セカンドクライ

ゆれ

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 即座に返事をしようとすると彼女にやんわり制止されたため、後日ふたりきりの時に明治は改めて断った。気持ちは嬉しいがそう思ってくれただけで充分だし、今までずっと子どもとして生き翠を支えてきた彼らに比べれば自分がしたことはほんの些細な親切でしかない。同等に近い扱いをするのは彼らに失礼だ。

 翠はその答えを受け入れてくれた。そして何かにつけ金と結び付けて考えてしまう自分を恥じ、明治は中身の清廉さまで秋央に似ていると惚気たうえでひとつ頼み事を聞いてほしいと言ってきたのだ。

 情けないことだが、それぞれが金に困っているのは知っている。しかしこれであてにしていたものがひょっとすると手に入らなくなるかもしれないと思って生活を顧みる、代替案を模索する、互いに助け合う、そういう変化を彼らには起こしてほしい。私からの最後の宿題だと言って、断りの返事をしたことを内密にする約束を翠とした。ゆえにこの話題については何も答えられない。
 この提案をされた際、明治はまず自分の身の安全はどうなるのかと心配した。しかし翠は母親の客人に失礼をするような教育は、我が子には施してないと断言した。加えて具体的な数字まで示し明治に譲る額を敢えて手頃な感じにした。子ども達の取り分よりは全然すくないし、何なら世話になった使用人達へ譲る額よりちょっと多いくらいだ。別にこれなら渡してもいいと思うのではと明治が意見すると、これが持つ者のさがというべきか、どんなに少額だろうと自分で納得のいかないことにはびた一文でも払いたくないものなのだと教えられた。

 今から結婚して配偶者になり、半分ごっそりいただきます、というのならさすがに命の保障は難しい。明治が日比野家の人間でも「奴を始末するか追い出そう」と言うに違いない。だが縁者以外の誰かに譲り渡すという選択肢を採ったことで他にも必要としている人達へ寄贈してもいいかもしれないと考える可能性を匂わせ、すこし懲らしめるではないが危ぶませるくらいなら、何か意図がありそうだと誰かは気づくかもしれない。きょうだいと相談するかもしれない。現にここ最近は、とりわけ大奥様の容体が悪くなって住まいを移してからは、彼らがよく話をしているのを見かけている。

(すげえな)

 正気の時の翠が想定した通りに概ね事が運んでいるのではないだろうか。ひそひそと会話がところどころ不透明になってきたあたりで明治は「申し訳ありませんが今日はこれで」と席を立つことにする。どうせこちらからは言うこともない。ただぼやっと居座っても仕方ないし仕事と心配事で疲弊している。三十路に突入すると疲れはすぐに取れないのだ。翠に面会できないか訊いたら、もう自室へ引き揚げようと思いつつ一同に挨拶をして退室した。
 世間話に紛れ込ませて、彼らにそれぞれの台所事情を打ち明けられたのは、恐らく明治に自分から金の譲渡を断らせたいためだと思っている。同情を惹いたり理解を求められたり、素知らぬ顔で耳になっていたが子どもはいないし賭け事もしない、不倫にも興味がない身では正直まったく他人事のままだった。何なら製作費などあったらあったで使途もあるが「困ってない」と唯一言い切った藍に一番興味を持ったかもしれない。

「明治さん」

 振り返るとその藍が、白い歯のまぶしい笑顔で追いかけてくる。

「あの……なんだかすみません、姉と兄たちがいろいろと失礼なことを」
「いえ、かまいませんよ」
 それにもっと失礼な商談相手もこの世には存在する。海千山千のつわものにでもなった気でいなければ、やってられない。

「私のほうこそ部外者なのにお邪魔してしまって」
「――明治さん男前だから、恋人もさぞお綺麗なんでしょうね」

 人の話は聞かない主義なのだろうか。さくっと別の話題に飛ばれ、しかもある意味もっと失礼なことを言われて「はあ」としか答えられない。ピンポイントで地雷を踏んでくるあたり本気でマイペースすぎて、まともそうな印象はスウッと霧散していった。
 たしかに俺の恋人は綺麗だ。だがもういないかもしれない。ぐっと奥歯を噛んで溜め息をくちのなかにとどめていると「ご結婚は?」と重ねられる。あの流れでこの会話になる? もしかしてこの男、夕食の間ずっと話を聞いてなかったのではあるまいな。

「昔ちょっとあって、あまり積極的ではないですね。出会い待ちです」
「……じゃあ、おやすみなさい!」

 いきなり右手を取られ、グローブのように厚い藍の手でぎゅっぎゅと握られる。芸術家らしからぬ逞しい感触だ。画家業の合間というか気分転換に石膏もやると言っていたのでその所為だろう。そのまま「帰られるまえにモデルやってもらえたら嬉しいです」と目をキラキラさせて言われて、わけがわからないうちに彼はいなくなっていた。

「何なんだ……???」

 無駄に傷つけられてどっと疲れた。残念だがもう今日は寝よう。悲しい思い出の中ででも杏里の姿が見られるなら、それでいい。どんなに拒絶されようと否定されようと過去だけは、愛し合った記憶までは俺から奪えない。そう自分を慰めて明治は部屋へ戻った。
 彼は今頃どこに誰といるのだろう。会いたい。


 
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