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しおりを挟む「入谷さん、わたしそろそろ」
「……失礼なこと訊くけど、高頭さんさ、妊娠しなかった?」
「はい?」
いきなり何を言いだした。絶句する唯織を、入谷はひたと見据えて次の科白をじっと待っている。
たしかに、そういう行為はした。でもお腹がおおきいのは姉だけで、唯織自身は全然その兆候など感じていない。わけがわからなかった。
まさか太ったというあてこすりかしら。それか、からかわれているのかと思ったが入谷は真剣そのものといった表情だった。首を振ると「ほんとに?」と、繰り言してくる。
「てか入谷さんゴムしてくれてたじゃないですか」
「いや遅かったろ……」
「はあ、でもちゃんと生理きてますよ。わたしピル飲んでたんで」
もちろん入谷と寝るためではなく、就職や都会暮らしのストレスゆえか数年前から生理不順になってしまったのだ。今思えば彼氏に性欲処理の道具みたいに扱われていたときも、よく飲まずに切り抜けたものだとぞっとする。金欠だの外に出すだのと言って、避妊具なしで強いられたこともあったので。
こちらに戻ってきて主治医も遠くなったため今は飲むのをやめている。また調子が悪くなるまでは、自然のままにして様子を見ようと思っていると話すと入谷は、どこかあてが外れたような色を見せた。
「なんだ、それ確かめたかったんですか? そっか、連絡先交換してなかったですね。すいませんこんな片田舎までお越しいただいて。大丈夫です、隠し子はいませんよ」
避妊具越しとはいえ中に出されたのは知っていたけれど、だから、心配はなかった。これまでもされてきたことだったし、自分の男運の悪さはすこし心配になったが。
わざわざここまで尋ねに来るなんて、故意だったとは考えにくいし結果論だけど些細なことだ。現につつがなく暮らしている。いよいよ申し訳ないなあと唯織は背を丸める。
「……じゃなくて」
入谷はふっとため息をして、物憂げな表情を浮かべた。
徐に長身が膝を折り池を覗き込む。季節になれば計算されつくした美しさで蓮が花開くそこは、とうめいな水をなみなみと湛えてそこにあった。鏡のような水面に入谷の美貌が揺れている。青白い肌が見た目よりずっと薄情ではなく、あたりまえに温みを帯びていることをもう知っている。そのことを思うだけで胸の奥が罪深く、じんと痺れる。
悲しいことができるかぎりすくないように。幸せは降り注ぐように。しなやかな背中に、そんな他愛無い祈りを飛ばす。
「まいった」
「……え?」
「全然言葉出てこねぇわ。俺も土下座すればいい?」
節のながい指があおい黒髪を掻き上げ、掻きまわし、あたかも千々に乱れるかれの心情を透かしているかのようだった。社では殆ど表情を変えることのなかった『経理の入谷さん』が動揺している。しかも唯織のような小娘にも容易に知れるほどあからさまに。
落ち着きなく瞬きを繰り返し、自分の頬をさわったり顎をさわったり、袖をいじったり腕をかかえたりしたくちびるを噛みしめたり、そりゃ何をしても男前には違いないけれど、珍しくてつい見守ってしまった。わざわざ裾と長い袖に気を付けて隣にしゃがみ込んで。
「……何か言ってほしい」
「ムチャクチャですけど大丈夫ですか入谷さん」
「いやあんまり」
ひどい言い種をして怒られるかという予想は覆されて、もう笑うしかない、というように入谷がへらっと笑う。チャラ男なら眉ひとつ動かさずにやり過ごすところだが、日頃滅多にやらない人のそれは破壊力なんてものじゃない威力が抜群で、やっとすこし凪いできていた傷心の風をふたたび唯織の中に吹き荒らした。
いたくて切なくて、胸がぎゅうぎゅうする。
やっぱりまだ会いたくなかった。八つ当たりして、もうそう言ってしまおうかしらと思いつつわらって誤魔化して、わずかににじんだ目許を指でそっと払う。なんだかなあだ。
「高頭さんが」
「はい」
「忘れるつもりで来たのに、あの日ああなっちまって、ずっと考えてるっつうかいっそ離れねえっつうか」
「はあ」
「正直後悔したし逆にあれがなきゃなんもなかったからよかったのかもしれないとも思うけど」
「……?」
「つまり、俺は」
好きみたいなんだけど。
深い色の眸が、眩しげに唯織をみつめている。内緒話の近さでもすこし掠れた声はちいさく、弱弱しく、まるで聞こえてほしくないみたいにささやかに唯織の耳をかすめて消えた。
だから、余韻を都合よく書き換えてしまったのかと思った。
「セックスが? あ痛たっ」
加減は一応されているようだがぺんっと無造作に叩かれ、声を上げる。すぐに謝罪も飛んでくる。
「や、だって入谷さん、わたしのことほぼほぼ知らないじゃないですか。ヤリモクみたいですよ」
「お前に言われたくねーんだけど。」
思いの外鋭い返しにびっくりする。冗談としてもたちが悪すぎただろうか、それにしてもいっそ大人気ないくらいだ。よもや図星かしら。
「……嘘ついてもしょうがねえから言うけど、顔と名前と課ぐらいしか知らなかった」
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