幾星霜

ゆれ

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 風紀委員か。馬鹿馬鹿しいと、中途で話をやめいのりは歩きだす。そもそもこんなふうに考えるようになったのだって、大石の所為なのに。あの頃のいのりなら好きでもない男にさわられることなど許しはしなかっただろう。

 ほんの一週間の、ままごとのような付き合いの中でも「今かな」というタイミングは何度かあった。いのりは己の勘を信じて目をつぶったが、大石のくちびるが重なったことはついぞなかった。あたりまえだ。かれが想いを寄せていたのは、いのりではなくその向こうに見えた幻の彼女だったのだから。

「好きなひとに求められないのと好きでもないひとに求められるのなら、あたしは好きでもないひとに求められるほうを選びます」

 何も起こらないまま目をあけたときのあの、失望と悲しみはもう二度と味わいたくない。

「……スペアもそれなりに幸せなんです」

 一人きりで帰りながら目がとけるほど泣いた。こんなに泣いたのは、あの日以来だった。
 身代わりの人生が始まった、あの。二回目の誕生日。








 どんなに落ち込んでいるかと思えば、正月にヨーロッパ旅行にいく話で取り巻きたちと盛り上がり、誰の目にも鈴木はいつも通りの様子だった。金持ちは羨ましい。海外旅行など生まれてこの方したこともないいのりは着替えを終えて、さっさと更衣室をあとにした。正社員も派遣社員もおなじ部屋を使うのが、彼女たちにはしばしば不満の種らしいので。

 今日の夕食はどうするか。飲み会の誘いはないし、土日と籠もりきりだったため家にも碌な食べ物がなかった。浪費を抑えるため買い物自体極力行かないようにしているのだが、観念するしかなさそうだ。財布もおなじく使いすぎを防ぐよう常に所持金は控えめ。大体が貧乏なのだ。

「あーあ……」

 耳から入ってきた負の感情が、体の中でどす黒い塊になって腹の底にたまっていく。吹き飛ばしてくれるような楽しいことも嬉しいことも何ひとつない。このままたまり続けたら、どうなってしまうのだろうか。契約期限とどちらが早いか、そんな縁起でもないことを考えながら電車に乗る。

 郊外なぶん会社の周りより、最寄り駅付近のほうが安く買い物できる。混雑する車内で人と人に押しつぶされつつ何となく買うものを頭の中でリストアップし、よれよれになって降りた。行きつけのスーパーは出て右手にある。曲がろうとしてドンとぶつかる。

「すいません」

 またやってしまった、と思って顔を上げて後悔した。謝ったことをだ。

「…………なんでいるの?」
「こんばんは」
「さようなら」

 金曜とおなじパンプスでカツカツ歩いて速やかに遠ざかる。何なんだろう、絶対に住人ではないのにいるなんて変だ。気持ちが悪い。

 すこし遅い時間にもかかわらず出入りは多く、いのりも緑色のカゴを持って明るい店内に入る。御蔭で何を買う予定だったかすっかり忘れてしまった。

 むしゃくしゃしながら野菜売り場でキャベツの重さを比べていると横から、ひょいと手が出てきてカゴを引き取られた。

「……まだいたんですか?! バッカじゃねーの」
「お前さ、そんな口悪かったっけ?」
「あんな目に遭わされた人に感じよく礼儀正しくなんかできません。しようとも思わない」

 まだ何も入っていなかったので売り場の隅に積んであった新しいカゴを取ると左手に持っていたキャベツを入れる。ツナ缶、食パン、鶏のささみ、野菜ジュース。ヨーグルトはちょっと考えてやめにした。

 ケーキが食べたい。あまいクリームに癒されたい。よだれを垂らさんばかりの勢いで眺めていたが贅沢は敵、断腸の思いで売り場を通り過ぎた。水の大きいペットボトルが安売りしていたので雨も降っていないし、二本買ってレジへ向かう。

 エコバッグを両手にさげて帰路を急いでいると、歩く速さに合わせて車が一台ついてくる。青いプジョーに見覚えはなかったが、前後関係を踏まえれば自ずと予想はついた。ナンパされるような女でもない。嘆息する。

「しつっこい……」
「重そうだな」
「大丈夫です」
「車に乗せたほうがラクそうだな」
「だからいらねーっつって、わぁっ!」

 タイル状になった路面のちょうど継ぎ目部分に踵が詰まり、いのりは見事にころんでしまった。

 散らばった荷物は親切な通行人が寄せ集めておいてくれた。お礼を言いながらも、じんじん痛む膝を恐る恐る持ち上げると擦り剥いて鮮やかな血を流していて、ストッキングはもう履けそうにない。振り返るとパンプスは踵からぽっきり折れていた。

 情けない。もう、何がスイッチかわからないが視界がにじんで、ふっと頬があたたかくなる。早く立ち上がって歩きださなければと思うのに、すこし捻りでもしたのか足首までずきずき疼いた。動けない。

 自棄になってここに住もうかなと埒もない考えをしていると壊れた右の靴が目の前に差し出された。

「シンデレラみてェだな」
「……あたしのお姉ちゃんは意地悪じゃありません」
 
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