最終的には球体になる

ゆれ

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『経理の入谷いりやさん』はとても有名で、実際自分が隣の総務課に所属するという近さもさることながら、きっとどこにいても、営業でも経営企画でも開発でも人事でも秘書課であろうとも、たぶん耳にしていただろうと高頭たかとう唯織いおりは思う。

 端整な顔立ちに烏の濡れ羽色の短い髪、かっちりと隙なく着こなされた上等なスーツ。ストイックな雰囲気はチャラ男の多い社内でも際立って好感を持てた。
 唯織だけではない。未婚既婚彼氏もち独り者関係なく一切合財殆どの女子社員にとってそうだ。なのに浮いた話のひとつも聞こえてこず、ひたすら優秀で、何故経理なんて事務職に就いているのか理解に苦しむと専らの噂だった。

 簡単に、ほぼ一目惚れの勢いで恋に落ち、けれどその競争相手の夥しさに途方に暮れ、見ているだけを長いこと楽しんだ。何せ入谷恭司は身ぎれいな男だったため傷つきはしなかったけれど知らないだけで、会社の外では遊んでいるのかもしれないと考えては勝手に胸を痛めたり嫌いになろうとしたり、無駄な抵抗をしばらくしていた。

 でもこちらの事情が変わった。実家に帰ることになったのだ。亡き両親から姉の栞奈かんなが継いで、細々営んできた旅館を帰ってきて手伝うよう言われた。もともと都会暮らしは25までの約束だった。それを過ぎたら、いちど見合いをしに戻ってきなさいと言われていたのだ。
 早まったのは他でもない、姉夫婦が待望の第一子を授かったから。姉妹の両親はこう言ってはなんだが晩婚で、さらに母が女将業に追われていたため遅くにできた子で、できればそうならないようにという意識が働くのも無理はなかった。

 会社では正直誰でも務まるような事務仕事しかしていない、反論などできよう筈もなくしおしおと唯織は頷いた。辞職願はすんなり上司に受理され、今月いっぱいでアパートの部屋も引き払うことになった。根を張るのは大変だったのに、否そんな気になっていただけで根なんて本当は、張れていなかったのかもしれない。所詮自分は余所者の田舎者だったのだ。

 だからもう唯織に失うものはなかった。決意は固い。誠意を込めて頼めば、相手だって人間なのだから、もしかしたら聞き届けてくれるかもしれない。断られても嫌われても、もう会うことはない。

 もう、会うことは。

「入谷さん」

 有能すぎるほど有能なので残業など滅多にしない。今日もバリバリ仕事をこなし定時に社を出た長身を追って、駅に入ってしまう前に声をかける。振り向いたかれの顔が見事な仏頂面で、なけなしの勇気が一瞬怯む。

「何ですか」
「あの、ちょっとお話があるんです」
「どうぞ」
「え、ここでですか?」

 それはすこし、都合が悪い。と白状してしまうと逃げられそうなのでポーカーフェイスを必死に保つ。譲歩案など、入谷のほうから出してくれそうにないのはわかっていた、手で改札の方向を指し示すと「じゃあ帰りながらで……」唯織は自ら提案した。
 方向はおなじではない。というか真逆だったけれど電子パスを押しあててついていく。不審を隠しもせず眉をひそめているその表情まで恰好良くて、ずるいなあと思った。きっとものすごく無神経か、鈍感な女だと呆れられている。電車に乗り込むといやでも距離が近くて、居た堪れなくなった。

 もう二年前になるだろうか、総務部での飲み会があり奇跡的に入谷の隣に座ることができた唯織は、思いきって好きなタイプを訊いてみたのだ。
 そういう系の質問は殆ど告白といってもよかった。だって興味がなければ、そんなことは普通尋ねない。尋ねて自分と照らし合わせるのだからどう考えたって、好意をいだいているとしか思えない筈だった。

 そんなデリケートでプライベートな問いを入谷は「職場に出会いは求めてないんで」とバッサリ斬り捨てたのだ。名刀と陰で渾名される意味がわかりすぎるくらいわかった。
 ふられたも同然で、すごすご席を離れて、その日は早めに切り上げアパートで布団をかぶってしくしく泣いた。切ないメモリーだ。今でもあのときの悲しみは胸に新しい、またおなじ味を噛みしめる羽目になるのかもしれないけど、決定的に違うのはもう会わなくて済むというところだ。

 捨て身で行く。叶うかどうかはわからないけどせめてその願いを打ち明けるまでは、しないうちは帰らない。コートの、すこし長くて隠れてしまう袖の中でぐっと拳をにぎった、そのときだ。何かが背中というか腰というか、もうすこし下のあたりをするっと撫でたような気がして唯織は振り向く。

「……?」

 混んだ車内はおなじく疲れた顔のサラリーマンで詰まっていた。ちらほら高校生の姿も見える、それ以外は大学生だろう。別に、ありふれた光景だ。
 ふたたび前に視線を戻すと入谷と目が合った。20センチ近く身長差があるのでかなり見おろされるけれど、威圧感というよりは、男前だなあという好意が先立って頬が熱をもってきてしまう。慌てて逸らして、それなのに肩を掴まれたのでガン見しすぎたかしらと反省していると「代われ」と、低く言われた。
 
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