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しおりを挟む自宅の古いアパートは曲がりなりにも鉄筋であるのに防音性があまりよくなく、とりわけ耳のいい弟の天満はうるさいうるさいといつも顔をしかめている。雑多な生活音に囲まれて暮らすことに空護は抵抗がないのだけれど、彼の場合は生業とも若干関係するからかとても敏感なのだ。
かわいそうで、出来ればもうすこしいいところに引っ越してやりたいが、先立つものが無い。空護が仕事を増やすことも考えた。しかし麗一と出会ってからは、使える時間にも幾らか制約ができてしまっている。
無論それと引き換えに得たものは大きいしだからこそ甘んじている。麗一にも「困った事があったらいつでも相談してほしい」とは言われているし、言外に金のこともたぶん含んではいるのだろうが、そう易々と頼める性格でもなかった。
まったくのゼロから、やあはじめまして、これからお互いを知り合いましょうと近づいてきたのでなく、予め身の上を調べてあったのだろう。でなければいつも通りに注文を受け、キャストを送り届けに行った先で、よもや空護が「あなたと話がしたい」と頼み込まれるなんて不自然なのだ。
(まあ、別にいいんだけど)
知られて困るような過去はないし、親がいないのは空護や天満の所為ではない。現に心配はされても、麗一に育ちについて何か不快なことを言われたりは一切してなかった。彼自身はまだご健在の、現役のご両親がいて、盆と正月くらいは顔を見せに実家に足を運んでいるらしい。年末に冗談めかして一度誘われたが、丁重にお断りしておいた。
だって自分達の関係は先に家族を見据えたものとはお世辞にも言えない。所有権は預けられていれどあまりにも刹那的だ。実際SubがひとりのDomを選ぶのに対し、Domは複数のSubを同時に持てる。婚姻関係ほどの拘束力は有していない。中には兼ねているカップルもいるが、空護は、麗一が同性なのもあってその認識は今はなかった。
ゆえにゆきずりのプレイのみを愉しむ者が多数派で、所有権もその場かぎりなことが多い。それを目的としたサービスも、会員制の高級クラブから専用出会いサイトまで、多岐にわたって必要と予算に応じて用意されている。
空護のときはそのどれでもなく、いかがわしくもないハイグレードホテルの一室で、ドア一枚隔てた寝室でキャストが麗一のツレにサービスをしている間、簡単なプロフィールを聞かされて口説かれるという例外的なものだった。しかも聞けば麗一はこのために初めて風俗サービスを利用したという。なるほど縁の無さそうな風貌をしていた。
彼はやけに真剣だったけれど、空護にとってはまたか、というかだいぶ紳士的だがこんな人でもそんなことで困ってるんだな、としか思わなかった。何故ならモテモテのDomだったからだ。
こちらは何をしているつもりもないのに、勝手にグレアしていると感じられ、プレイしてほしいと絡まれる。誇張抜きで望みもしないのに毎日のように見知らぬSubを引っ掛けてしまうのだ。ダイナミクスが強すぎるのも考え物。
いっそDomまでも気圧されるようなので、空護には他人の属性が判別できない。尤もダイナミクスは男女のように誰しも必ず存在し、自覚する性ではないため、然程支障はなかった。突っかかってくるDomも縋りついてくるSubも迷惑なのは変わらない。
麗一はそのどちらでもなかった。ある意味どちらでもある、Switchと呼ばれる性質だ。DomとSubを自分で切り換えられる。プレイのあとのきびきびした行動は恐らくそこに端を発していた。
例によって空護にはさっぱり正体がわからなかったため、知り合うにつれ本人が教えてくれた。以前は三人のSub持ちだったらしい。片や空護には所有の証しであるカラーを渡すまでのSubはひとりもいない。声を掛けられる数に比べても、関係した人数はうんとすくなかった。
(苦手なんだよなあ……)
幼い頃から何でも自分でやってきた身には、命じるという行為がどうにも馴染まない。だから未だに自分でもどういうからくりで選りによってDom性に目覚めるのか、折に触れ首を傾げている。
麗一は理解できる。社会的地位もそれに見合うものだし、いきいきと仕事をこなしている。だが空護はしがないドライバーだ。キャストをきもちよく客へ送り出し、危ないときは守ってあげる。別に不満はないと自分では思っているのだけれど、Domとしては知らないうちに抑圧される。
加えて環境の影響か性的な刺激への耐性がわりとある。接触すればさすがに反応するが、望んでサービスしているわけじゃない女の子達を知っているからか、なかなか昂奮まで至らない。どうしても無理強いしているように見えてしまう。
だからこの濫りがましい現状は実のところ相当の驚きだし、僥倖だった。つたないコマンドにも麗一は喜んでくれる。彼がやさしく、子どもに教えるような気の長さで付き合ってくれたから、互いに気持ちよくプレイできている。きっと今なら不能とがっかりされることなく誰の相手も務められるだろう。俺が育てたと自負してくれてよかった。
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