セカンドクライ

ゆれ

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「おー、舞洲」

 ひらりと手を振って合図を送ると、十年来の付き合いでもある頼もしき右腕殿は見事な顰め面になった。しかし明治の隣に他の人間がいることにも気が付いてすぐさまそれを引っ込め穏やかな表情に取り繕う。トレードマークになりつつある無精ひげの所為で何をしても胡散臭いのだが、まあそれもセールスポイントと言えばそうかもしれないので放置をきめていた。

「ご苦労ご苦労」
「お前な……全然元気そうじゃねえか、そんなら公共交通機関で帰ってこい」
「いや~お医者様が念のために誰かついててもらったほうがいいっておっしゃるから」
「チッ……」

 見た目は浮ついていても根は真面目な舞洲は取引先についてばっちり予習も済ませてあるらしく、明治の横に立つ日比野家の長女・和に恭しく頭を下げると「このたびは明治が大変お世話になりました」と謝辞を述べる。つまらないものですがと差し出した手土産はもしかすると彼女らにとっては本当につまらないものかもしれなかったが、勿論お育ちのいい方なので「まあ、お気遣いいただいてありがとうございます」と嬉しそうに受け取ってくださる。

「こちらこそ申し訳ございませんでした。何が原因か私どものほうでもわかりかねるのですが……とりあえず回復なされてよかったです」
「もう全然元気なんで、大丈夫ですよ。一週間もお世話になったみたいで却ってご迷惑を」
「とんでもないことです」

 仕事で関わったお宅にこんなにも仕事関係なく滞在する羽目になるとは明治も予想すらしなかったので、とにかく無事日常へ還れることが嬉しくて仕方なかった。体調が優れなかったとはいえ何日も惰眠を貪るなど性に合わない。仕事脳だと笑われそうだが、何となく商機を逃しているような、遅れをとっているような心地がして昨日あたりは逆に身体に悪かったようにも思えた。
 何度もお礼の言葉を述べ、後日挨拶状も送らせてもらう旨を伝えて明治と舞洲は姫翠館をあとにする。会社までは高速を飛ばして二時間のドライブだ。途中どこかで運転を交代するかと一応打診したが、「病み上がりの男に高速走らせるかよ」とのことなので舞洲に任せる。

「急に倒れたんだって?」
「――らしいんだが、憶えがねえ」
「まあ具合悪い時なんてみんなそんなもんだろ」

 あの家のかかりつけ医師が言うには食中毒の症状が出ていたらしい。食べつけないものを食べて吐き気や腹痛、発熱をもよおしたと言われればまあその通りにはなっていたか。如何せんその時の状況が明治にもわからないため、何も明確には答えられなかった。それも症状の一種なのか追及はされなかったけれど自分では気になる。
 混濁していた意識がはっきりしてすぐは、どこにいるのか何をしていたのかまったくわからなかった。認知症の人はあんな寄る辺の無さをいつも感じているのかと思うとぞっとする。熱が高かったのでその所為だと言われたが引いても思い出せなかった明治に日比野家の人々が逆にいろいろ説明してくれた。あなたは仕事でここへ来て、突然具合が悪くなったのだと。舞洲のこの様子だと間違いではないようだ。

 それより昨日、やっとベッドから出られたので荷物を整理していたのだがタブレットの中に見覚えのない資料がいろいろ入っていた。舞洲が来たら訊こうと思っていたので運転はしながらでもいいように、明治は画面を読み上げて尋ねる。

「つうかこのプレス向け発表会の企画っていつの間にこんな詰めた?」
「ん?」
「まだ会場の目星つけてた段階だったろ」
「えっ」

 登坂車線を抜け、なめらかに追越車線へ飛び移る。平日の午後という時間帯の恩恵を受け行程はスムーズだ。それに舞洲は飛ばし屋だったりする。アクセルを踏むタイミングが自分とまるで違うので、明治はいつもハラハラした。

「ちょっと待て、だからそれが姫翠館のイベントだろ? もう終わってるが」
「え」
「お前があの屋敷にいたのだってその件だわ。……オイオイ、まだ本調子じゃねえのか?」

 度の入ってないレンズの向こうで舞洲が目を細める。ははっと笑われて、明治もそうなのかと思ったが、今ひとつ腑に落ちない。だってあの企画はついこのまえ持ち込まれた筈だ。
 しかしスケジュールアプリを立ち上げて今度は悲鳴を呑むことになった。どういうことだ。びっしりと埋め尽くされ、リストもチェック済みばかり。舞洲の発言が正しいと裏付ける証拠のオンパレードだ。日付も夏本番。下旬にひとつマルの付いた日があるが、何のマークだろう。

(変だわ)

 俺が寝ていたのは本当に一週間程度のことなのだろうか。もっとずっと長く記憶に欠けがあるように思える。顎先に手をやって考え込む明治に、舞洲が視線は前方に固定したまま「俺のカバン取れるか?」と言う。無駄に長身で手足も長いので楽々だった。

「それ早く読みたいかと思って預かってきた」
「……探偵事務所?」
 大判の封筒に印刷された文字に自然と眉が寄る。何か調査依頼でもしたんだったか、これもまた覚えがないが自分宛てだというので中身を抜き出す。すると簡単に綴じて冊子状になった書類の隅にクリップで留められた写真の人物と目が合った。
 
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