上 下
36 / 38
5.お姫様 vs. 王子様

あなたでよかった

しおりを挟む
 それからも、アルトゥールの目の前でジェルヴェーズの閨教育は進んでいった。
 具体的にどうすればいいのか、よく言われる「夫に身を任せればいい」の本当の中身がどういうことなのか。

 アルトゥールは、果たしてここまで教える必要はあるのだろうか……などと疑問に思ったりもしたが、ジェルヴェーズの好奇心の強さを総合して考えれば、たしかにきちんと全てを教えておく必要はあるなと納得した。
 何しろ、もしここで全部を知ることができないとなれば、持ち前の行動力に任せ、総当たりに近い形でどこまでも追求していきそうなのだから。


 * * *


 ジェルヴェーズの閨教育は、夕食の直前まで続いた。
 屈託無いジェルヴェーズとあくまで学術的に教えるトーヴァに挟まれて、アルトゥールはひたすらいたたまれなさに耐えた。
 かつて魔術の訓練を受けていたころよりもずっと、大変だったと思う。

 そのトーヴァは、教育が終わるなり現れたネリアーに攫われて早々に引っ込んでしまったが。

 夕食を取りながら、ジェルヴェーズがいつものようにあれこれと話をする。
 けれど、今日のアルトゥールはどこかぼんやりと考え込んだまま、どこか上の空で相槌を打つばかりだった。
 頭に浮かぶのは、目の前のジェルヴェーズのことばかりだ。
 初めて会った時からはもちろん、この一年でかなり背も伸びたし、身体つきもだいぶ女性らしくなってきた。
 来年、婚姻の儀を迎える頃には、きっと大人と言っても遜色ないほどに成長しているだろう。

「ねえ、オーリャ様」
「はい?」

 ふと、急に伺うような声音のジェルヴェーズに呼ばれて、アルトゥールは首を傾げた。

「あのね、わたくしとオーリャ様の間のお部屋の鍵を、掛けないで欲しいの」

 ハッと、アルトゥールは瞠目した。
 そういえば、たしかに今朝、思い余って魔術錠を掛けたままだった。

「それは……」
「わたくしがいつでもオーリャ様とお話ができるようにして欲しいの。遅い時間に行って、ご迷惑をお掛けしないようにするから、お願い」

 ナプキンで口元を拭うふりをしながら、アルトゥールは視線を落とす。
 遅い時間……と言われ、また、昨夜のキスのことを思い出して動揺するアルトゥールを、使用人たちがおもしろそうに窺う気配を感じる。

「――わかりました」

 ようやくアルトゥールが首肯すると、ジェルヴェーズはほっと笑顔を浮かべた。

「それで、オーリャ様。この先、もしわたくしが失礼なことをしてしまったら、はっきり言って欲しいの。わたくし、ちゃんと改めるから」
「ニナ姫……鍵のことは誤解です。ニナ姫が失礼をしたわけではなくて、むしろ僕のほうが……その、何というか」
「オーリャ様が?
 でも、わたくしは何も嫌なことはされてないと思うのだけど」

 ジェルヴェーズが不思議そうに自分を見つめるが、アルトゥールはどう言ったものかと考えて、かすかに嘆息する。
 気の利いた言葉を返せない自分が、まったくもってもどかしい。

「――姫、食事中ではなく、後ほどゆっくり時間を取ってお話しましょうか」
「ええ、そうね。食事中に難しい話をするとお腹が痛くなってしまうものだって、母様も言っていたわ」

 会話は、また他愛のないものに戻る。

 一日のほとんどをこの離宮で過ごすから、ジェルヴェーズの話はこの離宮で起こったことに限られる。
 なのに、話題は次から次へと尽きることがない。庭園で見つけた花や小さな生き物のことから、使用人たちやトーヴァから聞いたという物事など、その日によって様々だ。
 アルトゥールは心の底から感心する。
 ジェルヴェーズは、常日頃から周囲の細かなところにも常に気を配っているということの証左だ。



 湯浴みを済ませた後、ジェルヴェーズは鏡で自分の格好をしっかりと確認した。
 乾かした髪は二本のお下げにゆるく編んで、前に垂らしている。今日は夜着ではなく部屋着だし、羽織ったガウンはしっかりした布地だし、これならはしたないなんて思われないだろう。

