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入谷さんの初恋
05
しおりを挟む言って唯織がバッグから携帯を取り出す。画面をタップして急にふへっとだらしのない笑みをするものだから、入谷はフォークを取り落としてしまった。すぐに気づいて店員が拾い上げ、新しい物を手渡してくれる。
「……何?」
「甥っ子がですね、それはもうかわいくてかわいくて!」
問う前からなんとなく想像はついていたのだが、案の定外さない。初孫を見せたらうちの親もこんなかなと思ってしまうぐらい、唯織は姉の栞奈の第一子である航太にでれでれなのだった。
旅館を継がせるならやはり女将がいいらしく、そのうち姪っ子もできたら最早人のかたちを保つのも難しい事態になっているかもしれない。男の子でこれなら女の子など、まさに人形遊びよろしくかまい倒すに違いない。子ども好きとは聞いたことがなかったが、溺愛する実の姉の子となればもう、ただの子どもではないだろう。
たしかに教員や病院勤務などにでもならないかぎり、大人になってしかも実家を出ていて、赤ん坊に接する機会はなかなかない。街では見かけても知り合いでもないとさわることはないし抱き上げもしない。入谷のところは現時点で誰も子を設けてないし親戚にもいないので、いっそ未知の生物と言ってよかった。
「わたしも子ども欲しいなって思ったんですけど、自分の子だとやっぱりすこし違いますかねー?」
「――……」
ペットを飼った経験もないので何かを育てるという行為自体初めてだとか、かわいいけどそれだけではないと栞奈がこぼしていただとか唯織は、他にもいろいろ喋っていたのだが入谷には残念ながら聞こえていなかった。その前の発言が衝撃過ぎて。
むしろ入谷のほうが、ずっとそれを望んでいたのだ。誰にも言ったことはないが心の奥で秘かに、しかし深く、真摯に。
あの家が嫌いとまでは言わない。両親には感謝し尊敬している。姉達も、愛してくれているとは勿論わかっているが、子は親を、家を、選べないとも折にふれしみじみ思っている。
愛されるのは嬉しい。有難い。でも本当は、自分から愛したいという気持ちのほうが強かった。受け身で流されて始まる関係ばかりだったけれど、今回は違う。そんな予感がしている。だからこそすこし、千子の動向が気にかかるのだが。
「入谷さんは子ども好きですか?」
「つうか、接したことがあんまない」
「じゃあぜひ!」
「ぜひ……?」
「今度、航太に会いに来てください!」
「……あ、ああ……」
そっちか。自分でもわかるほど入谷は弱弱しい声になったのだが唯織はまったく気づかず、悪魔風チキンステーキをせっせとひと口大に切り分けている。ちょっとドキッとしたのを返してもらいたい。というか適齢期の恋人同士の間で子どもの話題なんて、もっと敏感になってもよさそうなものなのに。
一切あざとくならずに世間話で終われる唯織は逆にすごいような気さえしてきたところへ今度は、入谷のポケットが不自然に震えだした。店員の目が痛いが誰からかはせめて確認してみると『チコ』の文字が躍っていて目をみひらく。いやな感じの冷えが胸を覆った。
「チコ? どうした」
『……ん、……け……て、』
「何、聞こえない」
『……く、……るし……』
もうひとつふたつ言葉を拾ったのち千子の声はとぎれ、かわりに犬の吠える声が遠く聞こえた。念のため通話状態は保ったまま店員を呼び、カードを渡して支払いを済ませる。ため息が洩れるくらいは見逃してほしかった。
「どうしたんですか」
「唯織ごめん、急用ができた」
「えっ……」
「俺行くけどデザートまで楽しんで」
「なんで?」
「――」
驚きと、そしてすこしの落胆が綯い交ぜになった大きな瞳。
また明日と容易に約束を結べる環境にいないので今夜は当然のように一緒にいるつもりだった。入谷も楽しみにしていたのだ。いいワインやチーズを買って、朝に淹れるコーヒーまで唯織が好きだと言っていたものを用意していたのに。最早彼女には、家に泊めることさえ抵抗がないほど許している。
きれぎれに千子が呟いた「公園」というのは、彼女のマンションの近くにある緑地公園のことだろう。ここからそう遠くない。勿論、今日入谷が唯織とここに来ていることは知らない筈だが、どこにいてもあまり関係なかった。こういう電話は、初めてじゃない。
説明している暇が惜しくて「あとで電話する」と言い置いて入谷は上着と鞄を手に立ちあがった。「待って」追いかけてくる唯織の声がいつかの元カノのそれとぴったり重なる。次の台詞は想像がついた。
「女の人?」
「……ああ」
何故、選りにも選ってこの数少ないデートの夜に呼び出しがかかるのか。己の、或いは唯織の運の悪さに入谷は喘いだ。
誰にでも胸を張って善人ですと言い切れるほど善良な人間ではないと思うが、多少は自分の性格性質、立ち居振る舞いが原因だと理解しているが十中八九、決定打はこの千子の緊急コールだった。これで入谷は今まで悉く彼女に振られてきた。唯織の前の彼女もそう。皆一様に「私よりその女のほうが大事なのね」と入谷の弁解を撥ね付け、謝罪の電話を拒絶して、入谷を過去にしていったのだ。
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