蛮族嫁婚姻譚その4:氷原の狩人と戦士になりたい娘

ぎんげつ

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野伏の仕事始め

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 そして、町の外である。

 初回の引き合わせから三日かけて、エリサの荷物は整えられた。
 本格的な冬が来るまではいいところあとひと月。まずは、今のうちに外の歩き方、野営の仕方、獣の避け方、この辺りのわかりやすい地形の見分け方……などの諸々、つまり、野外活動をするための基本を、実践で叩き込まれるのだ。
 正直、たかだかひと月程度の期間でそんなにたくさんのことを覚えられる自信なんて、エリサにはない。

「私だって、たかだかひと月程度で君が全部完璧に覚えられるとは思ってないよ」

 なら、どうしてそんな無茶を言うのだろう。
 エリサは不思議そうにヴァロを見る。

「これから冬が来る。この氷原の冬が本当に厳しいのは、君も知っているね?」
「はい」

 当然だ。
 冬――“冬と氷の女神”たる“女王”が目覚める季節、氷原は何もかもが凍りつく死の世界に変わる。その冬に“谷”を出て外で過ごそうと考えるなんて、頭のおかしい者か氏族を追放された者くらいだ。
 そして、凍れる死ばかりの世界では、本当に力のあるものだけが“女王”の試練を越えて冬を生き延びることができるのだ。

「君の訓練中でも、私の担当地域を誰かに丸投げというわけにはいかないんだ。冬だろうが何だろうが、君を連れて仕事もしなきゃいけない」
「……え?」
「冬が来る前に、君も最低限の基本を身につけて、外に慣れてもらわないとね。冬だろうが夏だろうが、数日か、下手するとひと月くらい町に戻らず野宿を続けるなんてことも珍しくない生活になるんだよ」

 さあっとエリサの顔から血の気が引いた。
 いくらなんでも、夜は町の中に戻るのだと思っていた。外で夜を過ごすなんて、それこそあり得ないと……。

「そんな、冬に外で過ごすなんて、“女王”の試練を受けなきゃいけない者くらいで、よっぽど強い男でもなきゃ無理なのに、なんで……」
「大丈夫だ。そこまで無理でもない。そのための技術もちゃんと教えるんだから」

 軽い調子のヴァロに、エリサは返す言葉が浮かばない。そんなに簡単に外で冬を凌げるというなら、“女王”の試練なんて意味を失くしてしまう。
 エリサは蒼白な顔で口を噤んだまま、じっと門の外を見つめた。
 そんなエリサの様子に、ヴァロは苦笑を浮かべる。

「もちろん口で言うほど簡単じゃないよ。きちんと準備を整える必要だってある」
「それは……でも……」
「もうひとつ。神官先生に、次の冬から“谷”を出される者がいないかにも注意してくれと頼まれてる。もし、出された者がいたら全員拾ってきてくれとね」
「拾う?」
「君たちの氏族が、病気や怪我で弱った者を外に出して、“女王”の試練を受けさせるのは知ってるよ。
 神官先生はそれを黙って見過ごせないんだよ。なにしろ、神官先生の仕えている太陽神は、病気や怪我はきっちり治して皆で健やかに生きろっていう神様だから」

 この前の春、たしかに施療院のノエ高神官とヘルッタが、“谷”からヨニと一緒に何人かを連れ帰っていた。
 もちろん、全員エリサも知る“谷”の男たちだ。
 皆、酷い怪我を負ったり重い病にかかったりしたおかげでまともに戦うこともできなくなった“お荷物”で、次の冬には外へと出される運命だった。

 神子と“女王”はとても厳しい方だ。
 回復の見込みもない、まともに役目を果たせなくなった者は“谷”から出て行かなくてはならないのだといつも言っているし、実際にそうしている。

 ところが、それを聞いたノエ高神官が、捨てるなら全員自分が貰い受けると言って町に連れ帰ってきたのだ。
 幸いなことに、今は皆それなりに回復して、施療院で何かしらの仕事を手伝うようになった。けれど、回復しなかったらどうするつもりだったのかと、エリサは今も疑問に思っている。

 ――それを、これからも続けるというのか。
 まさか、本気でこの先も“お荷物”を引き受けるつもりだったとは。

「まあ、君たちの信仰している“女王”自身がそう教えてるんだから、仕方ないことではあるんだけどねえ……」
「町って、不思議」
「ん?」
「だって、“お荷物”は何もできなくて食べ物を食い潰すだけなのに、拾うとか……」
「そんなことはないさ。現に、春に引き取った者たちも働けるようになっただろう? たしかに以前ほどの戦いぶりを見せるのは無理かもしれないけれど、戦うこと以外にいくらでも仕事はあるからね」
「それに、神子様は治らないって言ったのに、治るなんて」
「太陽神の神官は治すことにかけては誰の追随も許さないものだよ。それが、太陽神が神官に与えた役目だからね」