 昨晩、いきなりアルトゥールの態度が変わったのは、きっと、ジェルヴェーズが気付かないうちに、失礼なことをしてしまったからだ。
 何しろ、キスのしかたも知らなかったジェルヴェーズである。アルトゥールが気を遣って何も言わないだけなのだ。ジェルヴェーズはうっかりやらかしてなんかいない、と考えるほうがどうかしている。

 だから今夜は、入念に準備した。
 アンヌに頼んで昼ほど飾り立てず、目立たないほどほんのりと紅を乗せて、清楚さや淑やかさが前に出るようにして……香りも、抑えめに。
 これで言動にも注意すれば、同じ失敗はしでかさないだろう。

 たぶん。

 ジェルヴェーズの部屋の扉に掛けてあった鍵は、夕刻のうちにアルトゥールが解除してくれていた。カチャリと取っ手を捻るとちゃんと開くことがうれしくて、ジェルヴェーズはふふっと笑う。
 その扉の先、ふたりのための部屋を抜けて扉を叩き、じっとアルトゥールが開けるのを待った。

「ニナ姫、どうぞ」

 小さな音とともに、すぐに扉は開いた。心なしか、いつもより改まった態度のアルトゥールが、ジェルヴェーズを招き入れる。

 長椅子の前のテーブルには、すでに茶器が用意されていた。アルトゥールが待っていてくれたのだと気付いて、ジェルヴェーズの心が弾む。

 隣同士に座って、アルトゥールが入れてくれたお茶を飲んで、ジェルヴェーズは「オーリャ様」と呼び掛ける。

「はい?」
「昨夜は、わたくしが何か変なことをしてしまったのでしょう? 今日の勉強で、まだまだわたくしの知らないことばっかりだって、よくわかったわ」
「ニナ姫?」
「でも、何をしてしまったのか、どうしてもわからなかったの。だから、オーリャ様。わたくしが何をしてしまったのか、ちゃんと教えてちょうだい」

 アルトゥールは大きく目を見開いた。
 その表情に、ジェルヴェーズは、自分はやはり気付かずにとんでもないことをしでかしていたのかと、青くなってしまう。
 国許にいた頃だって、さんざん兄王子にも言われていたではないか。
 お前はもう少し考えてから動くようにしろ、と。

「あの、ニナ姫……その、違うんです」
「何が違うのかしら」

 ジェルヴェーズが眉尻を下げて不安そうに首を傾げた。
 その表情を見て、アルトゥールは慌ててしまう。
 いったい何をどう伝えたらよいものか。

 ――昨夜のキスでは、後先考えずに欲情してしまった自分こそが問題で、危ういところを触れられた感触のおかげで我に返り、慌てただけだった……なんて、どう説明すればいいのか。
 鍵だって、むしろ自分が婚儀を待たずにジェルヴェーズに手を出してしまったら、などと心配になっただけなのだ。

「姫の懸念は違うんです、その……」
「オーリャ様?」

 口ごもるアルトゥールに、ジェルヴェーズの心臓がどきどきと早鐘を打つ。
 そんなに言いづらいことをしてしまったのだろうか。もしかして、これこそが正しいと思ったキスのしかたも、実は間違えていたのだろうか。
 ジェルヴェーズがしょんぼりと項垂れた。

「わたくし、そんなに変なことをしちゃったのね……」
「ち、違います、ニナ姫!
 その、僕は、どうもこういうことを言葉にするのが不得手で、呪文ならすらすら言えるのに、今言うべきことが何も出てこなくて……」

 真っ赤な顔で勢い込んだアルトゥールは、驚くジェルヴェーズに気付いてこほんと小さく咳払いをする。
 そう、心配だらけなのは、むしろアルトゥール自身である。ジェルヴェーズに心配しなければならない点など何もない。

「ニナ姫は、何も変なことなどしていません」

 少し潤んだジェルヴェーズの目が、アルトゥールをじっと見つめている。

「その……この一年で、ニナ姫はさらにとてもきれいになられて……それに、もうこんなに立派な淑女になられて、正直なところを言えば、僕の想像をはるかに超えて、あなたは強くて美しい姫で、率直かつ素直な言葉で伝えてくださるところも、ニナ姫の尊い美点で……」

 自分は何を口走っているのか。
 焦るアルトゥールの口から出るのは、まとまりもつかず、とりとめもなく、意味のわからない言葉の連なりばかりだ。
 ジェルヴェーズが呆気に取られ、ただただアルトゥールを見上げるだけの表情に変わる。
 その、ジェルヴェーズの表情に、アルトゥールはますます混乱して……。

