アフタースクール

ゆれ

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 ご尤もな意見で、眼鏡の女があとからのろのろついてきた男を一刀両断にする。御蔭で俺の怒りはやり場がなくなって、何が目的か知らないがどうやら果たされるまで、つき合わざるを得なくなったようだった。

「すこしお話があるんですが、お時間いただけます?」
「はあ……」
見城けんじょうさまのことで」

 その名前には多大なる恩義があったので、予定を遅らせて仕方なく従う。

 女はすぐ近くにあった喫茶店に入りホットコーヒーを三つ注文した。別にどこでも良かったのか行動に迷いはない。向かいの通りにはカフェもあるが、こっちは所謂昔ながらの喫茶店で一見敷居が高そうなので出入りがすくなく、客層もうんと上がって日がな一日入り浸っていることが多い。俺も家の近くなのでたまに足を運んでいた。

 フレンチトーストとハヤシライスが絶品なのだが、斜め前に座った男も目敏くそれに気づいたがにべもなく女に突っぱねられた。「お持ち帰りとかできない系?」執拗く食い下がっていたがマスターに首を振られ、しょんぼりと項垂れている。

「私は見城さまの秘書をしております石飛と申します。こちらは坂口」
「あのオッサンが、どうかしたんすか?」

 中学時代から高校時代にかけて俺は家庭の事情からすこしヤンチャをしていた時期があった。母一人子一人の家で、その母親まで病気で死んでしまって、その葬式の日にいきなり親父だという男がやって来て君を引き取ると言いだしたのだ。普通の家庭に育っても反抗期に突入する齢だったし、何故母親が生きているときは放っておいたのか、とても納得はできなかった。

 殆ど意思を無視して連れていかれた先は到底馴染めそうにない大邸宅で、しかも母親の違う兄弟とやらもいて、突然うまくやれる奴がいたら見てみたい。セオリー通りに俺は家に居着かなくなって、非行少年への道をまっしぐらに転がり落ちたというわけだった。

 喧嘩とバイクと煙草と女。その四つで俺の世界が出来ていた頃、俺は不思議なオッサンと出会った。それが見城さんだ。

 あの頃でも既にオッサンらしい外見だったと思う。十年以上経った今はいくつになっているのか、「生きてたのか」と俺のほうこそ結構な勢いで失礼な台詞を吐いたが石飛も坂口も何も言わなかった。男のほうはしまりのない、いかにも駄目っぽいヒモ臭のこれでもかとただよう面をしていたが、女は、にこりともしない真顔で俺を正面から厳しく見据えている。

 見城さんは夜回りのようなことをして、家に帰れない当時の俺のようなガキに話しかけては罵倒されたり笑われたり、或いは懐かれたりしている人だった。今もそうなのかは知らないが、俺がいた頃は有名だった。面倒くさいからと避け続ける奴もいたし逆に会えるのを心待ちにしている奴もいた。敵であり理解者でもあったのだ。

 俺も初めは煙たがっていたのだが仲間にも女にも碌に話せない家の事情を、いつしか打ち明けるようになってからは、実の父親より父親みたいに思えてかなり心を許していた。でもある日、やはり見城さんを鬱陶しがる奴に襲われて、咄嗟に助けに入った俺は見城さんの代わりに刺された。

 傷は乾いたが今でも右の肩口に残っている。痛い目に遭って冷めたというか白けたというか、まあいつまでもこうしてはいられないだろうなとは心のどこかで思っていたので、俺はそれをちょうどいい機会として更生し、今に至るわけだが。

「元気なんですか」

 入院中は毎日見舞いの品が届いたが本人の顔はついぞ見なかった。かわりに直筆と思われる詫び状が来て、俺ももう生まれ変わるつもりだから死ぬまで会うことはないんだろうな、と思ってそれで終わっていた。

 石飛はかるく伏し目をして、テーブルの上に出して組んでいた両手を入れ換える。右の小指にダイヤの指輪があった。爪も自然な色味のピンクで整えられ、清楚なイメージを完璧に演出している。ただ顔の中心に居座る眼鏡だけが、やけに存在を主張して個性的だった。

「それが、昨年お倒れになりまして」
「え」
「精密検査の結果、肺に癌がみつかりました。手術で除去には成功したんですが再発の可能性も高く、現在は社長職を退き会長として余生を過ごしておられます」
「……は?」

 社長とか会長とか、話が見えない。俺の知る見城さんはくたびれたブルゾン着て阪神のキャップをかぶって、懐中電灯片手に街を歩き回る普通のオッサンだ。もらった名刺に目を落とすと見城グループと書いてある。
 恥ずかしながら経済界にはあまり明るくない俺が、おずおず目をあげるだけで通じたようで「建設業と造船業を営む企業です。顧客は海外が七割を占めますのでご存じないかもしれませんね」と、有能秘書はさり気なく教えてくれた。

「そんなふうには……」

 見えなかった、というか大会社の社長なんていう人種に会ったことがないのでよくわからなかった。オッサンはオッサンで、別にでかい車にも乗ってなかったしごつい部下も連れてなかった、高価かそうな時計も指輪も分厚くふくらんだ財布も何にもそれらしい様子はなかったのだ。世俗にまぎれるため敢えてそうしていたのかもしれない。
 
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