最終的には球体になる

ゆれ

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入谷さんの初恋

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 今日から新年です、と言われても特に何が変わるでもない。眠る前とも、或いは昨日の朝起きたときとまったく違わない寒い朝だ。天気とかそういう意味でなく。唯織がいないのも、おなじ。
 てさぐりでエアコンを作動させ、静かに温風の吐き出されるのを聞いていた。それがまた眠気を誘って、うとうとと上の瞼が下の瞼にくっついてくる。仲良くしそうになる。日頃あれだけ自分を律しているのが夢か幻みたいに、怠惰を許して入谷は煙草を咥えた。でも火を点けるまでの元気がない。

「寒みい……」

 頭までベッドにもぐり込んで、脚のあわいに腕を挟む。階下では姦しい人達が今か今かと自分の起床を待ち受けているのだろう。
 いつまでもこうしていても仕方ない。観念して入谷は結局燃やさないままの煙草をもぎ離して快適の権化から身体をなんとか脱し、上に一枚羽織ると、続き間になった洗面所で顔を洗った。

 休暇モードだと言い張って数日前から放置していたひげを新しい年の始まりの日だからときれいに剃る。どうしても仕事みたいな気がして、やめておけばよかったと思ったがまあいい。手早く歯も磨いて、やっと心地よい温度になった部屋へ戻って着替えを済ませた。

 今年は、ずっと欲しかったものが手に入るかもしれない。

「よし」

 廊下に出ると賑やかな話し声がもう聞こえた。今回は姉達もそれぞれ旦那を伴ってのご帰還なので、単純に頭数が多い。
 入谷も、唯織と一緒ならどんなによかったか。しかし忙しい合間を縫って寄越される他愛無いメールにも謝意と彼女自身の残念な気持ちが散りばめられていて、また来年でも再来年でもいつでも、都合の好いときに来てくれたらいいと思った。こちらからも、また改めて挨拶に伺いたかった。両親も連れて。

 これから長いつき合いになるのだ。
 果たして唯織は最終的に、わたしでよければと言った。彼女でなければ何の意味もないというのに。あと顔には逆らえない、とも。

「あら恭司、やっと起きたのね」
「……おはようございます」

 相変わらず一分の隙もない。さすがに生まれて間もない頃は知らないが物心ついてからは、この母のだらしのない姿を入谷は見たことがなかった。今日は和服で、髪までばっちり整えて、行ったことはないがテレビドラマで目にするクラブのママだか、見たことはないが極妻だかのようだと口が裂けても言えないことを思う。
 厳しい眼で、母親が入谷の着付けをじーっと隅々までチェックする。彼女は資格を持っているし実際何故か叩き込まれたため先生と言っていい。唯織にも、うまくできなくていつも自分で着たあと栞奈に直されると相談されてアドバイスをし甚く感謝されたが、それ以外でこれといっていい思いもした覚えがないので入谷は特に誰にも申告してないのだが。

「いいわね」
 と、ちいさく呟いてポンとひとつ肩を払われた。ふっと緊張が解ける。その解放感に飽かせてリビングに行くとやっぱりだが、ドカンドカンと衝突事故に遭うのだ。

 森で野生動物に遭遇した感じだろうか。せっかくOKの出た着付けもおかまいなしにハグしてくる姉達に、母親のツンを今からでもいいから分け与えてほしい。ぶち込みたい。義兄達に挨拶をする暇も与えてくれない波状攻撃だ。断じて悪意はないが、一人だったらまだ耐えられたのにと遠く思う。

「恭ちゃんお寝坊だ~」
「お雑煮あるわよ。いただいちゃいなさい」
「恭司さんはお餅は焼くんだったわよね」
「知ってるわよ」と長女の涼佳が、上の妹に一瞥きかせる。

 最も面倒見がよく、ある意味母より世話を焼いてくれた涼佳はサバサバとして、奏子をして「女の皮をかぶった男」と言わしめる。客室乗務員をしていた頃は客よりもむしろ同僚の女子に抜群の人気を誇ったという伝説の持ち主だ。
 40を過ぎているのは間違いないのだがとてもそうは見えず、いつもきれいに化粧をして、実家でも自宅でも颯爽と家事を取り仕切って、そういうところは母親譲りだろう。片や父親の遺伝子を濃く受け継いだらしいのんびり屋の奏子とは反りが合わないような合うような、仲が良いのか悪いのか家族でもよくわからない。

 まとわりつくのが小雪だけになったこの隙に元パイロットだったり大学の准教授だったり、国家公務員だったりする義兄達に挨拶をし、「今年もこのはた迷惑な姉達がご迷惑をおかけしますがどうぞ平に平に」と念を込めて酌をして、いつも通りに一年は始まる。

「いくつになったんだっけ」
「僕ですか? 今年33になります」
「そうかあ」
「恭司くんも早く結婚するといいのに」

 という言葉がすんなりと出てくるあたり、姉達も男を見る目だけはあったのかもしれなかった。とりわけ三番目の姉などは何もできなくて、一人暮らしも就職もせずすぐに嫁に行ってしまったので、話が違うと突き返されても文句は言えないと両親も入谷も秘かに思っていたのだ。

「恭ちゃんの彼女さん、まだお仕事されてるんでしょう? お正月も休めないなんて大変ねえ」
「まあ今や正月なんてあってなきが如しだから」
 
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