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4.ミカちゃんとご近所さん
8.試される日
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「律子さんいらっしゃい!」
「ええと、今日はよろしくお願いします」
今日はバレンタインデーという女子力が試されるイベントの前日。つまり、その女子力を盛るためにチョコを作らなければならない日である。
ちなみに、瑠夏さんのお宅の台所をお借りしての作成だ。うちはミカちゃんが常駐しているから。
「あ、律子さん、紹介するね。イリヴァーラさん。お兄ちゃんの彼女なんだ」
「よろしくお願いします……ねえ、ルカ、彼女とか恥ずかしいからやめて」
「初めまして」
ついでに、今日一緒にチョコ作りをするというお友達も紹介してもらった。あの天使の仲間で魔法使いで黒妖精というイリヴァーラさんだ。瑠夏さんのお兄さんとお付き合いしているらしい。
黒妖精ってなんだろうと思っていたけど、RPGとかでよく見かけるダークエルフだった。髪は白とか銀とかそんな色で、肌は黒。黒人みたいな黒褐色ではなく、本当に黒。こんな肌色があるんだ、なんてちょっと感動した。
それと、彼女はもしやクーデレというタイプじゃないだろうか。冷静そうなツンとすました表情と淡々とした口調のわりに、彼女という単語を恥じらうようすはなかなかぐっとくるものがある。二次元じゃないクーデレなんて初めて見た。
「料理はともかく、お菓子を作るなんて初めてなのよ。ええと、チョコレートブラウニー? あんなの、職人じゃなきゃ作れないものだと思ってたわ」
素人でも簡単に作れるという触れ込みの手作りレシピをじっくりと眺めながら、イリヴァーラさんが呟く。
天使と同郷というから、彼女も天国出身なんだろう。天国には菓子職人もいるのか、と変なところで感心する。
それにしても、この人は日本語ペラペラなんだなと、未だちょっとカタコトっぽい発音のナイアラを思い出した。
やはり、魔法使いというのは頭がいいものなのだろうか。
「まあ……作るのと美味しくきれいに作るのは別なものだから」
あはは、と必要な道具を並べる瑠夏さんが笑う。
その意見にはまったくもって同意だ。同意しかない。
やはり瑠夏さんは同志だ。
「うん、その通りだよね」
私も力強く頷く。
「……こないだミカちゃんがさ、律子さんはキャラメルとナッツどちらがお好みですかとか、ラムレーズンは大丈夫ですかとか聞いてきててさ……私、明日、嫌な予感しかしないんだ」
「えっ、ミカさんてまさかお菓子作りもできちゃうの?」
目を丸くする瑠夏さんに、私はゆっくりと頷く。ミカちゃんがあれで相当勉強熱心だということは判明している。
おばあちゃんの知恵袋的な小技から料理のレパートリーまでを日々蓄えて行った結果、今では家事のプロと呼んでいいレベルだ。
もし自分がミカちゃんと同じくらい家にいたとしても、ミカちゃんと同等のレベルでハウスキーピングが可能などとはとうてい思えない。私ひとりで生活していたときよりも、あのアパートの部屋は数段きれいに保たれているのだ。
「たまにケーキとか焼いてくれるんだよね。クリスマスケーキも、たぶん、ミカちゃんのお手製だったと思うし。
ミカちゃん器用すぎ。デコレーションもそこそこ凝っててきれいだった」
「うわあ……」
眉根を寄せて呟くような私の言葉に、瑠夏さんは顔を引き攣らせる。
うん、女子としての立場がないよね。わかってくれるよね。
「ええと、その、ミカって吸血鬼って聞いてるのだけど……こっちでは、吸血鬼も料理をしたりするの?」
「他は知らないけど、ミカちゃんはめちゃくちゃやってくれるんだよ。体調とかまで気を配ってバランスもばっちり。おかげで今年はまだ風邪知らずなんだ」
イリヴァーラさんまでが微妙な表情で黙り込んでしまう。何かショックだったようだが、イリヴァーラさんも、私のこのなんとも言えないもやもやした気持ちを理解してくれるのだろうか。
