セカンドクライ

ゆれ

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ああ、失敗

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「冬原さん、なんで一緒に住んじゃわないんです?」

 使ったマグカップを流しで洗っていると、ネリネが寄ってきてそんなことを言う。

「やっぱりまだ気にしてるんですかぁ? 陸さん、すっかり心いれかえて一直線!て感じですけどぉ」
「うーん……」
 そう言われると自分が慎重すぎるだけのような気もしてくるが、長く続けたいのでもっと悩んでもいいのではないだろうか。すくなくとも晴はそう思う。

「もしかしてイジワルで先延ばしにしてるとか?」
「そんなわけないって。どんだけ小悪魔だよ俺」

 四捨五入で三十路になる普通の男だ。そんな駆け引きを愉しめるような立場とも言えないしそのつもりもない。晴は他人を振り回したい衝動には理解も素養も無かった。そういうのは見目の優れた者だけが許される特権だ。

「何だろうなぁ……幸せかどうかはわからないけど、今のこの状態がベストだとは思うから、現状維持がいい、みたいな?」
「あー……なるほど」

 勇気を出して一歩踏みだし痛い目に遭った過去を思うと、八分目の幸せでいいとしか望まなくなるのかもしれなかった。全部を手に入れてしまったら、差し出してしまったら逃げ場がなくて恐ろしくて、無理になってしまいそうで。この安息所をいつまでも守りたいと望んでいるからこそ今のままがよかった。
 しかし来夢は間違いなく全部欲しがっている。彼の望みを叶えてあげたいとも思うのだけれど、贅沢な悩みだろうか。ネリネのつぶらな瞳がそう言っていて苦笑する。

 彼女は自分と倍ほども年の離れた男に想いを寄せている。その取り返しのつかないモブ顔の男は彼女の父親よりひとつ年上で、その事実を知って甚くショックを受けていた。ゆえにまるで相手にされていない。それでもめげずに恋心をあたため続けるけなげなネリネから見れば、晴はそりゃもう度し難いおバカさんなのかもしれないが、彼女より八つも年を食っているので失恋が怖いのだ。

 特に一度は切れた縁となると、信じて身を任せていいのかどうか不安にもなる。その答えは来夢自身にだってよくはわからないだろう。晴にもわからない。いつか愛情が教えてくれるのだろうか。日々すこしずつ、たしかに晴の中で大きくなっていくような、あたたかくてやわらかいその何かが。

「晴帰ろ」
「おん」

 今日の分の記録は取り終えたのか、パソコンの電源を落としながら来夢が立ち上がる。向かいの席から晴のカバンも取って「お先に失礼します」と車に挨拶する。ふたりきりにしないでと縋りつく視線も涼しく振り払ってトロ箱をまた抱えた。ファイト所長。明日は肉巻きおにぎりでも作って差し入れようと思いつつ晴も挨拶をして事務所を出る。

 歩いて数分の月極駐車場に停めた来夢の車に乗り込んで、彼が荷物を積むのを待って発進する。土地勘があるからと運転手は大体晴が引き受けた。来夢も免許自体は所持しているらしいが田舎の信号もまばらな一本道ばかりころがしていたので、都会の狭く入り組んだ道路は苦手のようだ。近所から徐々に慣らしている途中で、通勤はのんびりできないため晴がステアリングを握っている。

 不意にくぐもった呼び出し音が車内のやわらかな沈黙を乱した。来夢がぱたぱたとポケットをさぐり、スマートフォンを取り出して耳にあてる。運転に専念しながらもそれとなく耳は会話を拾うが敢えて意識は散漫にさせた。盗み聞きなどお行儀の悪いことはしない。

「いや~気にしなくていいすよ。アッコさんの御蔭でめちゃくちゃうまくいってるし」

 シフトレバーを操作する必要がなく、腿の上に無造作に投げ出していた左手を来夢の右手が握ってくる。するりと指と指のあわいを埋められ、指先で甲をすりすり撫でられた。熱い体温に渇くような心地がする。今夜もまたするのだろうか。ゆうべは挿れなかったので、今日はそこまでするつもりなのかもしれない。想像しただけであらぬところが疼く。

「……ええ、ボーナスとでも思って受け取っちゃってください。これから何かと入り用でしょ?」

 それじゃあ、お元気で、などと適当に通話を終わらせて来夢がスマホを切った。晴の左手を繋いだまま持ち上げ、ちゅっとキスをしてくる。いくつも落として満足したかと思えば今度は薬指の付け根を親指と人差し指でつままれた。

「なあ晴、今度休み取ってリング買いにいこう」
「え?」
「給料三ヶ月分てヤツ」
「婚約指輪かよ」

 若いくせにと現あたりが聞いていたらツッコまれそうだ。まだそこまで許したわけじゃないけれど、年下の彼氏があんまり楽しそうなので晴は何も言わなかった。車はゆっくりとカーブを曲がり、ようやく暮れた街の中をマンションへ向かって静かにひた走る。



 
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