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入谷さんの初恋
07
しおりを挟む「はあ?」
さすがに、いくらアレでも、面と向かって言ったんじゃ、ない。と信じたい。
(あーいーつーらー……!)
可愛いから似合うからと頭にリボンを結び付けられ、スカートを穿かされ、母親の口紅を塗りつけられた以来の怒りが腹の底からぼこぼこと湧いてくる。女に手を上げるつもりはないが訴えたい。今なら大っ嫌いぐらい口走りそうだ。進歩のない気もするが、最も殺傷力の高い方法であることはやはり否めない。
唯織のちいさな肩は震えていた。引き寄せて、抵抗なく胸におさまったことにこの上なく安堵する。人に見せずに泣いたり傷ついたりする彼女が可憐しいと同時にもどかしかった。
それでも、自分を諦めずにいてくれたことが飛びあがるほど嬉しかった。
「結婚するのは姉さんらじゃなくて俺だから」
「……はあ」
「俺の相手は、俺が決める」
「……」
「唯織?」
なんだか、思ったより不安の晴れない顔をしていて、もうなにか決定的なことを言ってしまおうかと入谷が思っているとカチカチかわいい足音をさせてブランが現れた。
真っ黒いつぶらな瞳は口よりも雄弁で、唯織も一緒にもこもこの後ろ姿についていってみると千子がベッドの上で身体を起こしていた。傍の椅子にかかっていたカーディガンで、寒そうな肩を覆ってやる。息は荒いのに真っ白だった顔にも自然な赤みが戻っていて、大事に至らずに済んだことを改めて喜んだ。
「ったく、あんな時間に出歩くなよ」
「ごめんごめん。最近ずっと調子よかったから油断しちゃって」
ちぎれんばかりに尻尾を振って座っていたブランが、我慢できないというようにベッドにぴょんと飛び乗る。千子のしろい手に撫でさすられて、嬉しそうにひっくり返り腹を見せていた。よく懐いている。
その愛くるしい姿をにこにこして見守っていたが不意に千子が、「そちらは?」と入谷の背後にやわらかく問うた。
「あ、はじめまして、高頭唯織ともうします」
「俺の彼女」
「……まあ、あなたが?」
主人の意識が余所へ移り、ブランが不満げに伏せのポーズを取り直す。千子は完璧なアルカイックスマイルを浮かべて自己紹介を返したが、その際唯織のことを頭のてっぺんから足の爪先まで、すさまじい速さでスキャンしたのを入谷は知っていた。もう一人姉がいるようなものだと思って、とっくに諦めている。
唯織のほうは、入谷の姉達に比べればとっつきやすいので今日は変な顔にはなっていなかったが、先程の痛手から未だ復活していないらしく今ひとつ元気がなかった。返す返すも口惜しい。何故その場に自分がいなかったのか、そんな世迷言など一刀両断にしてやるんだったのに。
かるく身の上話などを女性二人がしていたのだが、千子が突然「ミルクティーが飲みたい」と言いだした。唯織が率先して用意を買って出る。入谷も逃がしてあげたほうがいいと判断して止めなかった。「手伝うか?」との申し出は丁重に断られる。
「何でも適当に使ってくださってかまいませんわ。冷蔵庫も開けてくださいな」
「わかりました」
唯織と、そして何故かブランが部屋を出ていくと急に千子の表情が悪戯っぽいものへと変化する。
「どーやってつかまえたの? あんな若い子!」
「……うるせえぞ」
「まったく男はこれだからさー」
「別にそこ重視じゃねーから」
そもそも特攻をかけてきたのは向こうなのだ。そこまで言わないが、つき合いの長さからか千子は見当がついているようで「相変わらずモテ期謳歌してんだぁ」とふしをつけてのたまう。
「若いし可愛いしスタイルいいし、優しいし。いい子じゃない」
「おーよ」
「もしかしてキョンのほうが好きなの?」
「…………たぶん」
「マジか!」
まだ唯織にもよく伝えてないことなのでぼかしはしたが、概ね異論はなかった。どのくらいだこのくらいだと比べるようなものでも、わかりやすくそうできるものでもないけれど、入谷は、唯織のことが何か特別だと感じている。
願わくば唯織もそうだといい。
「たしかに今までとは毛色が違うよね……」
「よく憶えてない」
「てか、じゃあキョンそろそろ観念するつもりなんだ」
「なんだよ観念って……」
「えーだって、いろいろあったじゃん?」
いろいろな女の子と、という意味なのだろうと正しく通じて顔を顰めた入谷を、千子がふふっと笑う。実際あったのでしょっぱい気持ちになるのだが、今となってはすべて過去だ。このくらいの年齢になれば誰しもにある。
「もう遊びたいような齢でもねーし」
それより家族が欲しい。
いつだって遊びたくて遊んでいたようには見えなかったけどと千子は思っていたのだが、口には出さなかった。ほんとうは、他に好きな人ができたんじゃなく、入谷に特別好きになってもらえないとわかったから、それが辛かったから嘘を吐いて離れたこととおなじに、一生かれに伝えることはないだろう秘密。
年齢不詳のけがある、お互い様だと千子も実は思っている、幼馴染み同士で向かい合っているとどうしても口調からもう昔に戻ってしまう。立派な大人が愛してるとか好きだとか、酒も飲まずに一体何を語っているのやら。デートを邪魔されたと文句をしてやるつもりだったのに、入谷はすっかり毒気を抜かれてしまった。
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