
つい先程まで穏やかに言葉を交わしていた五人の顔が、一瞬で引き締まる。
教会騎士も警備兵もアストリッドも、無言のまま悲鳴の上がった方向へじっと耳を澄ませた。すぐにまた、かすかな悲鳴が、けれど確かに聞こえた。
「廃墟のほうよ」
「あのあたりは人気がないから」
走り出しながら短く言葉を交わし、アストリッドは準備してある神術を頭に思い浮かべる。ただの夜盗ならいいが、夜盗が廃墟でひとを襲うだろうか?
「廃墟に、何か魔物の噂はありましたっけ?」
同じことを考えたのか、教会騎士が小さく尋ねた。
「いえ、特には。不死者の話もないですし、あそこに不審者が出入りしてる気配もなかったかと」
警備兵のひとりが否定する。
何か……それが危険なものなら、大なり小なり必ず人々の口にのぼるだろうし、それが警備兵の耳に入らないこともないだろう。教会を訪れる信者たちからだって、真偽はともかくとしてもそれらしい噂は聞こえてくるはずだ。
「塀の中から、か」
少し息を切らしながら、板を打ち付けられた廃墟の門を見上げた。
崩れた屋敷跡は、ときおり、不死者その他の魔物が出没することもあり、忌み地のような扱いとなっている。
この一角に、町のものはあまり近寄らず……こんなことなら、教会の主導でこの地を清めるべく働くべきだったと、アストリッドは顔を顰めた。
「とにかく、中を確認しましょう」
打ち付けられた板に手を当て、剥がせるだろうかとアストリッドは考える。
警備兵が、一番若いひとりに、念のため詰所へ知らせるようにと命じる。
「司祭、そこを退いてください」
門から少し離れながら声を掛けた教会騎士に、アストリッドは頷いて場所を空ける。騎士は盾を構え、門に向かって勢いよく体当たりをかました。
あまり手入れがされていなかったためか、バキンと派手な音を立てて、門扉がひしゃげ、騎士が中へと転がり込む。
アストリッドは慌てて駆け寄ると、簡単な癒しを施した。
その後ろから、油断なく剣を構えた警備兵が前に出て、あたりを窺う。
すぐに、三度目の悲鳴が聞こえた。
「さっきより弱くなってます」
アストリッドは早口に“祝福”の聖句を唱え、全員に神の加護を与える。騎士が目礼して先頭に立ち、屋敷跡の向こう側へと早足に歩き始めた。
廃墟に灯りはなく、ただ天空の月明かりだけが煌々と照らしている。おかげで、開けた場所は明るく見渡せる代わりに、影となった場所の闇は深い。
慎重に、注意を払いながらゆっくりと四人は進む。
もう、悲鳴は聞こえない。
巡回兵が駆けつけたと気づいた賊は、逃げてしまったのだろうか。緊張のためか、心臓が激しく鼓動を打っている。アストリッドの脳裏に、ふと、心配でならないと零していたエルレインの顔が浮かんだ。
――まさか、本当に“悪魔”が?
