セカンドクライ

ゆれ

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 静かな山の中に建つ、歴史はありそうだが手入れの行き届いた温泉旅館は、同年代の友人とでは来れそうもない風情の格式高い佇まいでそこにあった。

「うわぁ……」
 さまざまな感情を含んで洩らす杏里に、連れてきてくれた七緒はトランクから降ろした荷物でかるく背中を押して笑う。

「温泉は眺めるもんじゃなくて入るもんだぞ」
「あ、うん」
「予約が取れたのはラッキーだったな」

 11月の終わりという行楽シーズンでもない年末でもない絶妙な隙間が功を奏したのだろう。ほんの二泊三日の小旅行ではあるが、七緒曰くなかなか空きの出ない旅館らしいので、彼の運の良さには素直に感謝したい。

 こうして珍しく一緒に遠出なんて出来たのは、いくつものイレギュラーが重なってのことだった。まず杏里の働く店が建物内移転のため二週間ほど休業になった。そのうち最初の六日間は路面店での研修があったが、残りはまるっと休みと言われて夢かと疑った。『これもウチの売り上げがいいからだよ~』との店長のおべっかは涼しく聞き流した。
 杏里は真っ先に家族に事情を話し、何か予定はあるか確認した。すると平日に家事をしてくれるほうが助かるとのことだったので、週末は七緒の家に行こうと決め、そのように打診してみると、それなら旅行なんてどうかなと誘われたのだった。

 だってそろそろ一周年だろ。あくまでさり気なく言い足されたそのひとことが杏里は死ぬほど嬉しかった。そのうちの半分は、残念なことに七緒には記憶がなくても、ちゃんと数にいれてくれた。感激のあまり抱きついて行く行く繰り返した所為で彼の何かしらのスイッチを押してしまい、翌日腰が立たなくされたのも特別に許したくらいだ。
 夜の時点でもう宿に連絡をしていたらしいのだから七緒も浮かれていたのかもしれない。レスがあったのは翌午前中のことで、あっという間にお膳立ては完了し、今日に至っている。

「お帰りなさいませ。お待ちしておりました」

 出迎えてくれた和服姿の清楚な仲居さん達に折り目正しく会釈され、杏里まで何となく背筋が伸びる。「お荷物をお預かり致します」と言われて小ぶりのボストンバッグをふたつ預ける。仕事だとわかっているがどうにも女の人に荷物を持ってもらうという行為に慣れを感じないので、こういう役目は男がしてくれたらいいのにと思ってしまう。

「明治様、こちらにご記入をお願い致します」

 宿帳にさらさらと書きつけられた七緒の字はとても読みやすい。職業柄客の字を目にすることも多い杏里なので、ある程度の年齢ならみんなこうというわけではないのは識っていた。シンプルに字がきれいなのだ。見てくれを裏切って。
 逆に舞洲はとんでもなくて、一度こっそり七緒に見せてもらったことがあるのだが、うちの弟が小学生のときよりひどいかもしれないとまで思ってしまった。彼がいつもパソコンを手放さず、書き文字を異常に嫌がるのも道理だった。

「ご友人同士でご旅行ですか。いいですね」
「ええ、なかなか休みがかぶらないんで、こんな遠出は初めてですよ。楽しみです」
「ご期待にそえるよう誠心誠意サービスさせていただきます」

 愛想のいい番頭が自然に顔を逸らし、部屋の鍵を取って荷物を預けた仲居に渡す。記帳が済んだ頃合いを見計らって「ご案内致します」と優しく声を掛けられた。

 表玄関から見えていたのは立派な母屋と広大な庭の一部だったようだ。そこから左右に渡り廊下が伸びて五階建ての宿泊棟に繋がっている。全部で三つの棟と母屋が四角形にそれぞれ廊下で結ばれ、中心には池があり高価そうな錦鯉が泳いでいる。出ていって餌をやったりもできるらしい。
 宿泊棟は一階を除く各階にはひと部屋ずつしかなく、内湯もついており時間を気にせず入浴できる。さらに一階に大浴場と外にも露天風呂があると聞いてせっかくなら全部入ってみたほうがいいのかしらと杏里は口角をあげた。七緒はのぼせやすいので付き合ってくれないかもしれないけれど、まあいい。
 食事は部屋食の他にフレンチやイタリアンも楽しめるレストランやラウンジバー、ビリヤードやダーツも遊べるプレイルームが母屋に入っており、土産物を取り扱う売店もそちららしい。山奥で温泉街がないぶん品揃えが充実していると聞いて、早速足を運んでみようと思う。快く送り出してくれた家族に何か買って帰りたい。

 かるく説明を受け、仲居さんがさがってから、杏里は勢いよく七緒を振り向く。彼は暢気にコンセントをさがしていた。スマホの充電が心許なかったようだ。

「なあ、めっちゃ高いんじゃね?」
「んー? ……お、あった」

 コードを繋いだままスイスイ指を動かしている。仕事の連絡があったのだろうか。良くも悪くも連絡のつきやすい現代人はオンとオフの境目が曖昧になりがちだ。七緒は杏里と違って明確にオフだったわけじゃないのかもしれなかった。今は不満より申し訳なさが大きい。

「全然そんなことなかったよ。レベル高いのに値段が格安ってのが売りだし」

 でもこの人金銭感覚バグってるからなあと半信半疑だったけれど、具体的に教えてくれた金額は実際杏里でも安いと感じる程度のお手頃価格だった。なるほどそれでは問い合わせも殺到する。
 
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