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入谷さんの初恋
03
しおりを挟む恋心の自覚はもしかしたら遅かったかもしれない。気が付けば唯織について考えていることを覚ってあれっと思った。その前に、あの翌朝目を覚まして隣にいないのにもやっとしたか。軽薄と勘違いして責めたりもした。仕事は意地でも手を抜かなかったがベッドに寝かせたことは、深く後悔した。毎晩のように夢にうつるのだ。
(不思議だな)
これまで誰も好きになったことがないとは言わない。でも、こんなふうではなかったとは言える。年上らしくなく取り乱したしどうしていいかわからなくなったし、だいぶ情けなかったと自分でも思う。結婚の二文字さえ先走って口にした。
姉達はぶうぶう文句をしたがやはり両親が、孫の顔を見たがって20代半ば頃から入谷にちょいちょい縁談を勧めてきたけれど会いはしても続かず、あんまり何回もそうなので終に親のほうが挫折した。自分はそうやって、とくに熱くもならず淡々と、まあまあ幸せに生きて死ぬのだと思っていた。そこに疑問も不満もいだかなかった。
結婚も。いつかはするんだろうな、程度に漠然と考えていただけだった。30代に突入はしたけれど思っていたより20代と変わりはしなかった。焦燥感などまったくわかない。むしろ駄目になったあとで、結婚を切り出されたかったのかなとわかる始末で。
彼女のほうがいつだって現実的だ。男は、というのも言い訳や差別と見做されそうだが、やはり仕事や趣味に時間を割いてしまう。
でも唯織は。
気付けば長く伸びていた灰を捨てる。ふと思いつき、携帯を取り出したが連絡の痕跡はどこにもなかった。指先でいくつか画面にふれてお終いだった。結婚どころか、交際すら望んでもいなかった彼女に見事に振り回されている。
「……はい?」
不意に静寂にひびを入れたノックの声にいらえをすると、ややあってそっとドアが開かれた。家族でも家政婦でもない顔がひょこんと覗く。
「チコ」
「ほんとにキョンだあ、おかえり!」
「久し振り」
中へ入ってこようとしたので入谷のほうから起き上がって出ていく。チコは、住之江千子は隣の家に住んでいた同い年の幼馴染みだ。
だからなのかやっぱりダメかという顔でおとなしく廊下の壁に寄りかかる。
「下に行こう」
「ケータリングの人もう来てるよ? お花も届いてたし慌ただしいから邪魔じゃないかなあ」
「……わかった」
それなら、階段をあがってきてすぐの応接間、というか客用寝室の続きの間に千子を案内した。彼女とは小学校にあがる前からの長い長いつき合いだが、入谷が私室に千子を招き入れたことは片手の指にも満たない。
女性にしては背が高く、相変わらず、少女時代のイメージのまま華奢な肩や腕は抜けるように真っ白い。生まれつき心臓が弱くて一人娘で、両親には蝶よ花よと育てられて。典型的なお嬢様だと入谷は思っている。細面はうふふと花の開くようにほほ笑んで、ゆるく波打つ栗色の髪を片手でやわらかく掻き上げた。
「いつ帰ったの?」
「ついさっき」
「明日には戻るの?」
「勿論」
月曜からはまた仕事だ。でも憂鬱どころか待ち侘びている。
仕事中毒などではなく、ここにいるのがいやなのだ。仕事は別に面白いとも難しいとも思わずさくさくこなしている。自分にしかできないという特殊性もない事務職、だからこそ部署がなくなる心配もないし自分の出来不出来に関わりなく仕事は発生するのだけれど。忙しいときは花形部署よりも忙しいし。
「なんか、キョンいつも疲れてるね」
「そうか?」
でもそれは仕事がどうとか生活云々ではない。実家にいると実際疲れるからなのだ、ということまで見透かしていてあえての発言なんだろうか。女といういきものは、どうしてこう意地悪が好きなのだろう。
千子はあまり家から出してもらえず、子どものときはそれこそ深窓の令嬢のように引きこもっていた。しかし入谷家が越してきて四人も子どもがいたものだから、しかも三人も面倒見たがりがいたものだからあっという間にひとまとめになった。毎日のように一緒に遊んで、本当の家族のような存在になるのに時間はかからなかった。
気を利かせたトヨがお茶を淹れてきてくれて、オレンジのいい香りに千子が目を細める。千子も、仕事はしているかどうか知らないが家は出ていると知っているので、パーティーに合わせて帰ってきたのだろう。入谷の母とは仲が良かった。ビーズ細工という共通の趣味で、よく盛り上がっていた記憶がある。
「こないだ彼女連れてきてたんだって?」
「……まあ」
「私もお会いしたかったなあ」
「興味あんの?」
「そりゃあだって、元カノだもん」
随分懐かしい思い出をひっぱり出してきたもんだと入谷は苦笑した。元カノであり、初カノでもある。入谷も恐らく千子の初彼だった。
中学1年生のちょうど今頃。入学して半年経ち、特に夏を越えてからは、男女交際を始める同級生が多かった。入谷は件のことで日々に疲れていたため一切興味を持っていなかったが千子のほうが、本人は認めないがきっと周囲の友達に置いてきぼりにされるのがいやで、手近な入谷に「私達つき合わない?」と申し込んできたのが始まりだ。
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