セカンドクライ

ゆれ

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 しかしそうは言われても、だ。

(憶えてねえ……)

 家族のプロフィールは勿論資料として揃えてあるし、検索ボックスに打ち込んで出てくる程度の情報は頭に入れた。仕事は済んでいるが自分の謎を解き明かすためにだ。明治は本当にあの家のかかりつけ医に連絡を取り、現在の状況について意見を乞うている。仕事や生活に不便がなくとも大切なものだったのだ。そうすぐには諦められない。

 食中毒に似た症状が出た以上明治のくちにしたと思われるものはすべて医師もチェックしたらしい。だがほぼ全部、日比野家の面々もおなじものを食べているため害があったとは考えられなかったという結論に至っている。お茶やコーヒー、水なども調べて見落としはない。明治が持ち込んでひとりで食べた物も見たかぎりではなかったそうだ。
 記憶についても、たとえば事故などで頭を怪我して喪失した場合や何らかの強いショックで一時的に忘れた場合は思い出す可能性もあるが、病気などのように記憶する機能が直接ダメージを負うと思い出せないらしい。明治に外傷は一切なかったため、正直あまり楽観はできないと思うと言われて、ますます現実逃避しごとが捗った。

「あの……大変失礼で申し訳ないんですが、何故私にそのことを報せてくださったのかお聞きしてもよろしいですか」

 舞洲に怒られるかと思ったが予想に反して彼も藍を促すように見つめている。それらしき記録は残ってなかったのだ。舞洲もしょっちゅう姫翠館に足を運んでいたことは知っていても、そこでの明治については門外漢なので教えてくれと無茶は言えない。ここは正直に白状するのが早いと思い切って藍に尋ねる。

 すると意外な答えが返ってきた。

「明治さんが、亡くなった旦那様に似てると言っていたんです。それでいろいろよくしていただいて」
「そうだったんですか?」

 自身の行動を他人に訊かなければわからないなんてなんだかものすごく馬鹿になったようで情けなかった。実のところ半グレの頃はいろいろやったが、今は心を入れ換えて真面目に生き、そこそこ善行にも励んで、なるべく人様の迷惑にはならないよう気を付けてきたつもりだったのにどうしてこんな目に遭うのか。そのいろいろがまずかったと言われれば納得するしかないけれど、途轍もなく精神が疲弊する。
 翠と亡夫のなれそめなどについては、彼女の自伝で学習してある。写真も載っていたが若くに命を落としてもおかしくないような美少年で驚いたものだ。似ているかどうかはさておき。

「その節は大変お世話になったので、御礼をと思いまして」
「いえもうこの有り様ですからお気になさらないでください。きっと私が楽しくてしていたんでしょうし、むしろ翠さんに付き合っていただいたくらいだと思いますので」

 憶えてもないことを恩に感じられても困るのだ。自分が何をどの程度したのかもわからないのに、御礼とやらに相応しいかも知らないのにどんな気持ちで何を受け取れるというのか。明治も医師に処置してもらったり療養の介助をしてもらったりしたのだから、むしろこちらのほうが世話になっただろう。

「しかし故人と生前何か約束されていたのでは? その……遺産の贈与なんか」
「さあ……すくなくともそのような書面は見当たりませんでしたけど。そこまで大袈裟なものでもなかったんじゃないでしょうか」

 だよな、と舞洲に振ると彼も頷く。事に当たったスタッフ全員にもざっと聞き取り調査をしたが、彼らに至ってはご家族と面識さえほぼなかった。長女の和に設営の立ち会いに来てもらった程度だ。

「日比野さんのようなお宅に生まれるといろんな人間がいろんな目的で寄ってくると思います。ですが私は、この通りささやかな生活でも現状に不満などないですし必要以上のものは求めません。そちらにお邪魔していたのも、たぶん翠さんに幸せな夢を見せたまま送ってあげたかっただけなんじゃないかな」
「――……」

 詳しく知るにつれ思ったのだ。出会って四十年以上もずっとひとりの男性に想いを寄せ続けた翠が、羨ましかったのかもしれない。自分がこれから死ぬまでに果たしてそんなに長い長い恋を経験できるだろうか。姿が変わるほどずっと一緒に寄り添って、死んでも傍にいると約束を結べる、人生そのもののような恋を。
 今思いを馳せるにはあまりにも皮肉すぎる選択だった。揺り返しの心痛にキュッと下唇を噛む。『誕生日おめでとう』くらいなら送ってもいいだろうか。どうせ今日はたくさん同様のメッセージを受け取るだろう。あの日カフェで会って以来は数撃つこともなくなっていたので、許されるような気がする。

「こいつフラれた恋人に復縁迫ろうとしてるんですよ」
「えっ」
「オイ舞洲、余計なこと言わんでいい!」
「でもその子のこと全部忘れちゃって、もうどうしようもないんです」
「うっせえな……」

 事実だからってそこまで言わなくてもいいだろう。それに嫌なもしもだが忘れてなかったとしても復縁できてないパターンもある。実家好きの杏里に同棲を焦ったのが敗因かもしれないし、ベッドで何かしたのかもしれないし、多忙ゆえのすれ違いかもしれない。いずれにせよ藍には小指の先ほども関係ないので舞洲を睨めつける。
 
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