最終的には球体になる

ゆれ

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 自分でも呆れる。こんなことが本当にできるなんて、そんな自分は知らなかった。入谷が変えたのだ。
 恋をして馬鹿になるなんて理解できないと思っていたけれど、自分もその馬鹿のほうだった。そうまでなる恋を知らなかっただけだった。22で就職するまで、ずっと。

 気が付けば鉄筋のコンクリート打ちっぱなしの洒落た外観のマンションの前に出ていた。ぼうっとしているうちに入谷の自宅に着いていたらしい、どこをどのように来たのかまったく憶えてない。そんなに長いことは歩かなかったと思うのだけれど。
 自動ドアが開き、中にもう一枚、それぞれロックを解除して入っていく。鞄を持った手で上方向の矢印の刻まれたボタンを撫でるように押して入谷は、エレベーターを待っている。腕は掴まれたまま。

「放してもらって大丈夫ですよ」

 むしろこちらからつかまえておきたいくらいだった。逃げるとすれば入谷のほうだ、選択権はわざと、渡さなかった。

「……もしもし」
 くぐもった電子音は入谷の携帯だった。着いたエレベーターに唯織を先に乗せて自分も乗ると7のボタンを押す。

「あー、ごめん。悪りーんだけど今週無理だわ。……うん、うん」

 会社では聞けないくだけた口調は、恐らく親しい間柄の相手だろう。はっきりした言葉の中にもどこか甘さがあって、ああ、そうだ、彼女だわと気づいて後頭部に鈍器で殴られたような衝撃が走った。
 いない筈がない。社内ではいないだけであって、入谷にそういう存在がいないわけがなかった。前はあれだけ妄想していたくせその可能性を完全にマークしていなかった唯織は、目の前が真っ暗になるような心地がした。よろけて壁に手をつく。

 音もなくフロアに到着し、今度は先に出る入谷の背中を見送って扉を閉じてしまいたい弱気がむくむく頭をもたげる。寸でのところで、かれが振り向いて反射的に一歩前へ踏み出した。背後でドアが閉まる。
 まだ携帯を耳にあてて喋りつつ、慣れた足取りで703号室の前で立ち止まる。鍵を開けて、ようやく通話を終えた入谷が「どーぞ」と平らに呟いた。初めからわかっていたことだけど、これっぽっちも歓迎されていない。

「お邪魔しま、す……」

 かすかに煙草の匂いがした。家では吸うんだろうか、通されたリビングにはやはり灰皿が据えてある。唯織の部屋より余っ程整頓されてきれいだった。彼女の存在を確信してほぼ虫の息だった。油断すると泣いてしまいそうで、そっと奥歯を噛む。
 入谷はエアコンを点けると手荷物と共にマフラーを抜いてソファに放りだした。コート掛けにコートを預け、ネクタイとシャツの喉元を緩める。かすかに首を振る仕種が妙に色っぽかった。手までハンサムなのがずるい。

「何か飲むか」
「……いえ」

 答えて唯織は、ちらりと廊下を振り向いた。
 立ち尽くし、自分のストッキングの爪先をみつめる。我が儘をしてここへ連れてこさせたのに、今や後悔しか感じなかった。さっきの電話がなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。責任を、顔も知らない女に押し付ける。ひきょうもの。

(わたしは)

 こんなひとが彼氏だったらどれだけ心配しても足りない。気の休まるときがないだろう。

「帰ります」
「は?」
「ごめんなさい無茶言って、冷静になったらこんなのは、やっぱ違ったんでなかったことにしてください」

 頭を下げると先週切ったばかりの肩より、すこし下にくる毛先がさらっと揺れた。あの美容院も気に入っていたのに。引っ越すことを告げると担当の美容師が、「寂しくなります」と惜しんでくれたのが社交辞令でも嬉しかった。
 百歩譲って入谷はともかく、ここにいない誰かまで傷つけるのは本意じゃない。回れ右で、玄関へ引き返して靴を履いているとスリッパの足音が、信じがたいことに追いかけてきてくれる。

「それじゃ、さよなら」
「――高頭さん」
「好きでした。入谷さんのことが、初めて見たときからずっと」

 えへへと笑ってなんとか散らそうとした涙の衝動は、一瞬引っ込んだと見せかけて却って勢いを増し、ぼろぼろと目縁からころがり落ちた。
 頬の濡れる感触にあーあと思う。泣き落としは、実は選択肢のひとつだったけど通用する気がしなかったので消していた。あとがブサイクになるのもいただけない。ただでさえ駄目なタイプなのだから、癇に障るようなことはなるべくなら避けたかったのだ。

 でももういい。拭いもしないで、外に出ようとした唯織を一瞬早く飛んできた入谷の腕が、囲うように押しとどめる。

「……なに」
「飯ぐらい食ってけば」

 中途半端に優しくしないで。
 ここでそう撥ね付けられれば、誰も苦労はしないのだ。好きなのに、ときどきとても憎かった。







「……ん」

 圧迫感というか息苦しさの正体はこれだったのかと、可愛いつむじを見おろして唯織はわらう。
 片手にワイングラスを持ったままなのが可笑しかった。酔っ払って眠ってしまうなんて、味を覚えたての頃以来だ。意識があるうちにこうなっていたらいくらなんでも放置はしないので、自分が先に落ちたらしい。身体は純情にかさなっているだけなのに、しかも脱力しているのでわりと重たいのにあたたかくて心地よかった。
 
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