 ヘルッタもアイニも、もちろんパルヴィも、夫を決めてほとんど町に馴染んでしまった。タラーラも、地母神の司祭にくっついて回って、町の人間のように振る舞うようになってしまった。自分も、こうして“女王”や神子の教えに背いて武器を持ち、氷原に出ようとしてるのだ。もう、町の人間になってしまったと言えるのかもしれない。
 だったら、“谷”の掟をいちいち気にしてはいけないのだろう。
 従うのなら、町の掟に従わなきゃいけないのだ。

「――私、試練を受ける者がいつどこに出されるか、知ってる」
「じゃ、時期になったらエリサに案内してもらおう」

 小さく頷くエリサの頭をポンとひとつ叩いて「行こうか」とヴァロは歩き出す。
 顔を上げたエリサの眼前には、夏の盛りを超えて未だ緑を保つ、遥か遠くまで続く平原が広がっていた。


 * * *


「まずは、町の近くからだ」

 そう言われて、町の影が見える範囲をあちこちと連れ回された。
 見えるといってもポツンと小さな影に見える程度で、歩いて戻ろうとしたら昼の太陽が地平に傾くくらいの時間が掛かるだろう。
 “谷”と羊の放牧場よりも離れている。

「これで、近いの?」
「ああ。町が見えるからね。それに、この距離なら走れば一刻二時間もかからない。私たちが巡回する範囲は、これよりずっと遠くまで広がっている」

 ぽかんと口を開けて、エリサは町とヴァロを見比べる。
 でも、“谷”はまだ遠かったはずだ。“谷”から町は見えなかった――が。

「まさか、“谷”よりも遠くへ行くの?」
「もちろん。今や、君たちの“谷”だって私たちが守るべき範囲に入ってるんだからね」

 エリサの目がさらにまん丸に見開かれる。
 じゃあ、町は本気で“北爪谷”の民を仲間だと思っているのか。“谷”の男が本当はどう考えてるかもわからないのに。

 エリサはぽかんと口を開けて町の影とヴァロを見比べる。
 今まで戦った他の氏族に、協定を結んだから仲間だなんてわざわざ守りの手を広げるものはなかった。もちろん、北爪谷の一族だってそんなことしない。
 何か変わったことがあれば近隣の友好的な氏族へ警告を送ったりはするが、そのくらいだ。それ以上の手助けなんてあり得ない。

「町って、本当に変わってる……」
「これは、町というよりは領主殿の意向かな。領主殿はこういう過酷な環境で生きていくなら、戦うよりは手を結んだ方がいいと考えてるからね。
 “都”で学んだ魔術師がいったいどんな領主になるのかと思ったけれど、この町はどうやらアタリを引いたらしいよ」

 くっくっと笑うヴァロの後に続いて、エリサは歩き出す。その横に並んで、のんびりとフロスティも歩き出す。
 町の向こうには北壁山脈……谷では“壁の山”と呼ぶ大きな山の陰が、壁のように連なって遥か遠くまで続いている。

「しばらくは町に戻らず、氷原を歩くことになるよ。
 この季節……次の冬の訪れまでは、地面も凍っていないし苔や草もあるから歩きやすいけど、氷河には気をつけて。滑りやすいし、何より、裂け目クレヴァスに落ちたら命取りだ」

 エリサは頷いた。

 谷でも、数年にひとりかふたり、狩りに出たまま戻らない男はいた。皆、“女王”の眠りを守る戦士として召されたのだと、神子が言っていた。
 冬が終わって次の冬が来るまで、“女王”は厚い氷の下で深い眠りにつく。その眠りを妨げるものが来ないよう、“女王”に召された戦士たちが守りにつくのだ。

 町に送られるまで、エリサも他の女たちと同様、“谷”のほかには山側に広がる羊の放牧地までしか出たことがなかった。
 町に送られてからも、町があんな小さく見えるほど遠くまででることになるなんて、少しも考えたことはなかった。
 こんな、見渡す限り広がる氷原で、しかも何日も、昼も夜も出たままなんて。

 大丈夫だろうかと、エリサは少しだけ不安になる。
 けれど、前を行くヴァロの背中と隣を歩くフロスティの柔らかい毛並の感触に、なんとかなるんじゃないかと、すぐに思い直した。
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