初恋の実が落ちたら

ゆれ

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虎次と慶

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「虎次」
「……ん」
「なんで急にやめるなんて言い出したんだ」
「それは、」
「お前の世話が嫌とか俺はひとことでも言ったことあったか? それとも本当は……俺のしてきたことはずっと迷惑だったのか」

 社長はすぐに別の運転手を手配し、虎次にストレスを与えないようにしてくれた。現に辞意の告白を慶にしたとき、虎次の頭の中を占めていたのは事故の件じゃなかった。もっと別の大事だ。だから社長にも強く出られなかった。

「黙ってねえで何とか言えって」
「お前には、迷惑かけたくないから。あとは俺がやる」
「あいつに事故の件訊きにいくってことか? だったら俺も一緒に行くわ。つか何発か殴んねーとおさまらねぇ」
「ダメだって」
「何がダメなんだよ、ももと竜太くん殺されてんだぞ!」

 自分でも不思議な変化だった。慶の言うように、もし次に顔を見たら問答無用で飛び掛かってもおかしくない相手なのに、以前の虎次なら確実にそうしていた筈なのに、今は駄目だとストッパーが働く。
 頭ではまだ理解していなくても、身体はとっくに準備を整えているというわけだろうか。向かいの席から立ち上がって慶が歩いてくる。虎次の肩に手を置き、跪いて顔を覗き込む。奥歯を食いしばってないと涙があふれそうだった。

「虎次。俺も一緒にやる。ふたりでももと竜太くんの仇とろう」
「できねぇよ」
「……は? なんで、」
「そんなことしちゃダメなんだ」

 俺らのためじゃなくて。

「慶……俺、子ども、できたって。……ここにいる」

 ふるえる声でそう言って、虎次はゆったりとした服の上から腹を撫でる。

 慶は長いこと虎次の腹を見つめたまま彫像になっていた。無理もない。医者に話を聞いて、虎次もまったくおなじ状態になった。だが実際にさまざまな変化を体感するにつれ、徐々に、この世には奇跡みたいな出来事があるのだな、と受け入れられるようになったのだ。

 受精卵として発生しある程度成長する段階では全員が子宮を有しており、その後退化して男アルファや男ベータが生まれる。しかし第二次性徴を過ぎ、第二性が目覚めてのち、性交するにあたって体内に何度も射精されたり、それで快楽を感じ続けると、生殖本能が作用して孕む側へと変容してしまうらしい。つまり虎次は、生まれたときアルファだったのが、オメガに変わってしまった。

 どうせアルファ同士だからとろくに避妊具を使用しなかったのが運の尽きだ。性別が変わったことにより、当然これからはヒートも来るしフェロモンを発する。いい匂いだと頻りに慶に言われていたのは、既に兆候があったからだと指摘されてぐうの音も出なかった。恥じ入る虎次に医者は「おめでとうございます」と言ってくれたけれど、あのときはショックでどう答えたかも憶えていない。

 その性質や社会的地位上、アルファが不特定多数の相手と受け側として性交するシステムは殆ど無い。それに前例からみても変容を遂げるにはかなり長い時間がかかることは解明済みで、数回や十数回で起こるものでもない。最初からそのつもりで取り組んでいた他のカップルなどは、大変な苦労だったとはっきり証言しているくらいだ。何も聞かなくても、医者は相手が近しい間柄の特定の人物だと判断したのだろう。
 虎次にとって、それは間違いじゃなかった。しかし慶にとっては、やはり望んでいた結果とは現在進行形でも思えない。だから言いたくなかったのにと顔を覆う。仕事をやめれば慶と距離ができるのは必至だ。知られずに産んで育てることくらい、余裕でできると思っていたのに。

「はは、びっくりだよな。俺がオメガとか」
「……じゃあ、体調悪かったのって、それ? あれも悪阻……?」
「そうだよバカ」

 本当ならこの手であの馬鹿息子を兄妹とおなじ目に遭わせたかった。でも、宿ったばかりの命にそんな無益なことはしないでと諌められた気がした。虎次だけではない。知らせるつもりはなくても、もうひとりの親である慶にも手を染めてほしくなかった。

 社長と相談して安定期に入るまでは体力系の企画は後輩アイドルに振るよう話をつけてもらい、無理のない範囲で仕事をこなしている。息子の件で負い目があるからか社長は快く引き受けてくれた。相手の名前は虎次は頑として答えなかったが、今後出産したとして、無事に育っていけるまでは仕事はできないし、その先もオメガになった以上これまで通りとはいかない。今はまだ長期休養扱いの予定だけれど、場合によっては退所を申し出なければならないだろう。

 祖父にだけ連絡を取って、ここに戻ってくる。生まれたら絶対にこの家で育てたいと虎次は思っていた。竜太とももの写真もいっぱいある。近所も皆幼いときからの付き合いなのだ。困ったときは手を貸してくれる。産んでからの不安は正直あまりない。

「だから俺の分までお前が頑張ってよ」

 俺は、慶に分けてもらったこの生き甲斐を立派に育て上げる。それが新しい夢だ。華やかな世界とは無縁の地に足の着いた生活。悪くないと素直に思える。
 
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