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それから
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しおりを挟む「ただいまぁ」
誰もいないと知っていても、帰宅するとつい口をついて出てしまう。挨拶とはそういうものだ。中にはいい大人がどういうわけか頑なに返そうとしない、などの不愉快なパターンもあれど、基本的に客商売で、できるかぎり円滑な人間関係を望む人間であれば、普通はそのくらいあらゆる事情を飛ばして応じるものだと唯織は思う。
というのも、いるのだ。一人。同僚に、先輩に、そういう方が。いかにも肝っ玉母ちゃんという感じのふくよかで話好きで、宿泊客にも概ね評判の良い三児の母。それが、何故か唯織には塩対応でろくに挨拶も返さない。面と向かって悪しように言われるわけではないが、言動の端々にとげを孕んでいる。
初めは女将の身内だからと色眼鏡で見られているのかと思っていたけれど、どれだけ頑張ってもいくらか仕事を憶えてきた段でも態度は変わらない。栞奈にそれとなく人となりを尋ねても、特に問題点が出てくるようではないのだからさっぱりだ。
そもそも何が悪いというわけでもないのなら、こちらとしても対処のしようがない。なんか気に食わないなどという幼稚な理不尽に付き合っている余裕は一切ないのだ。仲居の仕事は本当にやることが多くて、客も一組ごとに要求が異なる。比較的若年層が放置をよしとするのにひきかえ、高齢になると、あれもこれもと用を言いつけられたりするので、こう言ってはなんだが本当に当たり外れが激しい。
家に帰れば美形が待っている。もはやそれだけが楽しみで生きているといっても過言ではない、のだが。手を洗って着の身着のままリビングのソファに座って携帯を覗く。アプリの通話画面には、簡潔に『ごめん今日も晩飯適当に済ませて』のメッセージが躍り、唯織のやる気を吸い取っていくのだ。
「最近多くない? 週……2……?」
余程忙しい仕事が舞い込んでいると考えるには微妙に間隙があるような気がする。たとえば一週間くらい連続で遅くなってその後もとに戻る、とかならわかるけれど、数日おきに唯織より遅い時間に帰ってくるのはどういう理由なのか。
尋ねようとは思っているのだが、いつも先に寝てしまって朝バタバタと出て行くので、モヤモヤしたまま今日に至っている。
「……うーん」
でも、この状態でもうひと月が経つのか。カレンダーを眺めていてそう気が付くと、急に焦りが幅を利かせだした。もしかして、考えたくないが他に誰か、入谷に近づいているのだろうか。たとえば仕事で知り合った女性などの目に留まって食事に誘われているとか。
それとも東京に残してきた相手が、例の幼馴染みさんがまた、悪い考えは次から次へとわいてきて、しかも自分では解消しようのない謎のため、ひたすら苦しくなるばかりだった。
プロポーズをされ、婚約指輪を贈られたあと、入谷はなんと転職して唯織の住む片田舎へ越してきた。一体どうやってひとつところでの生活を実現するつもりなのかと訝っていたがこの発想は無さすぎた。唯織の実家とおなじ町内に、自宅を兼ねて開いているようなこぢんまりとした税理士事務所があって、そこで先生を手伝っている。
あまつさえ税理士も公認会計士も試験自体は会社に入ってすぐの頃に受けて合格していたらしい。如何せんその事務所は、かれが青年だった時代でも税理士という制度ってあったんだな、すごいな、と思わせるようなおじいちゃん先生と、結婚して離婚して戻ってきて、暇つぶしに入り浸っているかれの娘が二人でまわしているという体たらくだったため、この界隈ではお目にかかることもない美男子がいきなり雇ってくれと現れたことにまず驚いたそうだ。
履歴書を見てもしつこいほど確認されて、あまりの煩わしさにいっそのこと唯織の話をするところだったとのちに明かされたときは胸倉をつかんでしまった。いずれバレるにしても今じゃないだろ、そこじゃないだろ。一緒に住んでいるのに結婚していない点についていろいろ言われたり、ないことないこと噂されるくらい狭い世界なのだ。くれぐれも慎重に行動してもらわなければ。
そういう流れで有言実行の入谷により、実家の旅館からほど近いマンションで一緒に暮らしている。先生に連れられて昔からの付き合いである家々をまわり、農家あるあるの馬鹿みたいな家の広さや、あれもこれもと持たせてくる人懐こさに辟易しているあたり、入谷はうまく馴染めそうでよかった。だからこそ、最初はどこかの家でお呼ばれしたかな、と唯織も軽く考えていたのだが。
「おし」
あり合わせのもので小腹をゆるく満たしてから風呂に入る。わざわざ連絡を取らずとももう待っていればそのうち入谷は帰ってくるのだ。明日の準備をしていればあっという間にそのくらい過ぎる。早寝早起きの唯織は遅くとも午後10時にはベッドに入るようにしていた。
朝は5時起きで、間に長い休憩を挟み、終業は8時以降。片や入谷は8時半から午後5時まで勤務で、思っていたより同棲の雰囲気がない。朝食と昼食は別々、夕食は帰宅の早いかれが準備してくれるため、昼の休憩時に唯織が洗濯を済ませる。掃除は手の空いたほうが随時。婚約中の恋人というより、もはや家族に近い快適さだ。
(別に)
これと言って何かを期待していたわけではない。決して、決してもうちょっと甘いムードが、なんて、がらじゃないし。一緒に入浴するとかくっついてテレビをみるとか、寝入るまでの微妙な攻防戦だとか、意外とないもんだなと日々を過ごしてみて思う。
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