いきなりガシャンと大きく鎧を鳴らして、殿(しんがり)についていた警備兵がくぐもった声をあげた。
「おい!?」
けれど、振り向いたそこには闇ばかりで……高く掲げた角灯の届く場所に、誰も、何も見当たらない。
「おい、どこだ! 返事をしろ!」
しん、と静まり返った闇に、角灯の灯りだけがゆらゆらと揺れている。
――と、不意に誰か……何かがくすりと笑う声がした。
「“遥か高みより我らを導く聖なるお方の御名において、光よ、ここへ”!」
アストリッドが聖印を高く掲げ、祈りを捧げる。
現れた小さな光球があたりを照らし、その光を避けるように、何者かが影の中に身を引いた。
気づいた騎士が、待て、と剣を構えて走る。
「気を付けて!」
遅れて警備兵とアストリッドが後に続く。
が、いきなりどさりと音がして、ぷんと生臭い臭いが鼻についた。
続けて、くぐもった呻き声が耳に届く。
影に潜む何かが、何をしたのかがよくわからなかった。
教会騎士が構えた剣を振り下ろす前に、いきなり倒れたのだ。
「何、なの……」
影の中に立っているものは、黒っぽい、人のような者に見えた。
角灯の灯りにゆらゆらと揺れて、まるで、頭からすっぽりとマントを被った人間の影のように。
アストリッドは、呆然と、死と殺戮の神に仕える暗殺者なのかと考え……今度は“加護の祈り”の聖句を頭に浮かべたところで、それと目が合った、気がした。
「――ひ」
恐怖に呑まれそうになって、息を呑んだ。
人だと思ったけれど、これは人じゃない。
人が、こんな禍々しい空気を纏えるものだろうか。
どうにか落ち着こうと荒く息を吐いて、アストリッドは祈りの聖句を口にする。恋人の名を呼んで、私に勇気を、と呟く。
また、どさりと倒れる音にハッと我に返り、癒しの聖句を唱えようとする。
「“遥か高みより我らを導く尊きお方の……”、あっ!」
人影がいきなり目の前に迫った。聖句が途切れ、身体が痛みに襲われる。
何が起こったのか、認識が付いていかない。
「何者、なの……にん、げん?」
震える手に触れたものを掴むと、目の前の人影の纏うマントがずれた。その奥は相変わらず影になっていたけれど……アストリッドは大きく目を瞠る。
「おまえ、その、目」
濃い影の中、紅く輝く目を、まともに見てしまう。
途端に強く蹴り飛ばされ、仰け反り倒れた。そのまま、痛みで力も入らず、転がったまま浅く息を吐く。
「どうして……」
視界が霞む。
警備兵が呻く声に、癒しを、と考えるけれど、声が出ない。
刺された腹が焼け付くように熱いのに、手足の先が冷えていく。どうやら、結構な血が流れているらしい。
祈りの聖句は頭に浮かぶのに、まったくと言っていいほど、必要な集中ができない。神術が、使えない。
場は、すぐに新たな血の臭いと呻き声だけになる。
「エルレイン……たすけて……」
ひとり戻った警備兵が応援を連れて来るまで、あとどれくらいかかるのだろう。この廃墟から一番近い詰所は、西門だろうか。普通に歩けば半刻ほどだ。応援が到着するまで、それからこの暗がりに倒れる自分たちを見つけるまで、いったいどれほどかかるのか。
いつの間にか、呻き声も止んでいた。
小さく息を吐いて、「エルレイン」と掠れた囁きを漏らす。
「それは、お前の恋人の名前か?」
不意に声が降ってきた。
くつくつと楽しそうな笑い声の主に目をやろうとしたが、よく見えなかった。
「助けを願うか?」
ぼんやりとした視界に、長い髪がさらりと垂れ下がる。小さな火に照らされて、赤く揺らめきながら輝く長い髪が。
だから、これはエルレインじゃない。
「このまま放っておけば、お前は四半刻も保たずに死ぬだろう。お前の呼ぶ“エルレイン”も間に合わない。
――わたしに、助けてほしいと願うか?」
近い場所から聞こえるやや高めの若い男の声は笑いを含んで、けれど心地よく響き……アストリッドには、まるで、悪魔の囁きのように聞こえた。
ひとの耳に甘言を囁き、堕落させる悪魔がここにいる。
「私、は……」
耳に、男の息がかかる。
死にかけているアストリッドの心臓が、どくんと強く脈打った。
「恋人なのだろう? このまま死ねば、もう会えないな」
「あ……」
脳裏にエルレインの顔が浮かんだ。
今日は嫌な予感がするというエルレインの心配を一笑に付すなんて。
彼が懸念していたことが起きてしまうなんて。
涙がひとつこぼれ落ちる。
エルレイン、助けて。会いたい。死にたくない。死にたく……。
「生き、たい」
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