イリヴァーラさんは天使の仲間でも、同志認定していいのだろうか。
「あ、ねえ、天使……じゃなくって、カイルはどうなの? なんか家事とか全然出来なさそうに見えたけど」
「うん、ええと、ちょっとしたことならそれなりにできるみたい。服の繕い物程度ならやってるの見たことある。
なんか、教会の聖騎士って、基本的に自分の面倒は自分で見なきゃいけないみたいなんだよね」
「へえ?」
繕い物をする天使。なかなかシュールな絵面ではないだろうか。
喋りながら、瑠夏さんが粉を計り、ボウルに乗せた粉ふるいの中に空ける。ココアパウダーもそのうえに空けると、粉ふるいをとんとんと叩いてボウルの中に粉を落としていく。
「でも、料理は、料理っていうか……バーベキューレベル? 肉切って焼く、くらいならって感じ」
「ああ、カイルならそうね。彼の料理……っていうか、食事を用意させると、食べられればいいってものになるのよ。だから、野営中の食事当番はだいたいナイアラかヘスカンだったわ。あのふたり、結構舌が肥えててうるさいから」
レシピの内容を睨むように見つめながら、イリヴァーラさんも頷く。
野営って、キャンプ? 天国でもキャンプがあるのか。
「ねえ、バターを室温で柔らかくって、何度くらいにすればいいのかしら」
「ええと、しばらく放置しておくと勝手に温まって柔らかくなるんだけど、だから部屋と同じくらい?」
そういえば、バターは先に出しておかないといけなかったっけ、と考えながら適当に答えると、イリヴァーラさんが「そういうものなの」とバターを計り始めた。目盛りをじっと睨んで、「ぴったりって結構難しいのね」と呟いている。
「ヘスカンて、たまにカレヴィさんと食べ歩きしてるひとだよね。銀色の。ナイアラと3人で。美味しいものを食べるだけじゃないんだ?」
「そうね。彼はさすが知識神の司祭だけあって研究熱心よ。こっちは調味料が豊富だからって、いろいろ集めてあっちに持ち込んでるみたい。
こっちのなんとかっていう美食ガイドの本もお気に入りね」
たしかに、見かける時はいつもあのコンビニ前だし、基本、これからどれそれを食べに行くんだって話しかしない。
知識神て、どこの教会だかは知らないけれど、司祭というのはつまり聖職者だろう。そんなに享楽的でいいのだろうか。
「バターの温度って、どれで測ればいいの?」
「え? 温度って?」
「だって、室温にするんでしょう? 今、この部屋は二十四度だから、そこまで温度を上げるのよね」
イリヴァーラさんが室温計を指差し、バター用の温度計はあるかと瑠夏さんに尋ねる。バターの温度ってそんなにきっちり測るものだっけ?
「え、いや、ええと、泡立て器で混ぜられるくらいに柔らかくなればいいはずだから、そんなに厳密に温度測らなくてもいいんじゃ……」
「そうなの? でも、温度管理もきちんとしないと、この説明通りのものができないんじゃ……?」
「いやいや、そんなことはないから」
眉間に皺を寄せてバターを見つめるイリヴァーラさんは、「そういうものでいいのかしら」と呟きながら、今度は砂糖を計り始めた。
大さじですり切り一杯をきっちりすり切るようすは、まるで理科の実験で薬品を測っているかのようだ。上皿天秤に乗せた重りと釣り合うように薬品を皿に乗せる……そんな表情だった。
「ねえ、あんまりチョコっぽくないんだけど、もうちょっとココア入れたほうがいいかな?」
「え?」
今度は瑠夏さんが振るった粉をじっと見つめながら尋ねてきた。
「なんか白すぎない?」
「いや、分量どおりで大丈夫なはずだけど」
「でも、もうちょっとココア入れたほうが、チョコ感増しそうだよね?」
「いやいやいや、素人がレシピ改変は、事故の元だから」
そうかなあ、とちょっと不満そうな顔になる瑠夏さんは、もしやアレンジャーというやつなんだろうか。
これから作るブラウニーがカカオ九十パーセントチョコみたいなものになってしまったら、目も当てられないだろう。
