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しおりを挟む車がない日にかぎって雨が降る。
「あーあ……」
それは俺が雨男とか運がないとかじゃなく、そういうふうに世界ができているのだと思う。最初パラパラと軽やかな音を立て、地表で弾むように落ちていた雨は、夕刻になり、夜が近づいて本格的な降りへと成長してしまっていた。
一応剣道部の顧問というものをしているが別に手当がつくわけじゃなし、技術面の指導は外部から先生をお呼びしていて、俺は気が向いたときだけ柔剣道場に顔を出し、部誌にハンコを捺し、鍵の管理をすればよかった。今日はそのきまぐれの日で、やはり慣れないことはするもんじゃねえなと鬱する。
真っ白い空にざあっと雨音が広がって吸い込まれる。昇降口で、ふと足を止めてばかみたいに見ていた。白というより銀の糸が無数に地上へ刺さっているような、部活生以外は既に放課後で、人影は殆どない。ただ湿って不快な空気が、弱い風では乗れずにとどまって、下駄箱や床をじめっとさせていた。
もうすぐ待ち侘びた連休がやって来る。剣道部も他の部よろしく他校との強化試合を含む合宿練習を予定している。寝て過ごしたいのはやまやまだったが、引率を頼まれては仕方ない。あいつら、おとなしくしてんだろうなと今別れてきたばかりの面々を順番に脳裏に思い浮かべてって、一抹の不安に取りつかれた。まあいい。
置き傘はこの前の雨で使ったか、誰かに貸したか、とにかく手元になかった。折り畳み傘はあまり役に立つと思えず持つ習慣自体がない。電車で帰ろうにも、駅までは徒歩10分ぐらいかかる。その間濡れっ放しというのもなんだか悔しい気がした。
同僚に乗せてもらおうかとも思ったのだが仲が良いのは帰る時間が合わなくて、仲が良いからこそ合わせてもくれない。「水も滴るいい男じゃねェかよかったな」などと腹の立つひとことを置いて帰りやがった。憶えてろ。
唯一ラッキーだったのは洗濯物を外に干すのを止めたことくらいか。家の中に吊るしたままなので、帰ったら浴室乾燥で片付けよう。なんて現実逃避してどうする。
「泊せんせー」
「何してるんですかぁ?」
「……あー、別に」
雨みてた、というのも、何か気恥ずかしくて言葉を濁したが生徒達は元から人の話など聞いちゃいないので大丈夫だった。自分の化粧がどうか、髪型がどうか、好きな男がどうか、そのくらいにしか興味を示さない。バリバリの進学校でもなく、進学と就職の割合は若干就職が勝つくらいのごくごく普通の高校なのだ。こんなもんだろう。
「傘なくてな……」
「えっマジ? 朝から雨予報でてたよ?」
「うるせえぞ」
「先生まさか傘はささない派とか?」
「かっけー!」
「そんなわけあるか」
どんな流派だよ。風邪はひくわ服や持ち物は濡れるわ、大昔ならともかく今の雨なんぞ何が混じっているかもわからないのに誰が好き好んで浴びにいくのか。すくなくても俺は御免こうむる。
休日でもないかぎり朝はテレビをつけない。座って視ていると時間を食うし、然程興味を惹く情報を得られるとも思えないから。という考えは改めるべきなんだろうか。せめて天気予報くらいは。でも食事を作ったり洗濯機を回したりしていると、聞くことすら難しいのでやっぱりつけても意味がないと思う。
「先生!」
「あ、ああ、何?」
すっかり一人の世界に入り込んでいた。俺を、不思議そうにみあげていた女子達がにこにこ笑って、「はい!」と紺地のチェックの傘を差し出してくる。折り畳み式じゃない普通の傘だ。
「この子の親が迎えにきてくれるってゆーから乗せてもらうんだ~。だから私の傘はかわいそうな先生に貸したげるよ」
「マジか」
「うん!」
そのかわりリーダーの点オマケしてねという交換条件には同意しかねるが純粋に有難かった。こうして話している間にも雨は勢いを増して、タクシーという苦渋の決断を迫られるのは目に見えていたから。明日か明後日にでも職員室に取りにくることで取引は成立する。無論オマケはなしで。
生徒の携帯が着信を知らせ、手を振りながら、ひとつの傘に仲良く入って帰っていく。後ろ姿がみえなくなるまで見送って、本当にちょっとやそっとじゃおさまらないほど降ってきたなと途方に暮れた。暗くはない。むしろほんのり陽光を感じるような、白っぽい空なのにどこから落ちてくるのか。
景色にしている分にはきれいだが。雨自体も、それに洗われて鮮やかに光る木々も、花も。
「……っ」
いつからいたんだろうか。一切気配を感じなかったのだが、下駄箱の陰で一人の男子生徒がさっきの俺みたいに外を眺めている。その手に傘はない。
あまり着崩した感じのない、タイで詰まった喉元。購入時はビビッドカラーだったんだろう薄汚れた青いバックパックには、赤いねこのかたちをしたキャラクターのちいさなぬいぐるみがぶら下がっている。砂色の髪は黙って座っていても悪目立ちするが生まれつきの色だと、わざわざ届け出があった。
羽瀬川陵河。3年になり受け持ちの生徒になる前から、実はその存在を俺は識っていた。入学する前からだ。
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