「いえ、そうではなくて……その、ジェルヴェーズ・ニナ・フォーレイ姫。どうか、僕とこれからの生涯を、長く共に生きていただけますか?」

 呆気に取られるばかりのジェルヴェーズの目が、いっぱいに広げられた。瞬く間に耳まで真っ赤に染まり、魚のようにぱくぱくと口を開け閉めする。

「元は国が決めた婚約でしたが……僕はニナ姫が婚約者で良かったと、心から思っているのです」
「わ、わたくしもよ! わたくしも、オーリャ様が婚約者で良かったって思ってるの、ほんとうよ!」

 良かった、とアルトゥールがふわりと笑った。
 ジェルヴェーズは、アルトゥールの笑みから目が離せない。
 ほっとしたように柔らかく笑みを浮かべるアルトゥールが、そっとジェルヴェーズの頬を撫でる。
 さらりと頬に触れる感触が、とてもとてもくすぐったい。

「では、僕たちはお互いを思っているということですね」

 アルトゥールの声に喜びがこもる。
 こくりと頷いて、ジェルヴェーズは顔を上げた。
 薔薇色に染まった頬で「わたくし、オーリャ様のこと、大好きよ」と微笑んで、アルトゥールに倒れこむように抱き着いた。

「オーリャ様、大好き」
「ニナ姫、僕も大好きです」

 ジェルヴェーズの耳元に、アルトゥールが囁き返す。
 自分の何もかもがふわふわと浮き立つようで、ジェルヴェーズは何度も何度も「大好き」と繰り返した。






◾️すごくどうでもいいオーリャさん情報
・“朱の国”はその建国の歴史ゆえに脳筋の地位が高い
・魔術師は嫌われ職だしヒョロイので基本モテない
・オーリャさんはややコミュ障気味の内向的ギーク
・兄王太子と弟王子は脳筋ウェイ系モテモテリア充

以上の理由により、オーリャさんは顔がいいわりにモテない歴=年齢という非モテ街道を歩き続けた人生だった。正直なところ、ジェルヴェーズがなんでこんなに大好き光線出してくるのか、未だによくわからなかった、ちょっとキョドり気味の二十三歳男子である。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru
恋愛
記憶を失った第二王子妃シルヴェーヌ。シルヴェーヌに寄り添う騎士クロヴィス。 元々は王太子であるセレスタンの婚約者だったにも関わらず、嫁いだのは第二王子ディオンの元だった。 実家の公爵家にも疎まれ、夫となった第二王子ディオンには愛する人がいる。 記憶が戻っても自分に居場所はあるのだろうかと悩むシルヴェーヌだった。 記憶を取り戻そうと動き始めたシルヴェーヌを支えるものと、邪魔するものが居る。 記憶が戻った時、それは、それまでの日常が崩れる時だった。 ★1話目の文末に時間的流れの追記をしました(7月26日) ●ゆっくりめの更新です(ちょっと本業とダブルヘッダーなので) ●ルビ多め。鬱陶しく感じる方もいるかも知れませんがご了承ください。  敢えて常用漢字などの読み方を変えている部分もあります。 ●作中の通貨単位はケラ。1ケラ=1円くらいの感じです。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界の創作話です。時代設定、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

何もできない王妃と言うのなら、出て行くことにします

天宮有
恋愛
国王ドスラは、王妃の私エルノアの魔法により国が守られていると信じていなかった。 側妃の発言を聞き「何もできない王妃」と言い出すようになり、私は城の人達から蔑まれてしまう。 それなら国から出て行くことにして――その後ドスラは、後悔するようになっていた。

私の恋が消えた春

豆狸
恋愛
「愛しているのは、今も昔も君だけだ……」 ──え? 風が運んできた夫の声が耳朶を打ち、私は凍りつきました。 彼の前にいるのは私ではありません。 なろう様でも公開中です。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。

恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。 キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。 けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。 セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。 キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。 『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』 キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。   そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。 ※ゆるふわ設定 ※ご都合主義 ※一話の長さがバラバラになりがち。 ※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。 ※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。

記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。

せいめ
恋愛
 メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。  頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。   ご都合主義です。誤字脱字お許しください。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

処理中です...