それからも、目分量で見切り発車しようとする瑠夏さんを抑え、実験か何かのように計量やら温度管理やらで止まってはあれこれ検証しようとするイリヴァーラさんを促し、どうなることかと思いつつもチョコブラウニーが焼き上がった。
余ったタネでカップケーキ風に焼いたものを食べてみたが、まあまあだと思う。
私自身も、お菓子作りなんて最後にやったのはいったい何年前だろうというレベルだ。正直不安しかなかったが、さすが、会社の後輩がド素人でもばっちり美味しく作れると太鼓判を押すレシピだ。なかなか美味しくできたのではないだろうか。
「……あ」
焼きあがったチョコブラウニーを冷ますため、型に入れたままテーブルのうえに置いたところで、気がついた。
「胡桃入れるの、忘れたね」
焼く前にタネに混ぜ込むはずだった、砕いた胡桃の小袋がちょこんと残っていた。もちろん、中には胡桃がしっかり入ったままだ。
「あら」
「どうしよう」
困った顔で眉尻を下げて、3人でじっと胡桃を見つめる。
「……食べちゃおうか。きれいに食べちゃって、胡桃なんか最初からなかったってことにすれば問題ないし」
「律子さん頭いい!」
「ねえ、それでいいの?」
「平気平気。なかったんだから仕方ない。胡桃などはじめからなかったでござる! ってことにしよう」
「そうそう」
「ちょ、それってどうなの? 本当にそれでいいの、ねえ?」
うん、胡桃が入ってると食感がどーたらこーたらだったはずだから、無くてもきっと問題ない。大丈夫。
「さっき味見して美味しかったでしょ。だから大丈夫。美味しいは正義」
「これで、カイルに料理してるの見たことないとか言わせないもんね」
「本当にいいのかしら……」
やたら燃え上がる瑠夏さんとやたら心配するイリヴァーラさんのふたりを、まあまあと宥めてお茶にする。ブラウニーが冷めるのを待ちながら、お茶を飲んでおしゃべりをするのも楽しいものなのだ。
胡桃をつまみつつお茶を飲んでおしゃべりに興じるというのも、なかなかいいじゃないか。うん。
「まあ、世の中すべてが己の思い通りになどならないものなのだよ。うん。
そろそろ冷めたと思うから、ラッピングしようか」
「うん、私、これ用意したんだ。なんかカイルっぽいかなって」
瑠夏さんが出したのは、白地に鳩をエンボスしたもので……。
「天使の翼って、鳩の翼なんだ?」
「え? よくわかんないけど、真っ白だし、そうかも。インコみたいないい匂いもするんだよ」
思わず噴き出しそうになるのを堪えて、「そうなんだ」と返す。
鳩の翼でインコ臭。
みるみるうちに天使のありがたみがマイナスにへこんでいく。
イリヴァーラさんの肩も微妙に震えている。
イリヴァーラさんは、わりとオーソドックスな箱だ。箱に入れてちょっとかわいいペーパーバッグに入れるつもりらしい。
「もっと凝ったものにしようと思ったけど、難しくて……」
実は少し練習したものの、どうにもうまくできずに断念したらしい。
クーデレで不器用って、このひと実は女子力高くないか? いや、女子力っていうより萌え力? 今度、瑠夏さんのお兄さんも見せてもらおう。
「律子さんのは、これ?」
「そう。簡単で見栄えが良さそうだったから」
フィルム製の袋に、小さめに四角く切ったブラウニーを入れ、ちょっとかわいい口金で止めながら頷く。
私は己の力量を理解しているから、無茶はしない主義なのだ。
ラッピングまで終えたところでもう一度お茶にした。
余ったブラウニーを食べながら、お互いの健闘を祈りつつ、明日へのイメトレをするのだ。私は予想される精神的ダメージにも備えておこう。
翌日、ミカちゃんにブラウニーをあげると、意外に喜んでくれた。
だが、私もミカちゃんからお手製だというガナッシュをもらってしまった。ガナッシュ、柔らかくて口どけも良くてめちゃくちゃ美味しい。美味しさのあまり、「やっぱミカちゃんは女装しようか」とつい言ってしまうくらいだ。
だって、美女に女子力で負けたなら、まだ諦めがつくじゃないか。いかに王子様系イケメンであっても、こういうところで負けるのは解せないのだ。
そんな私に、ミカちゃんはとてもいい笑顔を浮かべて、「チョコレート、食べさせて差し上げますね」などと言い出した。
