最終的には球体になる

ゆれ

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 今日も付き添うにあたり、嫁直々に義理の妹の半生について叩き込まれたとわらっていた。それは知らなくても、という類いの黒歴史まで義兄の口から飛びだして唯織は気絶しそうだった。幸い、見合い相手には披露されずに済んだけれど。

「お疲れさま」
「あ、ありがとうございますお義兄さん」

 紙コップに入っていたのはミルクココアだった。唯織の好物だと、これもきっと栞奈に吹き込まれたのだろう。あたたかくて、あまくて、後味がすこし苦いそれは久し振りに飲んでもやはり美味しい。

「唯織ちゃんは、正直結婚について何か理想とか条件とか、願望とかあるの?」
「いえ……それがまだまったくピンとこなくて。むしろしないんじゃないかって、うっすら思ってました。だからお見合いとかびっくり」
 あけすけに答える唯織に、義兄は目をまるくすると噴き出して笑った。

「そうだよね、唯織ちゃん東京に出てたし、栞奈がいたから家を継ぐって感覚もなかっただろうし」
「ですです。お気楽ごくらく~な末っ子なんで」

 片方が地に足が着いていると、もう片方はちゃらんぽらんに育つものなのだ。幼い頃から何もかもきっちりして、唯織を育てつつ学業も家事も女将修業もこなした栞奈のことは本当に、心から尊敬している。だから、できることなら早く身を固めて、安心させてあげたいのはやまやまだった。これは嘘じゃない。

 不確定ないつかのことでも、たぶん結婚はするだろう。でも心まで、その人に渡すつもりはさらさらない。情は多少移るかもしれないが結局自分のいちばん好きなひとは一人だけで、他にはいない。きっちりと締め上げられ、若干くるしい帯をげんこつでぽこぽこ叩きつつ唯織は、この2月まで過ごした都会に思いを馳せた。

(元気かなぁ)

 結婚はしただろうか。相変わらず仕事は完璧なんだろう、女子社員にもキャーキャー言われて、でも気にも留めない。きっと彼女一筋で。

 本当はわりと口が悪くていい性格で、でもやっぱり優しくて、ずるくて、今でもくっきりと影を思い描けた。会社で見るおきれいな仏頂面だけじゃない。怒った顔も呆れた顔もげんなりした顔も、ドヤ顔も、太平楽な寝顔も、そしてひどく感じ入った、凄絶に色っぽい顔も。
 本音を言えば泣かせてもみたかったけれど、それは好きじゃないと無理だ。それこそ彼女の特権なのかもしれない。セックスは別に彼女じゃなくてもできる。唯織がまさに、入谷にとってそうだったように。

 庭園の中にある休憩所で、座ってぽかぽか陽気を浴びていると寝てしまいそうになる。朝は、いつも通り仲居として働くほうが断然早起きなのでむしろのんびりだったが体内時計が狂ったからか、やたら睡眠圧がひどくてまいった。女将の実妹であろうと現段階では唯織はぴっかぴかの素人なので、まずは下っ端からなのだ。

 伸びていた髪も、晴れ着に合わせて栞奈が手ずから結い上げてくれて、きもち眦があがってこういう顔なら自分の顔でもちょっとは好きだと思った。まんまるい目の所為で、いつまでも子どもみたいで気に入らないのだ。栞奈は切れ長の目なのに、おなじ親から生まれたのにどうして違いがあるのかと悔しい。

「本日はお日柄もよく……」

 ぶつぶつ唱えていると高い足音が聞こえてきて、唯織は何の気なしに振り返った。

「――よお、久し振り」
「えっ……」
 声もかけてないのにこちらを向いたことに相手は驚き、いる筈のない相手がいることに唯織は驚いた。

 しばし誰も何も言わない爽やかな沈黙が広がった。そよそよと新緑の匂いのする風が吹き抜ける。隣で義兄が不思議そうに、二人を見比べている。一瞬前まで焦がれていたくせに、いざ実物が目の前に現れると、何の感情もわかずただポカンとする以外に何もできない。

 そうか、これは幻だ。あんまり恋しくておかしくなってしまったのだ。だってこの再現率、本物みたいに鮮やかだ。
 ぽんと手を打った唯織に入谷の幻が「幻じゃねえからな」と先回りする。

 じゃあ何。

「あ、ご旅行ですか? 激しい偶然ですね」
「……唯織ちゃん、こちらは?」

 すこし言いづらそうに、義兄が小声で訊いてくる。慌てて唯織は「会社の方です」と告げた。しかしおなじ課ではないのは、ややこしくなりそうなので黙っておく。

「はじめまして、入谷といいます。申し訳ありませんが、すこし唯織さんをお借りしてもよろしいでしょうか」

 言葉は丁寧だがどこか棘を孕んで不機嫌がにじみでている、気がした。義兄にはつたわっていないのか、気分を害することなくけれど唯織に確認するような視線を向けて、変な男じゃないかと心配してくれているのがわかって嬉しい。
 携帯は持っているのでどうせ連絡はつく。立ち上がろうとした唯織に、すっと寄ってくると入谷は手を差し出した。これまでそんな扱いを受けてきたことがなくて、促されておずおず手をのせると強めの力でひっぱられる。入谷は、義兄にかるく頭を下げて唯織を連れていった。

 温度も、感触もあたりまえにあるというのに、どうしてこうも現実離れして感じるのか。近づいてみるとかすかに煙草の匂いがした。それだけで別の人みたいに思える。
 
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