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しおりを挟む自分の声を耳で聞き、あれっと慌てて手でくちを覆ったが、一度言ったものはもう取り消せない。じわじわと頬が火照っていく。時間差で心臓が早鐘の鼓動を打ち始めて、空護は反射的に席を立ちそうになった。
手首に麗一の指がからむ。久し振りの感触とぬくもりに全身の細胞が感覚を鋭くするのがわかった。あんなに体中、触れてないところなどないくらいに触れ合っていたのに、こんなささやかな接触で肌が粟立つ。みっともない悲鳴が洩れそうになって、唇をつよく閉じる。
「座って」
「っ麗一が放せよ」
「謝りたいから」
やはり今はDomでもSubでもないようだ。きつい語調にも翻らず、手を掴まれたままなので、そうするしかなく腰を落とす。
逃げる意思はないと示したのに、整えられた指先はいつまでも空護の肌を爪弾いている。意地悪な一面も持っていたらしい。でも麗一の機嫌はなおったようだ。考え事をしていたのかもしれないが、天満の話を聞いてからどことなく、そういう雰囲気だった。
「聞くならベッドの上だと思ってたのにな」
うるさい。照れるあまり心の中で詰る。しかし言う空護も、いっそ理性を手放したときだったほうがよかった。居心地が悪くて仕様が無い。
「黙って弟くんに会ってたのは申し訳なかった。謝ります」
「てか、なんで?」
「外堀を埋めようと思って」
「……あのー」
「俺は初めからずっとそのつもりだった。空護は自分がDomだから俺が声かけたと思ってるみたいだけど、もしSubでも見つけてたよ」
「そっか、Switchだもんな」
薄い唇が上品に撓う。昼時のファストフード店だ、二階もそれなりに客が増えてきて、親密な会話をするにはとてもうってつけとは言えない状況になる。空護はすこし気を散らしていたが麗一はお構いなしだった。
不意に思いついて「仕事は?」と訊く。「まだ大丈夫」という返事はあやしいものだ。麗一のことなので、どうにでも出来るのだろう。
「というかダイナミクス関係ないんだよ。俺はひと目見たときから、どうしても空護をパートナーにしたいと思った」
たまたまホームグラウンド周辺を歩いていた姿を見かけて、聞き込んで名前を知った。あとはその道のプロに依頼すれば調査してもらえる。懐いたのが好意であれ、敵意であれ、分岐までの行動はおなじらしい。すこし笑った空護に、麗一は神妙に言葉を続ける。
「たしかに、プレイ抜きなら苦手も関係ない。――空護は、今も好きじゃない?」
その答えは麗一のほうがよく知っていそうだが、こんなところで詳しく話し込むべきでもない。それに空護が得手不得手で友達のような仲に譲歩したわけではない。
麗一が空護に見切りをつけたから。だったらせめて、普通に会うだけでも応じてくれないかと考えたのだ。
何も持ってない特に優れた点もない、もしかすると一般的でもないかもしれない人間には、自分を売り込むすべが無い。頭の中を率直にそう伝えると、麗一はかすかに首を振る。
「こっちが跪いて乞う側だったとはとても思えない感じになってるな……」
「生まれを知っても気持ち変わらなかったもんな」
「そうだよ、だって俺が調べたのはそんなことのためじゃない。絶対に逃がしたくなかったから、完璧に囲い込みたかったんだ」
「……」
麗一が自分を重いと言っていたわけがわかってきた。第一印象では軽薄とすら感じられた分、真剣さが窺えるようで、空護まで姿勢を正した。コーラは氷がとけて層になっている。もう飲めたものではないだろう。
「一回離れてったら、二度と帰ってこないと思ってた」
「ごめん」
作戦のためとはいえ別離が空護に何を思わせたか、察して麗一は素直に謝る。刹那であろうとたまらない痛苦だったのだ。もう一度、手を握ってぎゅっと力を込める。握り返してもらえることが当たり前だなんて考えない。安堵して、ありがとうと小声で呟く。
「本当に、麗一はこの先ずっとSubでもいいの」
カラーをすると、これまでぼかしてきたダイナミクスを公表したも同然になる。何も変わらないではいられないはずだ。
向こうの席で仲良く喋っている女の子の二人連れも、片方の子はカラーをしていた。特段珍しいものでもなくなっている。それでもきちんと確かめたかった。
彼のくちで、彼の声で、言ってほしかった。
「かまわないよ。空護を俺にくれるなら」
「……そう」
どこからどう見たって、自分には勿体ないような気がする。そんな麗一が、絶対に空護がいいと言うのだから、気持ちに応えたいとシンプルに思った。
年齢も肩書きも関係なく頭から押さえつけてくるような威圧感を持っているくせ、接してみるとやけにおどおどした空護に麗一は魅力を感じながらももどかしさも覚えていた。
生い立ちを知り、こびりついた諦念の原因が両親とわかって、自分だけは、何があっても空護を否定すまいと心に決めた。身体を陥落しても揺るがない心の強さが悪いほうに働き、途方に暮れかけたけれど、最後は天満の力添えでうまくいって本当によかった。
これからは愛を知ってきっと自信をつけていく。麗一が空護をそう変えてみせる。だがもし成功すると、さらに多くのSubの目に止まるだろう。
空護の性格からしても複数持ちの可能性は低いけれど、鋭角な見た目に反して面倒見のいい男なので、絆されないか若干の心配は残る。
「あー……Domにもカラーみたいなものがあればいいのに」
「えっ」
おいおい、おなじこと言ってるよ。噴き出して笑う空護に、麗一が首を傾げる。きらきら輝きを増す。なんだ、ずっと前からあなたは特別だったらしい。俺が気が付かなかっただけで、とっくに好きという特別だった。
約束は今度こそ果たせるだろう。もう揺れない。何も持たない手が掴み取った幸せは、夜の中で幼い兄弟をずっと照らし続けていた鮮やかな光にも似て、こんなにも眩い。
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