ぐいと迫り来て私を抱え込むこれは、もしや恵方巻再びの体勢じゃなかろうかと逃げようとしたけれど、後の祭りだった。
チョコレートを食べた私は、結局いい笑顔のミカちゃんに美味しくいただかれてしまったのだった。
**********
おまけの一方その頃。
「ひ、非常に不本意なのだが……こちらのバレンタインデーというもののひと月後には、ホワイトデーという立場を逆転させたイベントがあるのだと聞いた。
いったいどういうものなのか」
めちゃくちゃ不機嫌そうな顔で尋ねる天使を、ミカは鼻で笑う。
「ホワイトデーですか? そうですね、まず、いただいたチョコレートの価値の十倍に相当する価値のものをプレゼントとして用意します」
「十倍……」
天使はゴクリと唾を飲み込んだ。
なかなかに厳しいイベントらしい。
「ここで重要なのは、ただ価値があれば良いというわけではないことです。あくまでも、お相手の望むものでなくてはいけません」
「望むもの……」
「そして、ここがいちばん重要なところですが」
「な、なんだ」
「明日、お相手が用意しているものは手作りでしょう。つまり、プライスレス。価値などはかりようのない逸品です。ですから、あなたもそれに見合うもの、価値などはかりようのない逸品を用意せねばならない」
「……そ、んな」
天使はわずかに青ざめた。
ルカの望むもので価値などはかりようのない逸品……。
「ひと月あるのですから、じっくりと考えてみることです。それと、先日の誕生日の際に計画したような、特別なデートプランを立てる必要もありますからね」
「なに……?」
天使は打ちのめされたような表情で、「こちらはなんて過酷な世界なんだ」と呟いた。
「ええと、今日はよろしくお願いします」
今日はバレンタインデーという女子力が試されるイベントの前日。つまり、その女子力を盛るためにチョコを作らなければならない日である。
ちなみに、瑠夏さんのお宅の台所をお借りしての作成だ。うちはミカちゃんが常駐しているから。
「あ、律子さん、紹介するね。イリヴァーラさん。お兄ちゃんの彼女なんだ」
「よろしくお願いします……ねえ、ルカ、彼女とか恥ずかしいからやめて」
「初めまして」
ついでに、今日一緒にチョコ作りをするというお友達も紹介してもらった。あの天使の仲間で魔法使いで黒妖精というイリヴァーラさんだ。瑠夏さんのお兄さんとお付き合いしているらしい。
黒妖精ってなんだろうと思っていたけど、RPGとかでよく見かけるダークエルフだった。髪は白とか銀とかそんな色で、肌は黒。黒人みたいな黒褐色ではなく、本当に黒。こんな肌色があるんだ、なんてちょっと感動した。
それと、彼女はもしやクーデレというタイプじゃないだろうか。冷静そうなツンとすました表情と淡々とした口調のわりに、彼女という単語を恥じらうようすはなかなかぐっとくるものがある。二次元じゃないクーデレなんて初めて見た。
「料理はともかく、お菓子を作るなんて初めてなのよ。ええと、チョコレートブラウニー? あんなの、職人じゃなきゃ作れないものだと思ってたわ」
素人でも簡単に作れるという触れ込みの手作りレシピをじっくりと眺めながら、イリヴァーラさんが呟く。
天使と同郷というから、彼女も天国出身なんだろう。天国には菓子職人もいるのか、と変なところで感心する。
それにしても、この人は日本語ペラペラなんだなと、未だちょっとカタコトっぽい発音のナイアラを思い出した。
やはり、魔法使いというのは頭がいいものなのだろうか。
「まあ……作るのと美味しくきれいに作るのは別なものだから」
あはは、と必要な道具を並べる瑠夏さんが笑う。
その意見にはまったくもって同意だ。同意しかない。
やはり瑠夏さんは同志だ。
「うん、その通りだよね」
私も力強く頷く。
「……こないだミカちゃんがさ、律子さんはキャラメルとナッツどちらがお好みですかとか、ラムレーズンは大丈夫ですかとか聞いてきててさ……私、明日、嫌な予感しかしないんだ」
