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ほんとうに見ているだけで幸せだったのだ。入谷が職場に出会いを求めてないことも自分が嫌いなタイプど真ん中であることもちゃんとわかっていて、それでも好きだったから、ただ好きでいたのだ。最後のお願いに行くまでは。
思い出なんてない。人となりを知るような機会も、唯一があの夜だったのだから唯織がそう着地したのは無理もないことだと思うのだが、なんだか気圧されて「すいません」謝った。
別になかったことにしたいわけではない。
(だって)
こんなところまで会いに来てくれたのだ。取り乱していたのも、演技には見えなかった。唯織だって、唯織のほうが、きっと入谷が想うよりかれを好きだと思う。だからこそ見誤りたくなかった。
「熱病みたいなもんですよ。そのうち忘れます。わたしが田舎帰ったから、そう思うだけで」
言いながらもう一人の自分にタコ殴りされているような気分だ。どうして自ら否定の言葉を吐きつけるのか、せっかく想い人がこちらを振り向いてくれそうな雰囲気なのに、しかもその事実より自分の科白のほうがどう贔屓目に見なくても現実味にあふれている。
でもぬか喜びはしたくなかった。これまでずっとそうだったように。このひとは自分を大事にしてくれると思って、思い込んで、結局貪られることに疲れて別離を選んだ。
「……それに、ほら、おなじ会社はいいんですか」
「高頭さんもう辞めたろ」
「じゃ、じゃあ入谷さん彼女いたでしょ。別れたんですか」
「彼女?」
耳の下にかるく手をあて、入谷が遠い目をするのを見て自分でそう仕向けたくせ、いやだなあと唯織はすこし暗くなる。夥しい数いたらどうしよう。という心配を嘲笑うかのようにすぐ「一年いねえけど」と返り事があった。
「嘘だあ」
「嘘じゃねーよ。そういやあの日もそんなこと言ってたよな」
「だって洗面所に歯ブラシが……」
「俺のだけど」
「えっ」
曰く、つき合っても私物は家に置かせないし自分も相手の家にあまり置きたくないらしい。泊まったり泊めたりも同様と聞いて、唯織の特攻がうまくいったのは一夜限りと明言した御蔭だったのかもしれないと思った。好きだったわりに、自分もそんなに入谷のことは知らない可能性に気づいてこっそり安堵の息を吐く。
あの夜の電話の相手も、スノボ仲間だとお見通しの顔で言われて唯織がどれだけ一人で思い詰めたか、可哀想な勘違いを目の前に突きつけられて恥ずかしさに消えてなくなりたくなった。恋なんてその成分の殆どがそういうものかもしれないが、たとえば中学生がやらかすのと社会人がやらかすのとでは痛々しさが全然違う。
一生の思い出としては、あの夜は、結果から言うと失敗作だったけれど。
「すきだすきだって、何遍も言ったろ。俺に」
「……はい」
「ああいうときの言葉は、俺はあんま信じてなかったんだけど、忘れないでって聞こえて」
その通りだ。自分はもちろんだが入谷にも、すこしは憶えていてほしかった。碌でも無いクソ女としてだって、かれの記憶に爪痕を残せるなら本望だった。
本当に必死だったから。理性と共にある今考えると随分、つたないやり方だった。好きな子に好きと言うなんて子どもだってできる。頭が悪いから他に方法を知らなかったのだ。身体はあまり興味を持たれていなかったし、すべてをご破算にできるような莫大な財産も持ってない。
そうだ、そこも気にかかる。
「わたしみたいの嫌いなんじゃないですか。……そこそこ胸ありますよ」
「……それ、こないだも思ったけどなんで知ってんの?」
「偶然、話してるの聞いちゃって」
気持ち悪いと思われていながら傍にいるのはつらい。しかも努力で何とかなる類いの問題ではない気がして、言ってしまってから、切り札を出したことに気が付いて唯織は今度こそ落ち込んでしまった。
好きになられるのがいやみたいだ。嬉しいのに、わたしもと飛びつけるような可愛い女だったらどんなによかったろうと思うのに、急すぎてよくわからないし奇跡すぎて信じられない。夢っぽさが半端ない。でも足が痺れている。入谷は平気なのだろうか、否、靴の爪先が微妙に動いている。
やおら手を差し出されて反射的に右手をのせた。『お手』みたいだと自虐的に笑う。
「戻りながら話そう」
もうひとつの手に巻きついた時計の盤面をあらためて入谷が言った。もういつもの『経理の入谷さん』だった。「はい」と唯織はちいさく答えて歩きだす。
一年彼女がいないということは、一年前に悲しい別れがあったということだ。やはりそうだった、会社の外で、一体どんな女性とつき合っていたのか。顔も名前も知らない、今は入谷と何の関係もない彼女の存在にすらおなかの中がぐるぐるするほど嫉妬する。今この瞬間、かれの傍にいて、手をつないで歩いているにもかかわらず。
束縛傾向があったんだろうか。この上、ちゃんと彼氏になった日にはどうなってしまうんだろう。自分の恐ろしさにかるく身震いする唯織に、入谷が前を向いたままそっと言う。
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