「えっ、ミカさんてまさかお菓子作りもできちゃうの?」
目を丸くする瑠夏さんに、私はゆっくりと頷く。ミカちゃんがあれで相当勉強熱心だということは判明している。
おばあちゃんの知恵袋的な小技から料理のレパートリーまでを日々蓄えて行った結果、今では家事のプロと呼んでいいレベルだ。
もし自分がミカちゃんと同じくらい家にいたとしても、ミカちゃんと同等のレベルでハウスキーピングが可能などとはとうてい思えない。私ひとりで生活していたときよりも、あのアパートの部屋は数段きれいに保たれているのだ。
「たまにケーキとか焼いてくれるんだよね。クリスマスケーキも、たぶん、ミカちゃんのお手製だったと思うし。
ミカちゃん器用すぎ。デコレーションもそこそこ凝っててきれいだった」
「うわあ……」
眉根を寄せて呟くような私の言葉に、瑠夏さんは顔を引き攣らせる。
うん、女子としての立場がないよね。わかってくれるよね。
「ええと、その、ミカって吸血鬼って聞いてるのだけど……こっちでは、吸血鬼も料理をしたりするの?」
「他は知らないけど、ミカちゃんはめちゃくちゃやってくれるんだよ。体調とかまで気を配ってバランスもばっちり。おかげで今年はまだ風邪知らずなんだ」
イリヴァーラさんまでが微妙な表情で黙り込んでしまう。何かショックだったようだが、イリヴァーラさんも、私のこのなんとも言えないもやもやした気持ちを理解してくれるのだろうか。
イリヴァーラさんは天使の仲間でも、同志認定していいのだろうか。
「あ、ねえ、天使……じゃなくって、カイルはどうなの? なんか家事とか全然出来なさそうに見えたけど」
「うん、ええと、ちょっとしたことならそれなりにできるみたい。服の繕い物程度ならやってるの見たことある。
なんか、教会の聖騎士って、基本的に自分の面倒は自分で見なきゃいけないみたいなんだよね」
「へえ?」
繕い物をする天使。なかなかシュールな絵面ではないだろうか。
喋りながら、瑠夏さんが粉を計り、ボウルに乗せた粉ふるいの中に空ける。ココアパウダーもそのうえに空けると、粉ふるいをとんとんと叩いてボウルの中に粉を落としていく。
「でも、料理は、料理っていうか……バーベキューレベル? 肉切って焼く、くらいならって感じ」
「ああ、カイルならそうね。彼の料理……っていうか、食事を用意させると、食べられればいいってものになるのよ。だから、野営中の食事当番はだいたいナイアラかヘスカンだったわ。あのふたり、結構舌が肥えててうるさいから」
レシピの内容を睨むように見つめながら、イリヴァーラさんも頷く。
野営って、キャンプ? 天国でもキャンプがあるのか。
「ねえ、バターを室温で柔らかくって、何度くらいにすればいいのかしら」
「ええと、しばらく放置しておくと勝手に温まって柔らかくなるんだけど、だから部屋と同じくらい?」
そういえば、バターは先に出しておかないといけなかったっけ、と考えながら適当に答えると、イリヴァーラさんが「そういうものなの」とバターを計り始めた。目盛りをじっと睨んで、「ぴったりって結構難しいのね」と呟いている。
「ヘスカンて、たまにカレヴィさんと食べ歩きしてるひとだよね。銀色の。ナイアラと3人で。美味しいものを食べるだけじゃないんだ?」
「そうね。彼はさすが知識神の司祭だけあって研究熱心よ。こっちは調味料が豊富だからって、いろいろ集めてあっちに持ち込んでるみたい。
こっちのなんとかっていう美食ガイドの本もお気に入りね」
たしかに、見かける時はいつもあのコンビニ前だし、基本、これからどれそれを食べに行くんだって話しかしない。
知識神て、どこの教会だかは知らないけれど、司祭というのはつまり聖職者だろう。そんなに享楽的でいいのだろうか。
「バターの温度って、どれで測ればいいの?」
「え? 温度って?」
「だって、室温にするんでしょう? 今、この部屋は二十四度だから、そこまで温度を上げるのよね」
イリヴァーラさんが室温計を指差し、バター用の温度計はあるかと瑠夏さんに尋ねる。バターの温度ってそんなにきっちり測るものだっけ?
「え、いや、ええと、泡立て器で混ぜられるくらいに柔らかくなればいいはずだから、そんなに厳密に温度測らなくてもいいんじゃ……」
「そうなの? でも、温度管理もきちんとしないと、この説明通りのものができないんじゃ……?」
「いやいや、そんなことはないから」
眉間に皺を寄せてバターを見つめるイリヴァーラさんは、「そういうものでいいのかしら」と呟きながら、今度は砂糖を計り始めた。
大さじですり切り一杯をきっちりすり切るようすは、まるで理科の実験で薬品を測っているかのようだ。上皿天秤に乗せた重りと釣り合うように薬品を皿に乗せる……そんな表情だった。
「ねえ、あんまりチョコっぽくないんだけど、もうちょっとココア入れたほうがいいかな?」
「え?」
今度は瑠夏さんが振るった粉をじっと見つめながら尋ねてきた。
「なんか白すぎない?」
「いや、分量どおりで大丈夫なはずだけど」
「でも、もうちょっとココア入れたほうが、チョコ感増しそうだよね?」
「いやいやいや、素人がレシピ改変は、事故の元だから」
そうかなあ、とちょっと不満そうな顔になる瑠夏さんは、もしやアレンジャーというやつなんだろうか。
これから作るブラウニーがカカオ九十パーセントチョコみたいなものになってしまったら、目も当てられないだろう。
それからも、目分量で見切り発車しようとする瑠夏さんを抑え、実験か何かのように計量やら温度管理やらで止まってはあれこれ検証しようとするイリヴァーラさんを促し、どうなることかと思いつつもチョコブラウニーが焼き上がった。
余ったタネでカップケーキ風に焼いたものを食べてみたが、まあまあだと思う。
私自身も、お菓子作りなんて最後にやったのはいったい何年前だろうというレベルだ。正直不安しかなかったが、さすが、会社の後輩がド素人でもばっちり美味しく作れると太鼓判を押すレシピだ。なかなか美味しくできたのではないだろうか。
「……あ」
焼きあがったチョコブラウニーを冷ますため、型に入れたままテーブルのうえに置いたところで、気がついた。
「胡桃入れるの、忘れたね」
焼く前にタネに混ぜ込むはずだった、砕いた胡桃の小袋がちょこんと残っていた。もちろん、中には胡桃がしっかり入ったままだ。
「あら」
「どうしよう」
困った顔で眉尻を下げて、3人でじっと胡桃を見つめる。
「……食べちゃおうか。きれいに食べちゃって、胡桃なんか最初からなかったってことにすれば問題ないし」
「律子さん頭いい!」
「ねえ、それでいいの?」
「平気平気。なかったんだから仕方ない。胡桃などはじめからなかったでござる! ってことにしよう」
「そうそう」
「ちょ、それってどうなの? 本当にそれでいいの、ねえ?」
うん、胡桃が入ってると食感がどーたらこーたらだったはずだから、無くてもきっと問題ない。大丈夫。
「さっき味見して美味しかったでしょ。だから大丈夫。美味しいは正義」
「これで、カイルに料理してるの見たことないとか言わせないもんね」
「本当にいいのかしら……」
やたら燃え上がる瑠夏さんとやたら心配するイリヴァーラさんのふたりを、まあまあと宥めてお茶にする。ブラウニーが冷めるのを待ちながら、お茶を飲んでおしゃべりをするのも楽しいものなのだ。
胡桃をつまみつつお茶を飲んでおしゃべりに興じるというのも、なかなかいいじゃないか。うん。
「まあ、世の中すべてが己の思い通りになどならないものなのだよ。うん。
そろそろ冷めたと思うから、ラッピングしようか」
「うん、私、これ用意したんだ。なんかカイルっぽいかなって」
瑠夏さんが出したのは、白地に鳩をエンボスしたもので……。
「天使の翼って、鳩の翼なんだ?」
「え? よくわかんないけど、真っ白だし、そうかも。インコみたいないい匂いもするんだよ」
思わず噴き出しそうになるのを堪えて、「そうなんだ」と返す。
鳩の翼でインコ臭。
みるみるうちに天使のありがたみがマイナスにへこんでいく。
イリヴァーラさんの肩も微妙に震えている。
イリヴァーラさんは、わりとオーソドックスな箱だ。箱に入れてちょっとかわいいペーパーバッグに入れるつもりらしい。
「もっと凝ったものにしようと思ったけど、難しくて……」
実は少し練習したものの、どうにもうまくできずに断念したらしい。
クーデレで不器用って、このひと実は女子力高くないか? いや、女子力っていうより萌え力? 今度、瑠夏さんのお兄さんも見せてもらおう。
「律子さんのは、これ?」
「そう。簡単で見栄えが良さそうだったから」
フィルム製の袋に、小さめに四角く切ったブラウニーを入れ、ちょっとかわいい口金で止めながら頷く。
私は己の力量を理解しているから、無茶はしない主義なのだ。
ラッピングまで終えたところでもう一度お茶にした。
余ったブラウニーを食べながら、お互いの健闘を祈りつつ、明日へのイメトレをするのだ。私は予想される精神的ダメージにも備えておこう。
翌日、ミカちゃんにブラウニーをあげると、意外に喜んでくれた。
だが、私もミカちゃんからお手製だというガナッシュをもらってしまった。ガナッシュ、柔らかくて口どけも良くてめちゃくちゃ美味しい。美味しさのあまり、「やっぱミカちゃんは女装しようか」とつい言ってしまうくらいだ。
だって、美女に女子力で負けたなら、まだ諦めがつくじゃないか。いかに王子様系イケメンであっても、こういうところで負けるのは解せないのだ。
そんな私に、ミカちゃんはとてもいい笑顔を浮かべて、「チョコレート、食べさせて差し上げますね」などと言い出した。
ぐいと迫り来て私を抱え込むこれは、もしや恵方巻再びの体勢じゃなかろうかと逃げようとしたけれど、後の祭りだった。
チョコレートを食べた私は、結局いい笑顔のミカちゃんに美味しくいただかれてしまったのだった。
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おまけの一方その頃。
「ひ、非常に不本意なのだが……こちらのバレンタインデーというもののひと月後には、ホワイトデーという立場を逆転させたイベントがあるのだと聞いた。
いったいどういうものなのか」
めちゃくちゃ不機嫌そうな顔で尋ねる天使を、ミカは鼻で笑う。
「ホワイトデーですか? そうですね、まず、いただいたチョコレートの価値の十倍に相当する価値のものをプレゼントとして用意します」
「十倍……」
天使はゴクリと唾を飲み込んだ。
なかなかに厳しいイベントらしい。
「ここで重要なのは、ただ価値があれば良いというわけではないことです。あくまでも、お相手の望むものでなくてはいけません」
「望むもの……」
「そして、ここがいちばん重要なところですが」
「な、なんだ」
「明日、お相手が用意しているものは手作りでしょう。つまり、プライスレス。価値などはかりようのない逸品です。ですから、あなたもそれに見合うもの、価値などはかりようのない逸品を用意せねばならない」
「……そ、んな」
天使はわずかに青ざめた。
ルカの望むもので価値などはかりようのない逸品……。
「ひと月あるのですから、じっくりと考えてみることです。それと、先日の誕生日の際に計画したような、特別なデートプランを立てる必要もありますからね」
「なに……?」
天使は打ちのめされたような表情で、「こちらはなんて過酷な世界なんだ」と呟いた。
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